5-2 里心
その日は丸一日、原因究明に明け暮れた————。
工場建屋の入り口から西陽が深く差し込んで来ていた。
電気工事会社の日本人の責任者が深刻な顔で平田に報告を寄越した。
——今んとこ……、原因がわかりません
——わからん、って、あんたっ!
平田は、掴みかからんばかりにその日本人ににじり寄ったが、深刻を装うその顔の裏で、わざとらしく腕時計で時間を確認するのを見て悟った。
この男は帰り道の車の渋滞の方が気になっているのだ。
そして、今日の作業はこれで終わり、明日朝から再開しますと言って帰ってしまった。
——タイ人作業員が残業するのを嫌がってるんでしょうね。でなきゃ、普通は日本人なら帰りませんよ、この状況で
前原も重い息を吐いて、項垂れた。
怒りの火が少し下火になると、急に疲労と空腹が押し寄せてきた。平田ほかの日本人は昼食も抜きで彼らの作業に立ち会っていた。
——社長、飯にしませんか? ミズキがまた飯を作ってきてくれてます
平田は急に何もかもが、バカバカしくなってしまった。つくづく日本人の生真面目さを、その時は恨んだ。
——そうか、そりゃ有難いなぁー、うん、飯だっ!飯にしようっ
自社の従業員も帰らせ、工場には日本人四人だけが残った。
——みなさん、お疲れ様ですッ! お口に合うかどうか、自信ないんですけど……
そう言って、ミズキは五つほどあるパッカーの蓋を開けた。
——おお、肉じゃがに、ぶり大根の煮付けかっ!
——フジスーパー*(1)で日本から空輸されたのが売っていたんです
新潟産のコシヒカリのおにぎりを片手に、みな無言で箸を動かした。
——美味いなぁ、ぶり大根なんて何年ぶりですかね……
大代の幸せそうな顔を見ていると、さっきまでの苦難を
——大代さん、タイ語のレシピ作って来ましょうか? 奥さんに作ってもらってくださいっ
ミズキの笑顔にも救われた。いつの時代も苦難に遭遇した男どもを救ってきたのは女性の笑顔で、それはきっと、父なる神が男どもに与えし「試練」を乗り越えさせるために、母なる女神がそっと差し出す手に抱かれた温もりそのものなのかもしれない。
——前原、おまえ、こんな素晴らしい
——はい……、でも今度は……“私、失敗しませんから”
くしくも、前原のその
——そうそう、年末の日本一時帰国のチケット、早く申し込んでおけよっ。たぶん俺は、この分じゃ帰れないだろうけどな……
——ありがとうございます。何とか、間に合わせたいですね……
しかしなんで回らないんだ、ちきしょうッ!!
——リミットは、今週いっぱいか……
——社長っ、機械さえ回れば、私一人になっても、徹夜でもなんでもして、必ずブツは上げてみせますからッ!
ミズキも、大代もその言葉に頷いている。
——うん……んっ……
ここんとこ、よく涙腺が緩む自分に呆れ果てた。
——よし、また明日だっ! 明日から、また頑張ろうっ!
その日の夜、娘の紗英から電話が入った
——パパ、大丈夫っ!? 生きてる?
——あはは、この通り生きてるよ。心配しないでいい、何とかなるから
父親はどこまで行っても、父親であらねばならない——と、まだ平田には虚勢を張る余力が残っていたようだ。
——なんか困ったことないの? 食料とか水とか、送ろうか?
——大丈夫だ、津波が来たわけじゃないんだから、それより今年の正月は帰れそうにないから、そう伝えておいてくれ
娘の声を聞きつい里心がついてしまう平田であったが、目の前の大きな壁を乗り越えないことには、例え日本に帰っても落ち着かない正月を過ごすことになると諦めていた。
——(来月はもう、十二月か……)
今年の大晦日、自分がどんな心境で新年を迎えているのか、それを考えると明日からの一週間が最大のヤマだと気を引き締めた。
————————————————
【脚注】
*(1)「フジスーパー」:バンコク市内「スクムビッツ」地区にある日本食材を扱うスーパーで一号店〜四号店まである。輸送費や関税が乗っているため割高ではあるが、殆どの日本食材や調味料が手に入る。隣接して日本食店が軒を連ねているので、休日ともなれば家族連れで賑わっている。
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