慢性欲求不満的世紀末情報化社会

<引用>

もう二十何歳にして、まさに机に座って本を読んでいるだけで、それを理解したという自信が自分の側にある限りは、何でも物が言えるらしい、本も出せるという時代になりましたよ。浅田君の本を読んでごらんなさい。徹底的にカタカナの人名が羅列されていて、知らない人の引用が連続しているわけです。あのすべてを知っている読者というのは、ほとんどいないだろうと思う。」


「その通りだと思います。」


「彼の本には、精神分析学においてはいまだ充分に消化されていないフロイトやラカンが次々と引用され、その名が舞い踊るのです。それができるのは、彼に精神分析の知識があっても、精神分析の経験がないからだと思います。僕たち、精神分析を実践する人間は、”経験もないくせに”と言いたいところでしょう。もちろん彼は、”知らない”ことを承知していますが、それでも語り続ける。体験がないことに対しては、うつむき加減で歌った70年代とは違う。

 しかし、あの本もまた、読者に”知らないくせに”をつきつけているのではないかな。これは浅田君の逆説的な戦略なのかもしれないと思う。今の知識は、単なる記号の集積にしかすぎないと。この情報過多の、情報が体験の裏付けがなく舞いあがるという現象を、実際の本にして読者につきつけている。そして、読後感と言えば、みんなわからないと言い、経験は空白のままです。読むとか、わかるとかの経験のないまま本を脇に抱えている。あのクリスタル族の田中康夫君の場合と似ているし、浅田君はそれをはっきり読者につきつけている。」


「今度は、知識というブランドですね。」


「そう。戦略としてはわかるけど、どうも僕には、何かついていけないんだなぁ。つまり、僕がいつも言ってるような、一番本当に手応えのあるのは経験であり、一番傷付いたのは友人の冷たい視線だし、一番悲しんだのはオヤジが死んだときであるし、今でも心の傷となって残っているのは、レコードがヒットしたことでもなく、逆に売れなかったことでもなく、僕の同僚のひと言だった。

 つまり、マスコミ的自己じゃなくて、実人生の流れとしての自己の手応えと、素晴らしさ。抜けがたく逃げられない実人生という場所。これを証言していかないとウソになると思うんです。(後略)


(略)


「つまり、きたやまさんのお話を要約させていただくと、かつては経験がないと知識が保証されなかった時代があった。でも、若い人たちはそうではなかった。

 しかし、今や、みんなが経験がないのにしゃべり続けてしまって、知識、経験のなさに後ろめたさを感じなくなってしまったように見える。でも実際は実人生という経験の部分では、いくら知識の部分で楽しがっていても、手応えのなさや、むなしさを感じていると。」


「そんなところでしょうか。そして、そのむなしさを感じているほうが実人生のありかたです。」


「そんなところでしょうね。」


「質的には現代人が特にそうなのではなく、昔も今も同じように、人は悩んだり、ぼけたり、死んだりしているわけです。(後略)


(あとがき・前略)たしかに、この文章(ここまでの本文書式)には現代を入れ子にして劇中劇にしてしまえるほどの広がりはない。しかし、この書き手の視点の位置こそ劇化現象と三分法構造を用意するところであることを知るのは重要である。なぜなら、このような心理学的解説にほんの少し”わかりやすさ”と”楽しさ”を加味したものがそのまま、人生を箱にいれてその外側でそれを解説するキャスターや新聞解説者の論調になることがあるのである。そのもとの発言にはそういう意図がなくとも、精神医学ふうの言葉が、劇化ジャーナリズムにより厭味や当て付けとして使用されることを、私たちは知っているのである。その上、劇中劇のほうに私たちは出演していないつもりであり、多くの解説者たちが観客の側から育ってきたつもりなのである。つまり、解説者として出演する観客たちなのである。きのうまで、客席にいたものが批評家として出演しはじめたのである。一億総演劇批評家時代とは、すべての人たちがあらゆるものを劇のようにみなして、出演者の素顔や楽屋の風景を解説するようになったもの。(後略)


<引用おわり>



 内容的にも興味深いとこを抜き出してきましたが、引用した理由としては、このくらいに丁寧に説明解説をしなければ、自分以外のまったくの他人に通用する文章にはならない、という例題としてです。(略してあるので、これでも解からんという読者の方が多いでしょう、知りたければ「他人のままで」きたやまおさむ氏の本をお読みクダサイ)

 この長々とした引用部分、途中で出てくる”つまり、きたやまさんのお話を要約させていただくと”からの数行ほどの内容を引き伸ばしただけとも言えるんですが、この数行の内容を事前にしっかり理解している読者でなければ、この要約された内容では、何を言っているのかチンプンカンプンなのですよ、ということです。



 描写を入れると面倒臭い、そう思っている読者は、なんのことはない、自分が知っている範疇の内容の書物にしか手を出していないというだけです。


 さて、補足説明ですが、この著書は約三十年前に書かれたものですが一昔前の世相をほぼ予言していました。今はこの内容で予言された世相のさらに先、という気がしましたので直接は終わった話という感覚で読んでいました。重要な点としてはラストの後書き引用の部分です。これは現在進行形で解消はされていないと思います。


「ナンチャッテ少年」という喩えを交えて書かれます。現状、記号化演劇化した情報と、リアルに体験された経験という二つは必ずしも一致しない、という結論。ちょうど、バーチャルとリアルの関係のようなものですね、二つの世界を人々は支障なく行き来できるわけですが、範囲の認識は改められねばならないかも知れません。ただ個人的な体験だけが実のある経験であり、それ以外の一切合財は虚、バーチャルです。


 バーチャルというものは、引用部にもありますが「実人生という経験の部分では、いくら知識の部分で楽しがっていても、手応えのなさや、むなしさを感じている」というところが真でもあろう、というわけです。何も残らない。これも実は引用していないだけで著書の中には書かれている部分です。


 人々は、実人生だけが経験であると解かっており、しかし氾濫する虚の情報の渦からも逃れられない、それが虚であると理解するがゆえに実人生もまた空しくならざるをえない、という論理ですね。


 人々は一億がすべて書き手に回ることになるだろう、とも予言されていて、今のソーシャル時代をも看破していたと言える書物です。その時代の到来後には、職業としての書き手は存在し得ないかもしれない、とも予見し、遊びの範疇としての創造活動、マスコミ視野の「楽しませる主眼の」バーチャル的創作活動というものは、個人の趣味に帰結する、とも書かれます。

 製作する個人そのものの資質が問われ、その精神性が特異で、かつての時代には変人や狂人として阻害されていた人々が、その内面性の特異さでクリエーターとして活躍する時代になるかも知れないとも。


 書き手本人の内側の、実人生をリアルに表出させた創作物にスポットがあたる、これもなんとなく心当たりというか、幾つか思い浮かぶところです。虚が氾濫していることを人々は熟知している、その上でという状況も、なるほどと納得がいく部分です。


 虚を重視して中身が空っぽになる人や、実人生と虚の世間でギャップを埋めきれずに病む人なども予言されていました。その記述がひと昔前として、延長の今この時代はどうなったのだろうか、という視点をもって世間を見るとなかなか面白いかもしれません。

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