2-3 前夜

 結局、機械の保管場所に関する具体的な案はその場では出ず、小林は社に戻って心当たりを探すと言って帰って行った。

 平田も思いつく先を手当たり次第電話したが、今回被災した北部の工業団地の日系企業が既に押さえていて、殆どスペースが残っていない物件ばかりであった。

 まして「精密工作機械」と聞くと、倉庫管理会社の担当者は皆尻込みをした。

 ——参ったなぁ……


 運び出した機械の保管場所が決まらぬまま、眠れぬ、土曜、日曜日の夜を過ごすことになった。

 の場合に備えて、前原に工場の事務所に泊まり込ませて月曜の朝まで備えることにした。


 ——すまんが、頼むぞっ、前原

 ——了解です。事態が急変した場合はすぐに連絡します。タイ人従業員の二人も付き合ってくれるらしいんで

 ——ほぉ、タイ人にも男気がある奴はいるんだな

 ——炊飯器とかインスタントラーメンとか持ち込む、とか言って、まるで遠足気分ですけどね……


 タイ人の労務管理にはまだ不慣れな平田には、日本人であればこういった会社に危難が降りかからんとする時には従業員が一丸となって協力し対処するのだろうが、果たしてタイ人の場合はどうなのだろうかという一抹の不安があった。


 平田は、従業員全員に来週月曜日朝の段取りを事前に話しておくべきかどうか迷ったが、結局要らぬ不安を与えるよりということで、自分の胸の内だけに留めておくことにした。こんな時にタイ人マネージャーのポンサックが居てくれたら……と思ったが、彼のところも新築の家の一階が既に水没していて、会社のことまで考えられないことになっていたのだろう。

 平田もそんな彼に今、電話して出社して来いとはとても言えなかった——。


 十月十六日(日曜日) AM10:05————。


 前原から電話が入った。携帯電話のディスプレイの前原の名前を見て、平田の心拍数は一気に跳ね上がった。


 ——もしもし、おはようございます、前原です

 ——おうっ、お疲れさん、なんかあったかッ!?

 ——いや、今んとこは平穏なもんです。ただ……

 ——ん、どうした?

 ——「ナワナコン工業団地」*(1)裏の川が決壊しそうだとか、既に水が入り始めているとか、情報が錯綜しています、まだ未確認情報ですが。

 ——そうか……やっぱり動いてるのか……


 平田の中での一縷の望みである、「最後の一線」を越えようとしていた。

 ——私はこれから現場を見てきます。また昼から連絡しますんでッ!

 ——うむ、気をつけてなッ!


 平田が自分の中で決めていた「基準」である、「ナワナコン工業団地」に水が来たら逃げる——という、“最終防衛ライン”が突破されようとしていた。

 平田は居てもたっても居られず、自分も出社しようと車の鍵を握ったが、それより、運び出した機械を保管する場所を確保することが先決だと思い直した。

 落ち着けッ!、おまえがドタバタしてどうするッ!——そう独りごちて、車の鍵を置き、煙草に火を点けた。


 今できる最善の手を打つ————。


 それが、平田がこれまで困難な壁にブチ当たった際に実行してきたことだった。

 


 ———————————————

【脚注】

 *(1):「ナワナコン工業団地」

 1971年に開発されたタイ最初の大規模工業団地である。タイ中部パツゥムターニ県に位置し、首都バンコクからのアクセスもよく2011年当時は入居企業270社、うち半数が日系企業であった(今現在も若干の数字の増減はあるが復興し脈々とその歴史を刻み続けている)。その周辺は従業員用のアパートが立ち並び、商店屋台が犇めき合い、ちょっとした企業城下町となっている。

 




 



 

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