3-10 決断

 バンコクの東南部にも、大きな工業団地が何カ所もある。今回の大洪水の被害には遭っていない。その一角である「バンナー地区」にも大小、数カ所の工業団地がある。

「マテックス」社の小林に案内されてやって来たのは、「バンプリー工業団地」に隣接する小さな貸し工場だった。フロアー面積にすれば今の工場の半分もない。しかし、仮操業ということを考えれば、機械を全て導入できるスペースがなくとも、取り敢えずは、10台程度持ち込めば急場は凌げるんではないか——と、三人の意見はまとまり、そこに決めることにした。


 ——さぁ、問題は従業員だな

 ——ええ、この辺りでアパートを探してやらないと彼らは来たくともこれないでしょうね。家賃も会社負担で、それと、当座の支度金みたいなものも渡してやらないと……

 ——そうか……何かとだな


 平田は「復興」だけを最優先に考えて来たが、動けば動くほど、金が飛ぶように消えていった。資金繰りも考えながら、出来るだけ経費を抑えたかったが、大代の言うことは尤もなことで、人を動かすにはやはり金が掛かる。

 ——うん、わかった。この辺りでアパートを何軒か当たってみてくれ。一部屋に二人の計算で、二十人くらいを目処に


 四十名の従業員のうちの半数の計算だ。

 この時点で彼らが此処に来てくれるかは何の確証もなかったが、見切り発車で進めるしかなかった。

 大代が自分のピックアップトラックに向かって手招きをしている。

 助手席から降りて来たのはタイ人女性だった。


 ——うちのカミさんです。トイ、って言います。この先何かと本場ネイティブのタイ語が必要になるだろうと思いまして、連れてきました


 小柄ながら、美人の奥さんだった。その大きな瞳の目力の強さは、気の強さを伺わせていて、ははぁーん、なるほど——と、平田も納得できた。


 ——サワッディー カァー 


 トイが鼻元でワイ*(1)をして寄越した。

 タイ人がするワイには色んな種類があるらしく、目上の者にするワイほど、その位置は鼻に近づくのだと、タイの観光案内書に書かれていたのを思い出した。


 ——いやぁ、助かるよ。ちゃんと日当支払うからな。よろしく頼むよ

 ——ありがとうございます。嫁さんも喜びます。


 大代が後で小声で言って寄越したことには、復興作業で毎晩遅くなってまたあれこれ詮索されるより、連れて歩いた方が楽だ——っていう理由らしかった。しかし、前原の居ない今、大代の力は絶大で不可欠であった。

 自分一人で乗り切るには、あまりにも高い障壁であったので、一人でも多く手助けしてくれる人間が欲しかった。


——平田社長、私も此処での仮操業には賛成なのですが、一つ問題があります

 小林が、少し問題ありですと言わんばかりの表情と声音で言う。

——何でしょうか?

——貸し工場ですから、当然電気は来ています。しかしそれは最低限のもので、機械10台分の電気容量を確保するには、登録してトランスを設置する必要があるんです。

——なるほど。では早速手続きします。

——いや、それが……


 小林に代わって、大代が言葉を挟んだ

——電気回線の申請は時間が掛かるんです。申請してから1ヶ月ぐらいは普通に掛かります。今、こんな時ですからきっと申請者も多いはずですから、もっと時間が掛かることが予想されます

——うむぅ……、それならどうすりゃいいんだ。一ヶ月も待てんぞッ!


 平田はつい苛立って声を荒げてしまった

——あ、いや、すまん。君に言ってもどうしようもないよな、申し訳ない

——平田社長、ジェネレーターを使う、というのはどうでしょうか?


 ジェネレーター、それは自家発電機のことである。

——しかし、機械10台分の電気を賄えるジェネレーターとなるとかなりの大型になりますよね。そんなものが手に入るでしょうか?

——それは、心当たりがあります。買い取りしなくともリースを使えば、いつでも返すことができます

——じゃ、そっちの方は、お願いできますか

——わかりました、早急に手配します


 この日、多くのことが一度に前に向かって動き出した。ようやく「復興」に向かって前向きな仕事ができるようになったことが、平田の沈んでいた気持ちを楽にさせてくれた。


さて、何人の社員が戻ってくれるか————。


 平田は、マネージャーのポンサックに電話してみることにした。彼は、家が被災して以来連絡を寄越していなかった。いま、どこで、どうしているのか、わからない。

 平田は、祈る思いで【発信】ボタンを押した。


繋がってくれッ!———。




             第三章 「先の見えぬ絶望感」 了


———————————————

【脚注】

*(1)「ワイ」

「ワイ」はタイ独特の挨拶方で、親しいものにも、初めての者にもする挨拶の所作で、両の手の平を顎から、顔の辺りで合わせ、「こんにちは」と言う。その所作には色んな意味や、やり方があるようで、貧富関係なく小さい頃から親にきちんと教育される。我々、異国のものには、それの奥深さは言葉だけでは分からないものがあるという。

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