5-4 最凶


 ほぼ一ヶ月前に訪れた時に見た光景とはかなり様代わりしていた。


 工業団地内を蹂躙していたの威勢は衰え、容赦無く照りつける太陽に枯れ果てんとしていた。

 水嵩は一番深いところでも、膝頭の上ほどになっていた。

 多少の歩き辛さはあったものの、工業団地入口から発砲スチロールの厚板を押して、自社工場まで三十分も掛からなかった。


 ——ようやく引き始めたな、大代君と来た時はまだ胸んとこまで水があったからな

 ——そうなんですか……これなら工場内は20cm切ってるかもしれませんね

 ——うん、なんとか無事に検査機は運び出せそうだな


 途中、前にも目撃した「籠城組」の洗濯物が風に靡いている光景が目に入った。


 ——彼らが、本当の勝利者だな…… 全くもって脱帽だ

 ——ですね、この分だと、あと十日もすれば水は干上がるでしょうね


 ただ、マスク越しに鼻をつく悪臭は一層酷くなっていたし、流れ着いた生活ゴミの山が辺りを埋め尽くしていて、これでは本格的な「復興作業」はまだまだ先になるなと、覚悟させられた。


 十人掛かりで担ぎ上げた検査機を、発砲スチロールの厚板の上に載せる時が一番危うかった。ちょうど中央に乗せないと、背丈のある検査機はバランスを崩して傾きその都度総掛かりで支えて、板のバランスの中心を探し求めた。

 帰りは、さすがに一時間以上も掛かったが、懸案の問題が一つ解決すると思うと大した苦労ではなかった。


 この日、もう一つの朗報が平田たちに力をもたらした。


 ——アウターリンク高速道の左回りが開通したらしいですよ、社長っ


 前原がTwitterから得た情報を教えてくれた。


 ——おおぉ、そりゃ助かるなぁ、ちょっとは空港線の渋滞が緩和されるだろう

 その時まで、平田は三時間近くかけてバンコクに帰っていた。徐々にではあるが、大洪水がもたらした災禍は下火になりつつあった。


 仮工場に戻った平田たちを待ち受けていたものは、相変わらず沈黙する機械の姿であった。


 ——まだ、見つかりませんか

 ——ええ、被災した日系企業の多くが同じように日本から機械を持ち込んでいたんでしょうね……完全に品薄状態です


 落胆し肩を落とす平田に更なる追い討ちが待ち構えていた。

 平田の携帯電話がポケットの中で不気味に振動した。


 ——もしもし、鈴木ですが

 T社の鈴木社長からだった。その声音がいつものトーンではないことを平田は瞬時に感じ取り、心臓が踊った。


 ——大変なことになりましたよ、平田さん

 ——えっ!?


 鈴木社長が動揺を隠さず平田に言って寄越したことは、完全に平田を打ちのめした。膝がガクガク震え、携帯電話を持つ指も痺れている。


 ——御社の日本で生産された製品の半数が不良品です、使い物になりませんっ! このままだと三十日の夕方には完全にラインは止まります。

 至急、対応願います、至急ですっ!

 —— は……はい、……っ


 長く営業畑を歩いて来た平田であるので、クレームの電話には慣れていたが、このクレームは、核爆弾なみの衝撃で平田の忍耐力を破壊した。


 ——ラインを止めたら、どうなるか、お分かりですよね? 平田社長

 ——それは……っ


 それは、全てが終わることを意味していた。


 言わずとも知れたことを敢えて口に出さねばならないほど鈴木社長も追い込まれていると悟ると、平田は、今度ばかりは終わったと、覚悟した。


 この超ド級の「試練」こそが、神が平田のために残しておいた最後の試練ラスボスであったのか。


 昨晩、命までは取られまい——、そう開き直った平田であったが、それは命を捥ぎ取られるに等しいの試練であった。


 平田は、膝から崩れ落ちるようにコンクリートの床に膝をつき、力なく肩を落として瞑目した。


(もう……だめだ)————。


 

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