3-5 必死
前原は、一週間の入院加療を医者から告げられた。
「敗血症」と診断された。医者が言うには、あと二、三日処置が遅れていたら、足首から下を切断しなければならなかったほど、悪化していたらしい。
考えてみれば、さもありなん——なことであった。
あの時、平田らが長時間足つけていた“水”は、下水の水も当然混じっていたわけで、形容の出来ない色と鼻をつく異臭は、ありとあらゆる雑菌を含んでいたのは当然のことだった。
——すみません、私の不注意で……。会社が大変な時だってのに……
——いや、俺もあの日、強引にでも病院に行かせてたら、って後悔してるよ……、まぁ、大事に至らずよかったがね
——正直、ドアが開いて社長の顔を見たら、あぁ、助かったって、思いました
——まぁ、焦らず、ゆっくり休め。で……、君はこっちにカノジョとか居ないのか? 五年も居たら、一人や二人……
平田は、個人の立ち入った事には、いくら部下であっても聞くことをしない主義であったが、やはりこういう時には身の回りの世話をしてくれる女性が居てくれたら、と期待したのだ。
——あぁ……、居ません。タイ人の女の子はスタイルも良いし、可愛い子が多いんですけどね……、でもやっぱり日本人の女性が一番だと思いますよ。言葉の壁とか、文化の違いは大きいですよ、やっぱり……
前原も、おそらくいろんな経験をしてきた上で、日本人の女性が一番だと言っているのだろうと推し量って、それ以上問うことはしなかった。
——できるだけ、大代くんと交代で覗くようにはするけど、知っての通り今後のこともあるから、この先忙しくなるやもしれん、だから……
前原は平田の言葉を制するように掌を勢いよく振った。
——あぁ、私なら大丈夫です。松葉杖つけば歩けるわけですから困ることはそんなにないですから。それより、会社が大変な時に、役に立てない自分が情けないです。カッ飛びで治して復帰しますんでっ
——ん、“飛車”抜きの戦は、負け戦っていうしな、頼むぞっ!
——へ?
「飛車落ち」の意味を説明することなく、平田は病室を出た。
待合室に備え付けられた大画面のテレビが、洪水関連のニュースを流していた。見飽きた感のあるタイ人キャスターの顔は、今日はニヤついては見えなかった。映し出された映像は、被災した「ロジャナ工業団地」の内部の様子で、平田は立ち止まって見入った。
日系企業の駐在員だろうか、どこからかエンジン付きの小型ボートを調達してきて、浸水していない事務所2階の窓から、コンピュータやファイルを運び出している様子を映し出していた。
そして次の映像は衝撃的だった————。
同じく日系企業の駐在員が、水中眼鏡を着け、海パン姿で水の中に潜っていく姿だった。
詳しくタイ語が解せない平田であったが、恐らく、水没した自社の設備や備品の“安否”を確かめる為に潜っているのだろうと推察できた。
その水は、あの形容しがたい色の水であった。いくら水中眼鏡を着用していても、目に入るはずだ。それに全身の素肌をあの水に晒すなんて、清潔好きな日本人には考えられない所業だった。
——(さすが、日本人……、ド根性だな)
そう、ひとりごちて、平田はその場を去った。
皆、必死なんだ————。
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