第三章 先の見えぬ絶望感
3-1 疲弊
翌日も、ゆっくりはしていられなかった。
「レムチャバン」の倉庫に朝八時に集合の予定であった。バンコク市内から車で一時間半は掛かる。
運び出した機械を、T社の倉庫に搬入し防塵などの保管作業が待っていた。
平田以下、日本人三人と、倉庫会社の社員一名だけでやらなければならなかった。
機械25台全部を降ろし終えたのは昼過ぎで、食事も摂らず、機械のラッピング作業までやり終えると、既に陽は西に傾きつつあった。
「シラチャー」*(1)の日本食焼肉店で、遅い昼飯兼夕食を摂った。
——二人とも、ご苦労さん。明日からは少しゆっくりしてくれ
——さっき、我々の工業団地の事務局から電話があって、団地内はほぼ1.5mの冠水状態だという事です。
大代がカルビ肉を頬張りながら平田に、そう報告して寄越した。
たった一晩で、やつらは、我々の工場を完全に征圧していた。
そのことも驚きであるが、あと半日判断が遅れていたら脱出は出来なかったかもしれない——いや、間違いなく逃げ遅れていただろう。
それを考えると、改めて身が竦んだ。
平田は、昨晩の高速道路上で見た光景を思い出していた。迫る睡魔の中で見たものは、高速道路の路肩に整然と並ぶ車の列であった。地元民のものだろう、そこに車を避難させていたのだ。確かに、そこなら絶対と言ってやつらは上がってこれないだろう。
それを見て、もしもあと三十分も脱出が遅れていたら、自分らの車はきっと、工場団地前で屍を晒していたに違いないと思ったのだ。
——1.5mか………ギリギリだな、これ以上増水しないことを祈らんとな
——ギリギリ、というのは?
前原も、よほど空腹だったのだろう、飯と肉をこれ以上は入らないというほど口の中に詰めて平田の言うことに反応してみせた
——ああ、ほら、検査機だよ、2台、現場の作業台の上に乗っけて置いてきたやつ……俺の計算じゃ1.8mまでなら何とか耐えられると思うんだけどな……それ以上となると、アウトだな。
前原は口の中のものを咀嚼しきって、言を繋いだ。
——あれがなければ、商売にならんですよ。社長っ!
——わかってる。わかってたが、あれを運び出す時間は無かった。ギリギリの選択だったんだよ
前原が言いたいことはよく分かっていた。
機械25台全部が助かっても、あの特殊な検査機がなければ、いくら製品を生産しても、客先には納品出来ないのだ。
特に、T社の品質チェック体制は厳格で「検査済データーシート」が添付されていない製品は絶対受け付けてくれない。
——なんとか、耐えて生き残っていてくれ……ですね
——うむ、まさに神頼みだな
——で、この先、どういう計画でいきますか?
大代は腹一杯になったのか、コップ一杯の水を飲み干して、平田に問うて寄越した。
——それだな、問題は。いずれにせよ、工場内の水がいつになれば引くかだな、それを見極めない限り次の手は打てない
今後の見通し——、それは平田が一番教えて欲しい事だった。
二人の前では決して言えないことだったが、少し休みたかった。身体も頭も、それを激しく欲していた。
平田は何も考えられないほど、つくづく疲弊していた————。
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【脚注】
*(1)「シラチャー」:シラチャーの街は「レムチャバン港」に隣接する街で、タイ東南部の巨大工業団地に働く駐在員が多く住む街である。
近年、「日本人学校」や日本語の出来るスタッフを常駐させた病院など日系企業の駐在員向けのサービスが充実してきて、次々とコンドミニムやアパートが建設されるようになり、バンコクに次いで多くの日本人が住む街となっている。
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