2-9 脱出
最後の一台の機械をトレーラーに積み込んで、ホッと胸を撫でおろしたまさにその時だった、団地内にサイレンが鳴り響いた。
年に一度の避難訓練の際にしか聞いたことのないそれは、この日ばかりは戦時下の空襲警報にも似て、人々を急き立てるのには十分な迫力があった。
トレーラーの運転手は、機械を覆う幌の紐の結束もそこそこに、慌てて運転席へと駆け上り、戦車のように力強く水を切って工場を後にした。
それが残していった波紋は平田の足元で渦となって絡みついてきた。
時刻は17:14分————。陽はほぼ西の地平線の上にあった。
平田は、古参の男子タイ人社員に三枚の1000バーツ札を渡し
——ご苦労さんだった! これで皆にビールでも飲ませてやってくれッ!
そう言って、労いの言葉もそこそこに彼らを見送った。
その時既に、足下の水は20cmを超えていた。残ったのは日本人駐在員の三人だけとなった。
工場入り口のシャッターを下ろし、事務所ドアの施錠を完了したのを見届けると、三人とも急いで車に飛び乗った。
今度は、此処から無事に脱出できるかどうか、であった。既に乗用車のドア底ギリギリまで水は来ていた。
ゴボゴボと音を立てて進む車——。
時折、マフラーに水が侵入してくる。エンジンを吹かしながら慎重に進み、工業団地出入り口に来た際には、辺りは薄暗くなっていた。
幹線道路側道には30cm以上の水が冠水していた。躊躇する運転手を一喝し“突入”させた。
—— 一気に行けッ!!
ドア下部から異臭を含んだ真っ黒な水が流れ込んできた。かろうじて中央本線右側の車線だけは、まだアスファルト面が覗いている。
どの車も、そこに向けて突進してくるものだから、あちらこちらで車体がぶつかり合うも、車を降りて喧嘩沙汰になることもなく、みな車をそこへ逃すことに必死であった。
やっとその列に割り込み、前に車が進み出した時には、車内の足下には水溜りが出来ていた。もはやそんなことは御構い無しである。もう何時間も水に足をつけて作業をしていたので、感覚が完全に麻痺していた。
平田は、前原に携帯電話で連絡した
——無事に抜け出たかッ!?
——ハイっ! なんとかッ! 大代さんのほうは車がピックアップトラックなんで大丈夫かと
——そうか、ん、危機一髪だったなッ。どうだ、有馬温泉*(1)でも行くか!? ひとっ風呂浴びたい気分だよ
——おお、いいですね! 大代さんにも声かけてみます。
——ん、じゃ、後で。高速に乗るまでは気を緩めるなよっ!!
——りょーかい、デスっ!!
前原の声音にも生気が戻っていた。
平田は、車がバンコクに戻る高速道路に乗ったのを確認すると、大きく息を吐いて、背をシートに深々と沈めた。
安堵からか、硬く硬直していた肩の筋肉が弛緩していくのがわかった。
助かった————。
そう一言吐いて間も無く、強烈な睡魔には抗らえず、意識が遠のいていった。
——————————
【脚注】
*(1) 「有馬温泉」
「有馬温泉」はバンコクの繁華街「タニヤ」通りにある日本式銭湯で、古くからあり、熱い湯船に浸かり、その後階下のタイ式マッサージを受ける——というサービスが日本人駐在員には嬉しいサービスの店である。
その後、2012年にスクムビッツSoi26に日本式そのもののスーパー銭湯『湯の森』が出来るまでは、タイ唯一の日本式銭湯として日本人駐在員の憩いの場として人気があった。
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