4-8 月夜

 前原の案内で行ったそのを見て、平田は思った。


 奇跡だ————。


 そう思うのも無理はない。その工業団地中央部に走る道を挟んで両側に貸し工場の建屋が並んでいるのだが、南側にはまだ60cmほどの水が被っているが、視線を右に捻ると北側のそれには10cmほどの水が申し訳程度に被っているだけで、所々アスファルト面すら顔を見せていたのだから——。


 ——なんだこれは……どうしてこんなことになるんだ

 ——社長、ちょっとしゃがんで見てください。明らかに北側の方が高いのがわかりますから


 平田は、しゃがんで低い目線を作り、向かって左からゆっくり右へと視線をずらしていった。

 なるほどそれは緩やかながら勾配がついているのがわかった。


 ——これはしかし、わざとじゃないな。造成時のミスとしか言いようがないよな。でなきゃ、南側の住民だけが損するようになってるじゃないか

 ——理由はわかりませんが、明らかに北側の方の盛り土の量が多いのがわかりますね。


 前原は、外注先の会社の社長を平田に紹介した。


 ——それにしても、これはラッキーとしか言えませんね

 ——ええ、大きな声じゃ言えないですけど、こっち側で良かったです。私も道が通れるようになって、祈るような気持ちで来たんですけど、なんか拍子抜けしちゃいましてね……


 工場建屋の前は車二台ほど停められるスペースがあるのだが、そこはすでに干上がってコンクリートがむき出しになっていた。


 ——お隣は、空き家になってもう長いんですか?

 ——ああ、去年からずっと空いたままですね。裏口が開いてますよ、ご覧になったらいかがですか


 黙って入るのも気が引けたが、こういう時だ、まぁーいいか———と、裏口のドアを押した。

 中は薄暗いが、天窓からの光で粗方のものは見て取れた。


 ——ここなら、ギリギリ機械10台は入るな……。二階が事務所になっているのもいい。問題は短期で貸してもらえるかどうかだな……

 ——はい。オーナーを探して聞いてみましょうか


 外注先の社長からオーナー会社の電話番号を聞き、前原が尋ねてみると、通常は一年契約だが、月極めだと割高になるがそれでいいなら契約すると言って来た。

 オーナーとしては、ずっと借り手がつかないままよりマシだと考えたのだろう。

 

 ——よし、此処に移ろう


 平田にそう決断させたのは、やはり慣れた土地柄でもあったことと、既にアユタヤ近辺の工業団地では水嵩が下がり始めているという情報があったからである。


 ——そうですね。あそこでビクビクしてるより、此処なら元の工場からも近いですし、従業員も帰って来やすいでしょうから


 ——ただ、この近辺のアパートはまだ冠水したままだから、当分はあそこから此処まで通う必要があるな

 ——うっ……それは気が遠くなりますね……、今日も此処に来るのに3時間掛かってます。往復6時間の通勤ですか……


 しかし、実際はもっと酷いものだった。

 その日の帰路はバンコク市内の首都高速に入るまで、5時間掛かった。新幹線を使えば、大阪から秋田くらいまで行ける計算だ。


 長く果てしなく続く車列は、近づくハリケーンから逃げる人々のそれと同じだった。

 しかし、今の平田たちは、一日も早く操業を再開させねばならない切羽詰まった状況であって、考えている時間も選んでる余地もなかった。



 平田は、車窓から夜空に浮かぶ月を仰ぎ見て、あの地がどうか「安住の地」であることを祈った。


(もう、これで最後にしてくれ……頼むっ)—————。


 

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