第二章 危機一髪の脱出劇

2-1 徒労

「ハイテック工業団地」は、前面を走る道路よりもいくぶん低地にある。


 それは団地造成の際に、土地を掘り下げて造られていたので緩やかなすり鉢状になっていた。そこに、団地裏の川の堤防が一部決壊しそれをきっかけにいっきに浸水してきた水によってアッと言う間にそれをのようにしてしまったのだ。十月十三日夕刻、完全冠水となり殆どの企業の工場は水深2m以上浸水を受けた。


 時を置かず、「ハイテック工業団地」に隣接する「バンパイン工業団地」も同じ運命を辿った。アユタヤ地区の主要巨大工業団地の三箇所がしたのだ。


 平田の工場は十月十三、十四日と生産を全面ストップして洪水対策に当たった。団地運営当局から、「避難命令」が出た場合における対応に関してのレジュメが配布されて来た。


 従業員全員を動員して、なんとか工場の周囲全面に土嚢を積み上げ、工場脇の入り口のシャッター前はコンクリートブロックの壁を2mの高さで積みあげた。

 タイ人というのは根っから器用なのか、セメントを練ってコテを握って鼻歌まじりにその壁を一日で仕上げてしまった。


 ただ、そうした対策も殆ど役に立たない——と言うことを、アユタヤ地区の工業団地に入居していた日系企業の駐在員たちからので明らかになった。


 ズシっと重い土嚢も、水の勢いには敵わずすぐに流されてしまい、いくら外を囲っても内から攻めてくる水に手の施しようがなかった——と。


 つまり、水はどっからでも侵入し湧いてくるのだ。

 例えば、トイレ。トイレの便器から急に噴水のように水が吹き上がって来たというのだ。

 そんな話を聞いてしまうと、ここ数日、腰を痛めてまで作った数百の土嚢の数々はただの気休めでしかないように見えてきて、平田は改めて“水”の怖さを知ったと同時に、この先どうなってしまうのかという不安と得体のしれない恐怖で酷く疲労困憊していた。

 

 アユタヤ地区から南下して来るとそこには古い歴史を持つ「ナワナコン工業団地」という巨大工業団地がある。自社が入居する工業団地から数キロ北に位置する。


 平田は一つのを持つ事にした。


「ナワナコン工業団地」に少しでも浸水したら、————と。


 工場内の設備機械群他もろもろのものを全て運び出すには、どれだけの運搬能力が必要なのか——脳内CPUが唸りをあげて計算を始めた。

 もはやを想定しておかねばならないところまで来ていることを、平田の五感は感じ始めていた。


 ——(この、土、日がだな)


 一縷の望みは、「ナワナコン工業団地」のすぐ南には「カセサート大学」という国立の名門大学があり、そこはアユタヤ地区から逃げてきた人々の為の仮設避難所となっていて、重病を患った患者も多く居た。政府はこの場所を軍の出動も含めて全力で守り抜くと宣言している。

 それを信じるならば、かろうじて被災は免れることになる。人間というのは追い込まれると、すでに被災した企業やその場所に住んでいた人様のことは考えなくなるのだろうか——。


 平田は、「阪神大震災」や「東北大震災」の折に食料配給に整然と並んで順番を待つ日本人の姿を思い起こしていた。日本人はいかなる時も道徳心を維持し他人を思いやる心根を持っているはずであった。

 それでも……、それでも一縷の望みに託したくなるほど、平田も追い込まれていたのだ。


 は、助かりたい————と。


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