「作者は死んだ。」ブンガクの細道②

 読者からの不満としてよく、「押し付けがましい」とか「打算が透けてみえる」とかいう意見があります。物語の不幸な結末などは、結局のところ、ということなのですね。そこに、不幸を憤るような地の文が出てきたら、そりゃ、「お前がそう仕向けたんだろ、」と読者が思うのも無理はない。


 この恣意性、最初から決まってる感、これを払拭するにはどうすれば、と考えて試行錯誤した結果のハードボイルド文体、私小説文体、なわけです。そう考えるとこれとは真逆の方向性であるメタフィクション文体、作者が読者に語りかけちゃうってのは、一周回った正攻法なのかも知れない。


 さて、<語り手>の話がしたいわけじゃありません。この語り手の前にはいったい何があるのか、という話がしたいのですな。


 語り手は、物語がフィクションだと知った上で構成やら言い回しやらを考えている、つまり、作品に内在する語り手の前には聞き手が居るわけです。


 さてさて、この聞き手というのはそれでは「リアルの読者」を指すでしょうか。


 ここで、「作者は死んだ。」です。ブンガク評論において、ザックリと作者と語り手を切り離しておきながら、ご都合ヨロシク読者だけは健在ってハナシはない。そう、作者が死んだ紙面の世界には、生身の読者だって死んでんですよ。そう解釈するのがフェアってもんでしょう!


 つまり、<語り手>の前にいる<聞き手>というのは、読者ではない。読者層ではないんです。生身の人間の読者ではない、世間でもない、それは語り手が創造した聞き手という架空の読者です。ここで、物語は完璧に実世界とは切り離される。


 今までさんざん、やれ読者層だマーケティングだ書いてきましたが、ブンガクの地平においてはそんなものは参照資料の1ページに過ぎない。読者は死んだ。そこにあるのは、語り手が語るべき対象としての、理想の読者だけなのです。


 作者も読者も作品世界も、紙面に内包された閉じたインナーワールドであるから、そこでの理屈は一貫します。外世界であるリアルの事情は無関係。存在しないものとして無視を決め込む。


 描写がどうの、書き方がどうの、批評がどうのは、実はブンガクにおいては消し飛ぶんですね。閉じた完全世界なので。(笑





 エンタメはそうもいきません。少なからず、読者には生モノの読者も意識に置かないといけない。ビジネスですんで。

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