2-2 視察
一夜明けて、十月十五日(土曜日)————。
平田は、朝から腰が座らず騒ぐ胸を抑えるように、工場内をうろうろ歩き回っていたが、ついに居てもたってもいられなくなり、専属の運転手から車の鍵を奪い取るようにして車を現場に走らせた。この目で現場を確かめたかった。それは企業人としての平田の変わらぬ信念がそうさせていた。
問題解決の糸口は現場にあり。
机上で考えるより現場を一見せよ————。
「ナワナコン工業団地」を過ぎると、アユタヤ地区へと向かう高速道路の高架橋が見えて来た。そこは既に交通警察官が通行規制を敷いていた。高架橋手前で車を停め、そこから先は歩いて高架橋を登った。物見胡散に集まったタイ人の群を押し分け、高架橋の欄干の前に立った。
アユタヤ地区を一望できるそこから見たもの————。
それは、平田から言葉を奪うには十分なものであった。想像していたものを遥かに超越していた。
——えらいことに、なってる……
そして、平田は確信した。
——こいつらは、ゼッタイ来るッ
こいつら、と呼んだそれは、アユタヤを含むタイ中部の大地を我がもの顔で占領していた。
「古都アユタヤ」が水没していた————。
アメーバーの歩みのようなその侵略のスピードは他の自然災害に比べればタイムスパンが一桁違うのかもしれないが、着実にこいつらは進軍を続け、大地を侵食し人々を追い詰めていた。
平田は、生きた心地がせず、炎天下というのに寒気すらして、
——急がないと……、急がないと死ぬぞッ!、会社がッ!!
汗ばむ手でハンドルを握りアクセルを踏み込んで車を走らせるも、フロントガラスの向こうの見慣れた景色にはいつもの色がなく、白黒モノトーンとなってすれ違い飛んでいく。
思考が錯綜し考えがまとまらない。
そして司局の追っ手から逃れる罪人のように、強くハンドルを握りしめ背後を振り向くことも出来ずアクセルを踏み続けた。
逃げるんだッ!————。
社に戻ると、T社に長年出入りする地元タイの商社である「マテックス」社の
「マテックス」社は「KUMADA THAILAND」が製造する自動車部品のT社への納入業務を一手に引き受けていた。日本では東海地方を拠点としてT社やそのサプライヤーに工場備品を供給する商社として手堅い会社経営を展開していた。
タイ法人の「マテックス」社にとって「KUMADA THAILAND」からのマージン売上げ額は、総売り上げの30%を超えるまでになっていたので、今回の洪水の危難が「KUMADA THAILAND」にも迫っていることに危機感を覚え飛んで来たというのだ。
——待ってましたよ、平田社長っ!
——あぁ、小林社長。私も急ぎ連絡を取りたいと思っていたところです
平田は息吐く間も無く、小林に問うた。
——タイ駐在が長い小林社長のご意見を聞かせて頂きたい。来ますかッ!? ここまで?
——はいッ、間違いなく来ると思います
小林は躊躇なく即答した。
——小林社長、用意して頂きたいものがあります。
——トレーラーやレッカー車ですね?
小林は平田が言わんとすることを先回りして言って寄越した。
——あと、うちの機械を運搬できるフォークリフトを3、4台ほども
平田は読んでいた。「精密工作機械」の運搬は通常であればレッカーで慎重に吊り上げて荷降ろしや積み込みをする。しかしそんな悠長なことをやっている時間はないのではないか——、と。
——なるほど、カサの高いレッカー車で一台ずつ慎重に吊り上げている暇はないというのですね?
——その通りです。先ほど、現場を見て来ました。やつらは来週早々には必ず来ると私も睨んでいます。この土、日が最大の山なんじゃないかと。
——ええ、同感です。もし動きが止まるなら、月曜の朝には同じ場所で滞留しているはずです。今日、明日で近づかないなら、やつらは動きを止めたことになりますね
結論は早かった。月曜日の朝八時までに間に合うように、20tトレーラーを5台と、フォークリフト4台を積める10tトレーラー1台、そして10tトラック1台を手配することにした。
考えることは皆、同じだった——。
それらの調達もギリギリ間に合った感じである。どこの運送屋も大忙しらしい。
——ふっ、風が吹けば桶屋が儲かるか
——問題はどこで保管するかですね……
平田も、運び出すことだけに気を取られて肝心の保管場所まで気がまわっていなかった。
総数25台の「精密工作機械」をそれなりの環境で預かってもらえる場所———。
タイ駐在の長い小林をしても思い当たる場所がなく、平田は焦燥感を募らせた。どこでもいい——わけではないのだ。
「精密工作機械」の最大の敵は、湿気と埃だ。一日、野晒しで放っておくだけでもそのダメージは計り知れない。
搬送先から受け入れを断られ、たらい回しにされる救急患者のように、トレーラーに乗せられ彷徨うその姿を想像し、深い息を一筋吐きながら瞑目した。
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