4-2 悲哀

 平田がスーツケースのパッキングをしている傍で、テレビのニュース番組でバンコク都知事のスクムパン氏の自信満々な表情が映し出されていた。


 【作戦敢行!】——というテロップが付いている。


 バンコク市内とその郊外の境界となっている運河が決壊状態で、小規模な補修をいくら施しても圧倒的な量の水の力には勝てず、バンコク市内への浸水を許していたのだが、スクムパン都知事は軍と協力して、その境界となっている運河沿いに大型の土嚢ビッグバックを設置してこれ以上のバンコクへの浸水を防ぐと表明しているのだが、運河の向こう側の住民はプラカード掲げて猛反発している。


 バンコクは救って、俺たちは見殺しかッ!————。


 おそらく、そんな風なことを言っているのだろう、住民の悲壮な声だけが平田の耳に届いてきた。

(後々のニュースで、この積み上げられた大型の土嚢を、反対派の住民の手で撤去されたり袋が破られて土が剥き出しになった映像が流れていた)


「バンコク」は国際都市である。多くの外国人が居住し、観光客もやってくる。そのタイの顔とでもいう「バンコク」を死守することは国策という意味では正解なのだろう。

 しかし、その傍で犠牲となる人々も居る。平田は感情移入することなくそのニュースを淡々と聞くしかなかった。


 その日の夕刻、前原から連絡が来た。


 ——南部のホテルやアパートはどこも一杯です。ちょっとマシなとこは全部埋まってしまってて、やっと取れたのは空港近くの辺鄙へんぴな場所にあるホテルだけでした。

 ——そうか、まぁ、仕方ないな。バンコク都民もってわけか

 ——明日から一週間の予定でブッキングしておきました。一泊、600バーツ*(1)ですから、それ相応のホテルだと覚悟してください。

 ——ベッドとトイレさえあればいいよ


 メールに添付されて来た地図を見ると、確かに日本人なんかが行くような場所ではなさそうだ。


 か、洒落にもならんな———。


 平氏一族が都を追われ、どんどん西へと落ちて行く様が被り、自分たちもこの先、を求めて南へ、南へと落ち延びていくのかもしれないと、ついついネガティブなことを考えてしまう平田であった。


 翌日の夕方、平田は前原の予約したホテルに移動した。

 前原とミズキは、病院の退院が明日なので、その後合流するとのことだった。


 確かにそこは「カオサン通り」*(2)の、バックパッカーが泊まるような安ホテルで、部屋の壁に雨漏りの痕なのか、黄ばんだシミが浮き出ていた。

 そして、窓からは「スワンナプーム空港」の滑走路の案内燈が赤く点滅しているのが見てとれた。


 ——これじゃ、夜、騒音で眠れそうにないな


“ベッドとトイレさえあれば”とは言ったものの、ガラス管が黒ずんだ蛍光灯の光はぼんやりと鈍く、これで窓に鉄格子が付けば、さながら監獄のようであった。

 平田は、空腹を満たすためにホテルの外に出てみたが、レストランらしきものは一軒もなく、十分ほど歩いてようやくタイ飯屋を一軒見つけた。


 ——ぶっかけ飯か……


“ぶっかけ飯”とは、皿にもられたタイ米の上に、好きな惣菜をトッピング(ぶっかけて)して食うのだ。

 四種類ほどの惣菜が並んでいるが、どれも唐辛子の効いた辛そうなものばかりで、選ぶに選べなかった。

 結局、平田は卵を別注文で焼いてもらって、それだけを飯の上に乗せて食べた。平田は、生来、薄味好みで、濃い味や辛いものは苦手だったのだ。


 ——屋台飯食えんようじゃ、タイ駐在には向かんな……


 ふっ、と苦笑い一つ零し、味わうこともなく胃袋に流し込んだ。

 とにかく、腹を膨らませるために。

 食後の煙草の一服は美味かった……。



 たったそれだけのことなのに、なんだか心が冷えていく想いがして日本の夕餉ゆうげの食卓を想い起こしていた。


 この時期なら、きっと秋刀魚が美味いんだろうな————。



 ——————————

【脚注】

 *(1) 「600バーツ」日本円換算で1800円ほどである。

 *(2)「カオサン通り」

  バンコク市内にある、バックパッカー御用達とも呼ばれる安宿の立ち並ぶ通りで、世界中からバックパッカーが此処を目指してやってくる。

 

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