2-6 号令

 平田は工場を出て、高ぶる気を鎮めるため、ゆっくり工業団地裏手のコンクリート塀の手前まで歩いてきた。

 しかし、歩みを止めざるを得なかった。

それ以上近寄るなッ——と言わんばかりにの先鋒隊が、地面にへばり付くようにしてこっちを窺っていた。

 水はコンクリート塀の下から滲み湧き出るようにして侵入して来ていた。


 ——前も、後ろも……か


 退路を断たれたようで、しばし虚空に視線を彷徨わせた後、重い踵を返して工場へと戻った。

 トレーラーの運転手が待ち受けていて、平田を急かす。


 ——やるのか、やらないのか、早く決めてくれよ! こっちだって、こっから出れなくなっちまったら商売できなくなるんだよっ!

 平田は苦渋に表情を歪め、瞑目した。


 その時だった————。


 ——社長ッ! ナワナコンに浸水です! 浸水始まりましたっ!!


 前原が事務所二階の窓から平田に叫んで寄越した。


 その言葉を合図に、ドンっ——と背中を押された平田は、野太い声音で

 タイ人従業員に号令をかけた。


 ——急げッ!! 全部積み込めッ!!


 堰を切ったように、人が慌ただしく動き出した。日頃陽気なタイ人の

 表情も堅く、もくもくと資材を運び出しはじめた。

 

 トレーラーから降ろされたフォークリフトが工場内に入ろうとしてその入り口で立ち往生していた。

 やつらの侵入を防ぐとして築かれたあのコンクリートブロックの壁がその行く手を阻んでいたのだ。


 ——構わんッ! 潰せッ!!


 フォークリフトの鋼鉄製の二本の爪がブロック塀を突き崩す。

 あっけなくそれは、倒れ、壊れた————。

 結局そのも、大量の水から加わる水圧には耐えきれず壊れていたのだろう——工場入り口でそれは屍を晒して横たわっていた。


 一台目のフォークリフトが工場内に入っていく。

 まず、完成させて「在庫」として貯め置いてあった製品を運び出し、トラックに積み込む作業から始まった。T社向けの製品である。

 最悪の場合を想定して、T社に納める製品だけは二週間分の在庫を積み上げておいたのだ。

 製品を積み込むトラックは「マテックス」社が日頃使っているトラックを三台手配して呉れていた。


 平田は、工場のど真ん中で仁王立ちして采配を振るった。


 刻一刻と、やつらの進軍は進んでいた。工場前面のアスファルトはすでに薄くではあるが水が被りはじめていた。

 その勢いから逆算すれば、夕刻が限界かもしれない。なんとか、午前中に終わらせたい。


 大代が駆け寄って来て、報告を寄越した。


 ——社長ッ! 機械の結線が外せませんッ!

 ——あんっ? なんでだッ!! 機械メーカーのサービスマンを呼んであるはずだ、朝八時に来るよう、先週手配してあるんだぞっ!

 ——車の渋滞が激しくて、かなり遅れそうだ、と連絡して来ましたッ

 ——ちっ……

 全て想定内で進むとは思っていなかったが、一番肝心な機械の搬出作業が遅れることは想定したくない事だった。しかし、機械の結線を外すのは専門のサービスマンでないと、無闇に素人がやると後が厄介になることを平田も知っていたので、待つしかなかった。

 ただ、昼前までに着かないとなると、に打って出るしかないとも考えていた。


 工場備品、資材、完成品すべて荷積みが完了し先発隊として出て行ったのは、午前十一時過ぎであった———。


 機械のサービスマンはまだ到着していない。

 大代が再度連絡を取ると、近くまで来ているが、すでに道路は一車線しか走れない状況で、まだ一時間は掛かる見通しだと返事を寄越してきた。


 ——仕方ない、やるしかないな……

 

 平田は、タイ人の器用さに賭けてみようと思った。

 彼らは、機械に故障や不具合があっても自分で機械をバラしたり、近所の工具屋で似た部品を買ってきたりして、自ら修理しているのを何度も目にしていた。


 ——各々の機械の担当者にやらせろッ

 ——えっ、でも……

 ——外すだけだ、素人にだってできる! 構わんッ、やらせろッ!!

 


 結線し機械を動かす際には細かい設定が必要だが、極端に言えば、外すだけならネジを回し、線を引っこ抜けばいいだけじゃないか———

 そんな危うい判断をしなければならないほど、危機は間近に迫っていたのだ。


 論より証拠、何の躊躇もなく彼らは結線のネジを緩めはじめた。


 腕時計の針は、午後十二時を指していた————。

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