2-10 安堵

 銭湯の湯船にどっぷりと浸かりながら、平田は前原に労いの言葉をかけた。


 ——ここんとこ、ずっとご苦労さんだったな、本当に助かったよ

 ——いえいえ、社長も……。次から次へと、究極の判断続きで……

 ——いや、今回の一件で、俺はつくづく思ったよ。企業というのは、本当に色んな人に支えられてんだな、ってな

 ——そうですね……従業員もみんなよくやってくれました。あんな真剣な彼らを見るのは初めてですよ

 ——ふふ、そうか。従業員は家族と同じ、って鈴木社長も言っておられたけど、今日、俺はそれを実感したよ

 ——ああ、大代さんが社長によろしく伝えて欲しいって言ってましたよ。あの人、初めて僕にを教えてくれたんですけどね……


 大代の姿は、広い湯船の中にはなかった。彼の家はバンコクの外れにあるので、早く帰って体を休めたいとのことだったのだが。


 ——内情? なんか抱えているのか、彼は

 ——あ、いや、その……奥さんですよ、タイ人の奥さん。実を言うと、付き合いが悪いのは奥さんのらしいんです

 ——ん?

 ——猛烈に猜疑心と嫉妬心が強いんですって、大代さんの奥さん


 タイ人女性が気が強く、嫉妬心が強いことはよく知られたことである。


 ——とにかく、夜の七時以降に家に帰らなかったら、五分も空けず、電話を寄越して、チェックされるんですって

 ——うわぁ、それは酷いな……門限七時の亭主か……

 ——だから、飲みに行っても酒の味がしないって。痛くもない腹を探られるくらいなら、とっとと家に帰る方が気が休まる、って

 ——なるほど……そういう理由だったのか……、なんか気の毒だな


 これ以上、湯船に浸かっていると、眠気で溺れ死にそうになるので、さっさと身体を洗い、浴室を出た。

 その後、一時間の足マッサージを受けたが、いい具合に眠ってしまって、マッサージのおばちゃんに揺り動かされて、起きた。


 ——さて、生ビールでも、ぐいっ、っといくかっ!

 ——はいッ


 大ジョッキの半分を一気に呷った。


 五臓六腑に染み渡る——、とはこのことか。ビールの微弱なアルコール分でも身体の隅々の細胞にものすごい勢いで吸収されていくのがわかった。

 そう言えば、朝から水以外何も口にしていなかったのだ。アテにとった

 焼き鳥をいっきに頬張った。


 少しばかり、腹が満たされ、酒の酔いがまわってくると、先週初めからの出来事が、思考が睡眠不足と酔いで朦朧となる中、次々と蘇ってきた。それは、もう何年も前の事のように思えた。


 ——前原……、まさか俺が着任早々土嚢作りするとはとは思わんかったよ

 ——あはは、そうですね、先週の一週間は、うちは土建屋みたいになってましたよねッ


 それにしても、この心地よい達成感のようなものは、いったい、なんなんだろうか————。

 大きな商談をまとめた時に得る“達成感”とは、明らかに違うものだ。

 神が与えた試練を乗り切ったのだ、という高揚感なのか。

 日本での五十年以上の日常で、これほどの緊迫感に包まれ、危険と隣り合わせになったことはなかった。


 関西を襲った「阪神大震災」の時も、大阪の被害は限定的であった。神戸や淡路島で被災した人々の辛苦は映像や活字で頭では理解できても、自分の身体で実感したものではなかった。

 同じく、「東日本大震災」の時もだ。打ち寄せる大津波に全てが呑み込まれ、大切な人を失った悲しみと絶望感は想像を絶し、テレビのニュース映像を観ているだけで、胸が締め付けられた。それに比べれば、自分らは被災したとはいえ、命の危険に晒されたわけでも、住む家や家族の命を奪われたわけでもない。

 比較することも憚れるのだが、それでも、人生初めての“被災経験”だった。


 大きな災害に被災した当事者の心の内を推し量って、自分たちが今できることを真剣に考えること——それは尊いことだと、ずっと思っていた。

  

 しかし、同時に人は好んで「当事者」には、誰もなりたくない。

 誰も、耐え難い辛苦を舐めたくはないはずで、それは当たり前のことで、大きな災害があるたびに「当事者」でないものが軽々しく、被災した人々の側に立って物事を考えることは、何か偽善じみてはいないか——そんな葛藤があった。

 その度に、を悩み考えても詮無いことだと、その答えを求めず目を逸らして来た。


 しかし、いざ自分が真に「当事者」になって初めて分かったことがあった。

「当事者」には、目の前の辛苦に立ち向かい、生き延びるか、さもなくば、それに呑み込まれ屍を晒すか、その二つに一つしかないんじゃないか。

 そして、「当事者」にとっては目先で起こっていることが全てで、それにどう立ち向かうかで精一杯で、そんな時に差し伸べられる人の支援の手は、純粋に有り難く思えるということだ。

 だから、「当事者」でなくとも、明日は我が身と、今自分が出来る支援の手を差し伸べる事は決して“偽善”なんかじゃなくて、人として尊いことなんだ——、と。


 そんなひとつの“答え”のようなものを見つけたことへのだったのかもしれない。


 大袈裟に言えば、人生観が変わった瞬間だった————。


 


 神は、時に、冷酷なまでに人に試練を与える。

 その大小、深浅に違いはあれど、乗り切ってみよっ!————と。


 

 この時の二人には、この先もまだ待ち受けるの数々を、想像だにできなかった。いや、敢えて考えたくもなかったのかもしれないが……。


 ほんの束の間の、安堵のひと時であった————。




                第二章「危機一髪の脱出劇」(了)

 

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