「作者は死んだ。」ブンガクの細道①

 高校国語の感想文問題までは、(今はどうだか知りませんが少しは改善されたんでしょうかね)、えー、「この文章から、作者がどういう考えを持っていたと思いますか?」なんて設問がされてましたが、大学あたりからは一転しまして、「作品と作者は無関係。作者は死んだ。」なんて手の平返しをしてきます。聞いたことある人も居ると思います。


 学問としての文学批評では、作品というフィクションには登場人物同様の、フィクションとしての作者が登場し、これはリアルでの作者とは別個の人格である、とされる思考法が現在の主流らしいです。一つの派閥と捉え、これが正しいとかは言わないんですけど。


 フィクションの、作中に存在する作者を<語り手>といいます。三人称の地の文に現れる人格などのことですね。ここを作者は自分と切り離してしまうと巧くいくって話をしたいわけですわ。

 地の文を書く際に、、「地の文さん」というナレーターだか語り部だかを用意するわけです。ハードボイルドなど、地の文を出来る限り無機質にしようという文体の場合は、この「地の文さん」が隠れよう、隠れようとしているってことです。(これに関しては後ほど追記)


 メタフィクションなどでは、登場人物がこの地の文と会話をするというものまでありまして、その場合は一部キャラには認知されているという設定を持つ「地の文さん」なわけです。

 かように、「地の文さん」は一人のキャラクターとして、他のキャラクター同様に人格設定がなされ、目的をも持っているわけです。この設定が曖昧だったり適当だったりすると、文章レベルで作品が崩壊します。


 この「地の文さん」、実は一人称であっても存在しているので、要注意なのです。


 地の文の人格は、例外を除いて作中では唯一、「読者さん」を認識している存在だという点が重要です。例外ってのは、映画『デッドプール』の主人公みたいな特殊設定持ちのケースですね、彼は自分がフィクションだと知ってますんで。


 通常、一人称の主人公であっても、地の文を兼任しつつもわけですんで、その一挙手一投足に措いても、観客を意識した得捨選択など行わないはずなのです。しかし、作品というものはそれをしない事には始まらない、そこで、一人称主人公の地の文には主人公の語りを操る隠された三人称「地の文さん」が存在しているわけです。解かる? 大丈夫? 伝わってます? ちょっと込み入った理屈ですけども。


 この三人称「地の文さん」が、一人称主人公を操って、これは思考させる、これは不要、これは後回し、というマネージメントをしています。なので、一人称はある意味で三人称一視点とほぼ同じなのです。

 昔の作家たちは、この問題と真摯に取り組みまして、なんとかしてこの操り人形問題を打開しようとして、結果、「ワタクシ小説」へと傾倒していった、という感じではないかなと思います。ワタクシも独学甚だしいので勘ですが。


 一人称主人公が赤の他人でない作者自身であれば、それを操る「地の文さん」も作者本人から派生する分身なのだから、整合性として操り人形ではなくなるだろう、てなトコロですかね。

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