1-8 避難

 前原に見せられたあの写真の残像は、喉の奥深くに引っ掛かった魚の小骨のように、平田の脳裏から離れることはなかった。ただ、着任早々から前任者の無策ぶりを埋めるために奔走し没頭していたので、あれこれ考える間も無く、ベッドに入ればすぐに眠りについてしまう毎日が続いていた。

 気がつけば十月に入っていた。


 十月九日(土曜日)AM9:20————。


 久しぶりに、土曜、日曜日の連休を得て、平田は珍しく九時過ぎまでベッドの中に居た。その夢現ゆめうつつの世界から携帯電話の着信音とバイブの振動で文字通り揺り起こされた。


 ——もしもし、平田ですが……

 ——ああ、平田社長、お世話になっています。 KMスチールの柏木ですが、今、お電話大丈夫でしょうか?


「KMスチール」というのは、平田の会社に材料を納める日系の特殊鋼メーカーのタイ法人で、日本の「KUMADA製作所」でも使っていてその縁でタイでも取引があった。

 ——おぉ、どうしたの? 今日も仕事なの?

 ——いよいよ、いんで、避難することになりました

 ——ん? 避難って……

 ——ああ、うちの工場にも洪水が迫ってるんです。工業団地の事務局からが出たんですよ。すでにアユタヤの街は膝下まで冠水してますっ!

 ——えっ、そうなのか! そりゃ大変なことになったな。で、今後……うちへの材料納入はどうなるんだ? 


 平田は相手先が洪水に被災しようとしているのに不謹慎とは思ったが、材料納入がストップするとなると、それは平田の会社にとっても大きな問題であったので、真っ先にその心配を払拭したかった。


 ——当面は日本から輸入してお客様には出来るだけご迷惑の掛からないように最善を尽くすつもりですが、若干いつもよりは納期が掛かってしまうことはお許しください

 ——ああ、そうか……しかし大変だな、工場はそのままにしてどこに避難するつもりなんだ?

 ——「バンナー」*(1)に仮事務所を借りました。空港にも近いですし出来るだけデリバリーの効率を上げたいと思いまして……

 ——そうか、まっ、大変だが今後ともよろしく頼むよ

 ——はい。最善を尽くして対処しますんでしばらくご辛抱ください。では、私も避難します。当分はバンナーのホテル暮らしになります。

 ——ん、気をつけて!頑張ってなっ!


 平田には通りいっぺんの励ましの言葉しか出てこなかった。「KMスチール」の工場があるアユタヤの「ロジャナ工業団地」は、平田の工場から北に20km以上の場所にあるのだが、すでに水はそこまで押し寄せていることに驚きを隠せず、ベッドから飛び起きて冷たい水を一杯煽った。


 ——確か、あの工業団地にはH社の組み立て工場があったはずだが……


 H社——それは、T社やN社と並び立つ日本の巨大自動車メーカーである。とりわけ早くから東南アジアではH社製のバイクは一強独占状態であった。


 平田は、ノートパソコンを開くと、タイ全土の地図を検索し呼び出した。「ロジャナ工業団地」と自社の工場の位置関係を確かめたかった。

直線距離で25km。その数字以上に、二箇所の位置関係は隣接しているように見えて、キーボードを叩く指が少し硬直し痺れが走った。


——まさか……


 日本人の感覚で言えば、「洪水」というのは一過性のもので二、三日もすれば水は自然と高い方から低い方へと引いていくものだという感覚であるが、タイの地形を調べてみて愕然とした。北部や東北部を除けば中部より南はほとんど高低差のない平地となっていて、首都バンコクでは所によって海抜0m以下*(2)の場所もあるのだ。


——(滞留し続ける? )


 一口飲んだ珈琲の味はいつになく苦く口の中に残った————。



—————————————

脚注)

*(1):「バンナー」は、首都バンコクから東南東10kmほどにある街で、古くから商業施設やofficeビルが集結する副都心のような街である。「スワンナプーム国際空港」にも近い。

*(2):「海抜0m」は地形的な要素もあるが、バンコク市内では地下水の組み上げ過ぎで地盤沈下による「海抜0m」化している地区もある。

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