3-9 女神
現場からの帰りに、病院に立ち寄った。
待合ロビーを通りすぎ、病棟へのエレベーターに向かって歩いていくと、そこに前原の姿を見つけた。
見知らぬ日本人らしき女性が前原の横にぴったりと寄り添い、松葉杖を使ってこっちに向かって歩いてくる。
やがて視線が交差し、前原も平田に気づいたようだ。
——あっ
——よぉっ!
平田は無言で、前原の隣に居る女性に視線を向け、誰? ——とでも言うように、前原に視線を戻して少しばかり口角を上げてみせた。
——あっ、いやぁー、
——平田社長さん?
隣の女性が、前原に問いかけると、前原は小さく頷いた。
——あ、初めまして、私、河原ミズキ、と申します。健二さんが大変だって聞いて日本から飛んできました
前原は借りて来た猫のように小さく固まっている。
——あ、そうでしたか。いや、良かったー、こういう時は女の人が傍に居てくれると心強いですよ。なぁッ!、前原!
ミズキは何か飲み物を買ってくると言って、平田に小さくお辞儀をしてその場を辞した。
——なんだよ、居るんじゃねーかよッ
——はぁ、いや、その、詳しいことはまた今度ゆっくりお話しますけど……
少しの間の立ち話で聞いた話は、こうである——。
ミズキとはタイに赴任になる前から付き合っていたけれど、タイ赴任が決まって、結婚の許しを請いに両親に会いに行ったが、猛烈な反対にあって、ミズキの方も悩みに悩んだ末、日本に残ったというのだ。
ミズキは大事な一人娘だ、海外になんか出せるか——と、父親が激怒して結婚を認めてもらえなかったらしいのだ。
その後は、互いに気まずくなってしまって、最初は電話でのやりとりもしていたが、今では週に一度程度のメールのやりとりだけの関係になっていたと言う。
この河原ミズキという女性が、この後前原だけでなく、平田の会社の復興に女神のように光を与えてくれたことは、まだ二人とも思い到らないことだった。
夜九時を過ぎてコンドーに戻り、シャワーを浴びて、シンハービールのアルミ缶を片手にスマホをいじっていると、「マテックス」社の小林社長から電話があった。
——夜分すみません、お疲れ様です。なにかと大変ですね?
——ああ、お疲れさんです。うむぅー、ほんと、大変ですね……
平田は、今日の工場内の視察を終えた後だけに余計に「大変さ」を思い知らされていた。
——で、どうされますか? あっちこっちから、問い合わせがあるんじゃないですか?
——そうですね、毎日のようにありますね
——T社向けは、まだ在庫もありますし、ご本社の応援がありますから、うちにも問い合わせは今んとこないですけど、それも一ヶ月後はどうなるか未定ですからね……
「マテックス」社の小林社長も一ヶ月後のことを憂慮して電話を寄越したのだろう。
——今日、現場を見てきました。水が引いたとしてもあそこでの再開は時間が掛かりますね
——そうですか……
——それで、仮操業の場所を探そうと思ってます。
——それなら、適当な場所を見つけてありますよ。平田社長の決断をお待ちしてました。
商社というのは、「情報」と「人脈」、そして「機転」の三つを武器に商売をしている。小林はいずれ平田が決断すると見込んで、貸し工場を何軒かリストアップしておいた言う。
——ほんとですか! それは助かりますっ、明日にでもご案内頂くことは可能ですか?
——ええ、そのつもりです。うちも早く御社には再開してもらわないと困りますんで……
——脱出の時といい、今回といい、小林社長のフットワークの良さにはほんとに脱帽ですよ、ありがたいですッ!
——いえいえ。では、さっそく明日、十時にバンナーセントラルの前でお待ちしてます。
——わかりました。お世話になります
「バンナーセントラル」は、バンナトラッド道路に面する「セントラルデパート」のことだ。それから推し量ると、やはり物件はバンナー地域なのだろうか。平田は大代にも電話し同行するように伝えた。
ほんの少しだが、復興の灯りが見えた気がした平田であった——。
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