4-6 放心

 進めていた、機械搬入の日程打ち合わせは、一旦ペンディングにした。

 此処で、操業を再開してもいいのか判断がつくまで、準備を続けてもそれは徒労に終わるだけであった。


 朝、従業員をアパートに迎えに行き、工場まで運び、夕方まで工場の中でうろうろするだけの日が三日ほど続いた。

 従業員もすることがなく、工場裏の木陰で昼寝するもの、トランプを持ち込んで賭けポーカーをするものまで出て来た。会社内での賭博行為は一発解雇の対象になる。しかし、それとても、平田は目を瞑ることにした。彼らも内心では疑心暗鬼になっているに違いないのだ。


 ほんとうに、うちの会社は大丈夫なのか? ——、そう思っているものも居るに違いない。

 それは、トップである平田が何も判断が出来ないでいることが原因であるのかもしれないが、今度ばかりは、平田も身動きが取れないでいた。


 裏の川の水嵩はほとんど変わっていない。このまま水位が下がっていくことも予想されるが、上流の「ラッカバン工業団地」近辺や「スワンナプーム空港」あたりの状況を聞けば予断は許されない状況だった。


 政府は、「バンコク都」に続き「スワンナプーム空港」にも厳重守備命令を軍に下していた。

 すでに旧空港とは言え、「ドムアン空港」を水没させているタイ政府はこの上、新国際空港である「スワンナプーム空港」まで沈めてしまうなら、それは世界に大きな恥を晒すことになると共に、「ASEANの優等生」*(1)とまで言われたタイ王国の信用まで失うことになるからだ。


 その日の晩のことだった————。


 なにもすることがなく、午後十一時にはベッドに入っていた平田が、暗闇のなかでトイレから何かが蠢くような音がするのを聴いた。


 ゴボッ——


 ゴボゴボ——


 平田は飛び起きて、灯りを点けトイレを覗き込んだ。

 そしてそこで目撃したもの——、それは平田を完全に打ちのめすに十分なものだった。


 ドス黒い水が、トイレの便器から逆噴射して侵入して来ていたのだ。

 

 、だった————。


 便器の中のその様は、やつらが自分を弄んで小躍りしてるように見えて、糞ったれッ! ——と、吐き捨てドアを叩き閉めた。


 ——(どこまで追いかけて来やがるんだッ)


 窓を開け、滑走路に降りようと高度を下げて突っ込んで来るジェット機の機影を見ながら、煙草の紫煙をゆっくり吐いた。


 ——(もう……どうにでも、してくれ……)



 平田は、逃げる気力を失って捕縛されるのを待つ罪人のように、生気なく両の肩を落とした。


 東の空に向かって飛び立っていくジェット機の尾翼の「JAL」の文字が平田に郷愁を誘った————。


——(帰りたい……)



 ———————————

【脚注】

 *(1)「ASEANの優等生」:「ASEAN」は「東南アジア諸国連合」のことで、加盟国は現在10各国で、本部はインドネシアのジャカルタに置かれている。タイは加盟10カ国の中でも早くに後進国から脱し、中流国へと目覚ましい経済発展を遂げた国として、域内では「ASEANの優等生」と呼ばれている。ASEANは6億の人口を抱え、経済規模を示す GDPは世界第7位に数えられるほどの経済域に育っている。

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