1-6 転注
平田は、着任後落ち着く間もなくタイの顧客に挨拶廻りに出ていた。とりわけメイン取引先のT社の
その日は、現場が忙しい中を前原も同行してくれた。行きの車中で現状のT社への納期遅れの実態に関して聞くうちに、日本であればとっくに取引停止ではないかと思えるくらいの状況に驚き、同時に前任者の梶原が何の手も打たず放置していたことが信じられなかった。
——日本なら一大事になってるな
——ええ。こう言ってはなんですけど、タイは甘いんです、何につけ。
——うむぅ。しかし、相手は天下のT社だぞ、このままではいつか切られるぞ
——はぁ、しかし人を増やすか設備増強でもしない限り、現状は完全に能力オーバーなのは事実です
——わかってる。君の責任じゃないよ。梶原さんの無策ぶりが酷すぎるんだよ
——はぁ……
前原は、その通りなんです——と言いたかったであろうが、おっぴらには上司批判できない立場なので、苦々しく表情を歪めて意思表示するしかなかったようだ。
しかし、平田にとって幸いであったのは、T社のタイ法人
平田が、社長室に通され、
——ええっ!、まさか平田さんがこっちに
——いやぁ、私もまさか、鈴木さんが、こっちの
鈴木は、平田がまだ営業部長の頃、日本のT社の購買事務所を訪れ影山と長々と打ち合わせをしている際にも横でひたすらじっと座っていただけの男であった。しかし影山に見込まれ鍛えられて、ゆくゆくは影山の後を継いで購買部長に昇進することは間違いないだろうと思われていた人物であった。しかし、今日来るにあたって前原からその名は聞かされていたものの、かれこれ十年のブランクが記憶を曖昧にさせていたのか、顔を見るまで思い出せなかった。
——いやぁ、インドネシアに行かれたとまでは聞いていたのですが……
——ええ。インドネシアで三年駐在してから、こっちに回されました。もう四年目ですよ。
当時の面影は薄く、言葉使いこそ平田に敬意を払ってくれているが、その背中に負うオーラはもうすでに世界のトップ自動車メーカーT社のタイ法人社長としての風格が漂っていて、平田でさえ気後れするものがあった。
——鈴木社長、弊社タイ工場が日頃何かと納期でご迷惑をお掛けしていると聞き、こうやってお詫びにあがった次第です
——あぁ、細かいことはさておき、そのような状況であることは報告を受けてます。前任者の梶原さんには何度かうちの購買から警告書が行ってるとは思いますが……
鈴木は、あくまでも平田に対しては柔和な表情で接してくれているが、明らかに事態は深刻であることを言葉の端々に隠して伝え寄越してくれた。
——早急に人員を増やし、新規の設備も増強して対応に当たりますのでなんとか今しばらくご猶予頂けませんでしょうか
——私は平田さんの人柄をよく知ってます。あの影山重役のお眼鏡に叶う人ですから、しかしね、平田さん……
鈴木はソファーの背もたれから身を起こし、厳しい視線で平田に言葉をつないだ。
——来年からは新モデルも立ち上がります。待っても三ヶ月です。それで改善されないなら、他社への転注も考えねばなりません
——承知しました。必ず、必ず、ご期待に添えるように致します。ご配慮頂き、本当にありがとうございます
平田は何年ぶりかに身が竦む思いをした。 T社から仕事を切られるということは自社にとっては“死”を意味するものだった。
——まっ、この話はここまで。平田さんッ!、また今度ゴルフ教えて下さいよ、平田さんには随分、日本でご教示頂きましたよね
購買部長の影山は「KUMADA製作所」のゴルフ接待を受ける際は必ず鈴木も同伴させていたのだ。
——はい、是非。とはいっても私もかれこれ半年ほどクラブ振ってないんですけどね……
——社長っ、鈴木社長はシングルの腕前ですよ
——えっ!
それはそうだ、あの頃はスコアも数え切れないくらいの初心者だったのだから、前原が挟んだ“情報”で思わず鈴木の顔を見返してしまった
——あはは。まぁ、こっちではゴルフしかすることないんで、否が応でも上手くなりますよ
今日のところは何とか切り抜けられたが、鈴木の脅しにも近い「転注」という一言は、平田の肩にズシリと重くのしかかっていた。
自分が、もし此処に来なかったら、自社は三ヶ月の命で尽きていたこともあり得たのだから、梶原の尻を蹴り上げたい衝動に駆られていた。
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