4-7 奇跡
あくる朝、ホテルの支配人が出勤しようとする平田を捕まえて言って寄越した。
——ここにも洪水が来るかもしれないので、万が一の時は自主的に避難してもらいます。ですから、一旦、昨日までの宿泊費を清算してほしいのですが
危機管理の薄いタイ人ですら危険を感じていることを知り、またしても落ち武者のように南へと落ち延びていく自分の姿を思い、歩みも重くなった。
駐車場では、前原とミズキが車に乗り込もうとしていた。
——ああ、おはよう。どうだ、バンナーのスタバでも行くか
——ああ、了解です
ホテルの朝食に出る珈琲はインスタントな上に冷めていて、とても珈琲の味はしなかった。珈琲好きな平田にはそれだけで一日の始まりが気の重いものになっていた。
——ホテルもヤバいみたいだな
——ええ、彼らが言うから余計に信憑性がありますね
——俺ら、ジプシーか落ち武者みたいだよな
——あはは、いや、ほんと、そんな感じっすね……
平田のその言葉に前原も笑って寄越したが、すぐに真顔に戻っていた。それは、単なる“笑い話”で済まされないとわかっているのだろう、スタバの朝の喧騒には不似合いな沈黙が三人の席だけに漂っていた。
——ところで、ちょっと耳寄りな話を聞いたんですけど
——ほぉー、なんだね
——我々の工場、あっ、被災した工場ですけど、あそこから北に4kmほど行ったところに小さな工業団地があるのをご存知ですか?
——いや、知らないな。うちから北に行って、最初にあるのはナワナコン工業団地じゃなないのか?
——いえ、それがあるんです。うちの工業団地よりは規模は半分くらいの民間デベロッパーが運営しているところです
——ほぉー
平田は、熱い珈琲を啜りながら、前原の話の続きを待った。
——で、そこに入居している半数の工場が、被災してないらしいんです
——え? いやいや、我々のとこですら1.5mも冠水したんだぞ? そんな話ってあるのか? もし本当なら、俺はこの先、神なんて絶対信じないぞッ!
平田は、元々、信心深い人間ではなかったが、今、自分の身に降りかかっている「試練」の数々を思えば、それらは気まぐれな神の悪戯だとしか思えないでいたのだ。
——私も、最初、それを聞いた時、同じ思いでしたよ。嘘でしょっ、って思わず言ってしまいましたよ
——で、もしそれが本当のことだとして?
——その被災していない工場建屋のうちの一軒が、今、空き家になってるらしいんです。うちの外注先の隣らしいんですけどね。この情報もその外注先が教えてくれたんです
——ふむぅ……
——社長っ、今日にでも行ってみませんか? こっちは大代さんに任せておいて、どんな状況なのか見てみる価値はあると思うんですが
——しかし……あそこは今でもピックアップでなきゃ行けないんだろ?
平田は、大代のピックアップトラックですら水が侵入してきたことを思い出していた。
——いや、空港線の北行きが、降りてから1車線ですけど走れるようになったらしいんです。
——おお、そうなのか。俺たちが行った時はまだ腰の近くまで冠水してたんだがな……よし、わかった! 俺の車で行こう。君の車は此処に置いておけばいいだろう。ミズキさんは、残ったほうがいいかな……
——いえ、一緒に行かせてください! 私もこの目で確かめたいんです
この大洪水の本当の現場を……
平田は、ミズキの真剣な眼差しに負けて、結局三人で行くことになった。
「空港線」の高速道路に乗るのはあの日以来であった———。
あの日の帰りに見た、路肩に駐車された車の列は北行きの車線にも連なっていて、所々で二列に駐車されているところもあった。
「ドムアン空港」の手前あたりから車の動きが止まった。この高速道路を降りてから北に向かう幹線道路はタイの大動脈であって、物流には欠かせないものだったゆえ、政府も人手をかけて盛り土をして一車線でも車を通せるようにしたのだろう。
いつもなら十分で高速道路の終点まで行けるその距離が、二時間も掛かった。途中、例の「屋台」が何軒か立っていた。弁当やジュース、お菓子の類まで売っている。
——(高速道路のど真ん中で、商売か……)
そこで買ったジュースを片手に高速道路の路肩から身を乗りだして、眼下の「ドムアン空港」が水没しているのを見物しているタイ人が何人も居て、なんとも言えない気分にさせられた。
空は抜けるような青で、変わらぬ南国の容赦ない陽光が「ドムアン空港」を覆い尽くすやつらの上に降り注いでいた————。
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