「作者は死んだ。」ブンガクの細道④

 さて、色々と語ってきました。文学形式の書き方をすれば、文章的にはカッチリとしたものを書きやすい、という話。この、文章的にはという点はすなわち、描写量をどうするかとか端折りをどのレベルに止めるかとか、そういった事柄ですわ。まぁ、端折りレベルの統一規格を借りると思っておいていいです。


 まず、端折りのレベルですが、これに関しては既に膨大な年月かけて形成された「ブンガク」というジャンルで確立されてしまってるものがあるので、今さらこれに外れた規格を持ち込もうというのはKYでしょう。つまり、ラノベやWeb小説に見られる、ゴブリンは説明なしでいい、は通用しません。読者に嗤われるだけっす。(深謀遠慮も知らずこの若造が、てなモン)


 ここの基準は明確に、『現実世界に存在し、ポピュラーで万民がまず知っている事柄については端折って良い』という事だと思ってくだされば。つまり、林檎だの手足だのといった、完全に説明が不要であるもの以外は、なんらかの断りを入れねばならないという規格に統一されているってことです。この説明の分量は任されてますが。


 ここ、間違えないでほしいのは、端折りの規格すら統一が為されていないようなジャンルでは物の良し悪しどころか評論的な分析すらも行えない、ということです。個々人のフィーリング次第って場所なので、そこには文章技巧的な判定も入り込めないんでね。フィーリングがモノを言うんだから、規格に沿う沿わないがない、つまりどんな文章でもOK、これは正しい、これは間違いってのも「ない☆」のです。


 あそこでの「読めない文章」てのは、「読めない文章」てだけなのさー、それがイカンわけでも間違いってわけでもなく、本気で何でもアリになるの。


 それと比べりゃ、ブンガク式の方は少なくとも正解不正解はあるからね。ご安心。


 端折りが何でもかんでも許されるって事は、ひいては、その延長で「小説とは自由散文形式で書かれた文章である」て定義そのまんまに、文章であればなんでもオッケーうふふ、なのであるっつってんのと同じなワケっすわ。フリーダム!


 マニュアル欲しいくせに何をまたそんなフリーダム甚だしい場所で書いてんだか、ワケが解からんわい、てのが私の抱く正直な感想。お手本通りで済む簡単さと何でも許される自由さとを両立させようという運動が作り出したこの現状、てね。この先、どうなるんでしょうかね。話を元に戻して、と。


 ブンガク式の利点は、やはり何といっても「端折りレベルには明確な基準がある」という点です。先に上げたような事柄以外は端折っちゃダメ、てのが統一されているので、読者としても非常に判断がしやすいです。「ここのコレ、端折ったらアカンやろ、書く技量がないのかよ、」てなモンです。


 つまり、端折らず書くのが基本ですから、文章技量もいかに端折らず書いて読ませるか、に重点が置かれ、説明だとつまんないだろうから描写で、という具合ですべての理屈はここにツリー状態でぶら下がってたりします。だから統一規格として確立されている端折り基準は大事なのね。

 そらそうでしょ、ある作品ではコレは端折ってない、こっちじゃ端折ってある、なんてバラバラだったらその都度で読者の頭を切り替えてかないといけないじゃん。そんな労苦なしで、端折り規格くらい統一されてた方が読者には楽でしょ。端折ってあるってのは本来は違和感で、読者の方で忖度してんだからさ。


 さて、ブンガク式における端折りレベルは林檎あたりまでと理解いただいて(これでまだ自信がなけりゃ市販の文学を読んで感覚を身に付けてください)、描写の量ですけども、これは割と作品ごとですわ。こんだけと決まった規格はないです。

 この描写量も、最初の設計段階で方針を固めておくべき事柄ではあるでしょうけど、規格的にこんだけみたいな制限は存在しないです。心情描写たっぷりの見本としては「性的人間」だの「セブンティーン」だの大江健三郎を読めば、これが無制限に許されるのは一目瞭然で理解されますし、風景描写多量ってのも誰だったか、海外勢の超メジャー作家に居ましたんで。ほぼ半分風景だったよーな記憶ががが。


 ただ、その心情でも景色でも、設計上の描写する理由ってのは欲しいです。心配しなくとも、読者も評論家もそこんとこは端から「あるものとして」読みますんで安心して意図を込めて書いてください。てか、あるってのがこの場合のお約束なんで。


 さて、一文単位で設計上の役割ってのを付けてしまうと、整合性って部分を厭でも考えねばならなくなります。読者はなんせ修飾語や副詞のレベルで意図があるだろうと思って読むので、記述上でチグハグがあればすぐ気付いちゃいますんでね。


 ブンガク式に書くケースでの改稿作業では、なので、、チグハグがないか、違和感がないかをチェックします。


 するってーと、たまーに問題が起きるんですね。ある読者にとってはコウなんだが、別のある読者にはソウだ、とかです。ここを両者におもねると、ブレます。

 これを防ぐ方法が、先に挙げておいた<受け手>を一人と想定する、ということなのです。Aさんにとってそれはコウでも、この受け手がBさんと同意見なら文中でそれはソウと書かれます。しかし、Aさんは受け手がBみたいな存在だと認識してますんで、Bならこれはソウなんだな、と違和感なく理解が出来るわけです。もちろん、Bやソウという考え方に反発は残るでしょうが、読書の違和感にはならないはずです。


 上記の手法が、ブンガクにおける違和感の解消、対象を広く取らず、一人に集中することで他者の納得につなげる方法論です。



 AとかBとか、コウとかソウとかじゃ伝わりにくいんで、うーん例題は何がいいかな、同じモノなんだけど個人で見え方は違うってモノ。難しいな、ちょっと考えときますわ。追加で。戦争と平和とか、ポリコレとか、まぁ小難しいモン全般っすけど。

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