3-2 器量

 十月二十日(木曜日)——。


「レムチャバン」の倉庫から帰って以来、平田は何も出来ず、ただ、無為に時を過ごしていた。

 平日に連続して三日以上も休んだことのない平田であったが、不思議と

 疎外感や罪悪感はなかった。

 昼前になって、近くの饂飩うどん屋にでも行こうかと思っていた時、日本から電話が入った。


 ——ああ、平田さん? どう?、大丈夫?


 鼻から抜けるような素っ頓狂な声の主は梶原だった。梶原は、熊田社長の娘婿で、同じ常務職ながら、平田とは少しが違った。その資質があるなしに関係なく、梶原は間違いなく熊田の後を継いで社長になるだろう。

 平田は、その時が来たら、会社を辞めるつもりでいた。平田はどうしてもこの男を社長とは呼びたくなかったのだ。


 ——ああ、どうも。何とか逃げ切りましたよ。ギリギリセーフでした。

 ——そうか、そりゃお疲れさんだったねー。日本でも連日ニュースでやってるよ。ずっと気にはなってたんだがねー、こっちも忙しくてさー


 ——(何が、忙しくってー、だ。笑わせるな、どうせ、椅子に座って鼻毛抜いてるだけの毎日だろうがっ!)


 平田は、早く電話を切りたくなったっが、思いついた事があり無理やり声音を慇懃にして話を繋いだ。


 ——梶原さん、一つ、頼みがあるんですけどね

 ——あぁ、何でも言ってくれ!。忙しいとは言っても被災したそっちに比べたら、なんてことはないからなッ! がはははっ


 臭い口臭が電話口から匂って来そうな下品な高笑いには、耳にあてた携帯電話を遠ざけたくなる。


 ——そっちで、T社向けの製品の3、4アイテムを代替生産してこっちに送ってもらえませんか? こっちが生産再開できるまでの間だけ助けて欲しいんですよ


 ———ああぁ……

 梶原は黙り込んでしまった。電話口にも聞こえるような荒い鼻息が鬱陶しかった。

 ——お願いしますよっ! T社への納品止めたらどうなるか、梶原さんもご存知でしょ? 挙句にはそっちにも影響するんですよ?

 ——いや、そうなんだがなー。こっちも納期遅れバンバン出しちゃっててさー、昨日も購買に呼びつけられて、散々絞られて来たとこなんだよ。

 だから、今は、ちょっと……ムリだな、勘弁してくれー

 ——いや、そっちは工場三ヶ所持ってるわけで、残業一時間ほど延長してもらったら、なんとかなるレベルでしょ?


 ——ん……まぁ……、あっ!キャッチ入った! お客さんかもしれんから切るぞ、ちょっと考えさせてくれっ

 ——あっ、ちょっ!

 無機質な機械音だけが平田の耳に届いていた。都合が悪くなると逃げるのは昔からそうだった。今更な話だったが、それにしてもこの窮地に本社として何の支援もしないのは許せなかった。

 平田は、熊田社長の携帯電話の番号を呼び出し即座に掛けた。


 ——もしもし、平田ですが

 ——おお、君か、大変だったな! 大丈夫なのか?

 ——ええ、何とか危機一髪で、逃げ出しました。機械も無事です。

 ——そうか、そりゃ良かった。きっと究極の判断だったろうな、いろいろと……

 ——ええ、まぁー……


 熊田社長は、裸一貫から叩き上げで会社を大きくしてきた男であるだけに、会社が危機に陥った時の、究極の判断を何度もこなしてきたに違いない。その声音は、梶原のそれとは違い、平田を心底気遣うものだった。

 ——社長、こっちのT社向けのアイテムの何点かをそっちで代替生産してこっちに送ってもらえませんか? 梶原さんにさっき頼んだら、体良く逃げられて……

 ——ん? 梶原くんが? そうか……


 熊田はしばし押し黙っていたが、意を決したのか、強い意志を含む声音で平田に応えて寄越した


 ——わかった。なんとかしよう。ただし、一ヶ月だ、それ以上は支援できんぞッ! こっちもギリギリなんだ、わかってくれ


 ——ありがとうございますッ! 社長。こっちも一ヶ月内には復興して生産再開できるよう、全力で取り組みます


 熊田は、ほんの一瞬の逡巡の後に、全てを計算し尽くした判断をして寄越した。子会社とは言えど、T社の購買を怒らせることは時を置かず必ず本社にも影響があること、そして一ヶ月という期間は、それぐらいが顧客の待てる限界だろうというのも、分かっていて、一ヶ月で復旧しろ!——と暗に言って寄越していたのだ。


 電話を切って、平田は思った。


 が、本来の社長の判断ってもんだろ———、違うか? 梶原さんよ。

 あんたは、所詮、社長の器じゃないんだよッ!……。


 テレビニュースが、平田の工場が入居する工業団地よりさらに南に下った場所にある「バンカディー工業団地」も冠水したと報じている。


 これで、タイ中部の七つの工業団地が水に沈んだことになる。


 ——いったい、は、どこまで来る気なんだ……


 水の進軍が止まらない現実に、平田は嫌が応にも悟らされた。



 まだ、何も終わってなかった、ことを————。

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