2-5 判断

 十月十七日(月曜日)早朝————


 まだ、夜は明けていない。平田は今日起こるであろうに備えて少しは眠っておかねばと思ったが、焦りと不安がそれをさせてくれなかった。結局、一睡もできないままベッドから抜け出て、キッチンで珈琲をいれていた。

 マグカップを持ち、ベランダに出て煙草に火を点けた。珈琲を一口飲み紫煙を大きく吸い込んだ。毛細血管の収縮と共に脳が痺れ一睡もしていない重い身体がふわっと軽くなった。


 バンコク市内の街並みはまだ静かに夜の帳が明くのを待っている。

 平田にはそのいつもの朝と変わらぬ静寂が恨めしかった————。


 運転手にはいつもより一時間早く六時に来いと告げてあったが、その時間までがとてつもなく長く感じた。

 バンコク市内の首都高速を抜け、アユタヤ方面に行く高速道路に乗ると一刻も早く、高速道路を降りた場所の状況が知りたくて、背を浮かせたまま車窓の向こうの景色を追っていた。


 高速道路の最終降り口を下っていくと、そこで自社が入っている工業団地前を走る幹線道路に合流することになる。この幹線道路は、片側を側道二車線、本線三車線で双方で十車線というまさにバンコクとタイ東北部を結ぶ大動脈と言っていいほどのものだ。


 腕時計に目をやると、まだ六時半過ぎであった。

 そこから5キロほど走り工業団地の正門前まで来ると、側道端には水が滞留していた。10cmほどかもしれない。一度ひとたびスコールが降ればいつもこの程度の冠水はあって、見慣れたはずのものだったが、その日の平田にはそれが全く別のものに見えた。


 ——(来てるな……確実に)


 社に着くと、前原が歯ブラシ片手に朝の挨拶を寄越した。


 ——おはようございます

 ——ああ、おはようッ! ご苦労さんッ!

 ——どうだ? 状況は?

 ——団地前の水をご覧になりましたでしょ? やっぱり確実には進軍を続けてますよ。あとどれくらいで……という時間との勝負だと思います。

 ——そうか……いよいよか

 ——トレーラーはもう来てますよ、あとは社長のご待ちです


 もしも、もしも運良く、水の進行が止まったら————。

 そんな淡い期待をまだ払えないでいる平田であった。機械全てを運び出して無事に避難をさせたとしても、明日から生産が完全にストップするのだ。つまりそれは「売上」が無くなることを意味する。もしもこの洪水の水が二ヶ月も三ヶ月も滞留し続けるとなると、資金繰りの心配もさることながら、T社からの注文がキャンセルされる危険があるのだ。結局それは会社にとって“死”と同じことになる。

 願わくば、動かしたくない——。


 その思いが、平田を躊躇させていた。

 その重い決断を下すには、誰かに、何かに背中を押してもらいたかった。

 たった一言でいいのだ。


 逃げるんだッ!————そう、言って欲しかった。


 平田は、日本に居た頃は経営に参画する役員職であったが、営業本部統括——という、ある意味、そこだけ守っていれば良かったのだ。

 そこけだけ、責任を取れればよかった。


 しかし、社長となると、全ての判断を強いられることになる。自分の後ろには誰も居ないのだ。

 そう、自分を支えてくれるものは居ても、決断しその最終責任まで取ってくれるものは、自分以外にどこにも、居ない。


 我、一人なり————。


 振り返っても、あの皺くちゃ顔の老獪ジジィの姿はない。


 熊田社長がある時、飲み屋でほろ酔い顔で話して寄越したことが今の平田には痛いほど理解できた。


 ——社長の仕事ってのはな、ただ“判断”さえ出来たらいいんだよ、簡単だろ? 社長の椅子に座って、ただ“判断”さえしてりゃいいのよ。 

 ただし……だ、間違っちゃだめなのは当然で、最低でも“Betterベター”な判断をしなけりゃいかんのだよ、なんせ、ほれ、後ろには誰もおらんからな、俺、以外には……


“究極の判断”————今、平田はそれを求められていた。


 

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