1-4 予兆

 機内放送はバンコク「スワンナプーム空港」着が近いことを知らせていた。しかし、その頃から機体が小刻みに揺れはじめ、下降態勢に入って雲の中に機首が突っ込んだところで機体が大きく上下に揺れた。どうやらバンコク上空には厚い雨雲が覆っているようだった。

 雲の下に機体が降りて来たところで窓に水滴がへばりついてきた。


 ——只今のバンコクの天候は雨、気温摂氏30度です。これより十五分後の現地時刻三時十五分に「スワンナプーム国際空港」に着陸の予定です。皆様にはもう一度お座席のシートベルトをお確かめくださいませ。


 日本語の機内放送を聴き、平田は改めてシートベルトを絞め直した。

 横風にも煽られながらなんとか着陸した時には、滑走路のアスファルトが大きな雨粒に叩かれているのが船窓の向こうに見て取れた。

 

「スワンナプーム空港」は東南アジアのハブ空港らしく、その規模は大きく到着してからイミグレーションカウンターまで辿り着くのに二十分ほど歩かされた。

 以前訪れた際に、最初にこのイミグレーションカウンターの混み具合に閉口したのを思い出したが、どうやらその状況は五年経っても改善はされていなかったようで、入国審査に四十分も並ばされ気の短い大阪人である平田のイライラは頂点に達していた。


 そして次には預け荷物のピックアップでもまた三十分ほど待たされ、いいよいよ平田はブチ切れそうになったが、誰に当たることもできず、じっと長い息を吐いて辛抱することにした。

「三番出口」付近で待ってます——という前原のメール文を思い起こしながら重いスーツケースを押して人混みの中を進むと、見覚えのある男がこちらに手を振って寄越していた。

 日焼けして真っ黒な顔から白い歯がこぼれている。


 ——お疲れ様っす、常務っ

 前原は平田の大きい方のスーツケースを引き取ると、平田を先導するように三番出口の回転扉を抜けて外へ出ていく。


 ——すごい雨だなー 俺、雨男じゃないんだけどな……

 ——ああぁ、ここんとこずっとこんなですから、常務のせいじゃないっすよ、あはははっ


 やがて運転手付きの社用車が横付けされて、トランクルームにスーツケースを積み込んで、バンコク市内へと車は走りだした。

 フロントガラスに大きな雨粒が叩きつけて来る。ワイパーを最強にしても視界は悪く、時折、雷の稲妻が光り直後に耳をつん裂かんばかりの大きな轟音が広大な大地を揺るがしていた。


 ——雨季の真っ盛りってとこなんで、こんな感じなんっすよ。けど、今年は例年になく酷いなーって感じですけどねー

 ——スコールって言うんだろ? すぐに止むんだろ?

 ——ああ、普通はそうなんですけど……今年はなかなか止まないんです。地球環境が変わってしまったんでしょうかねー、ああぁ、このぶんじゃバンコク市内は大渋滞だろうな……


 前原の予想通り、バンコク市内に入ると車はピタリと止まって動かなくなった。前任者の梶原が使っていたコンドミニアムの部屋をそのまま使うことになっていたのだが、辿り着いた時にはとっぷりと陽暮れの時間になっていた。


 —— 一応、電化製品も食器も全部整ってますんで、すぐに住める状態になってます。梶原社長はマメな方でよく自炊されてましたから料理器具とかも、かなり揃ってますよ。そのままにして帰られましたんで。


 バンコクの中心部「スクムビッツ地区」にあるそのコンドミニアムは30階建ての高層コンドミニアムであった。

 平田の部屋は27階で、バンコク市内の夜景が窓越しにパノラマに見て取れた。


 ——降りてすぐ近くに日本料理屋がありますんで……、そこで夕食にしましょうか?

 ——ああぁ、いいねー、腹が立って、腹が減ったよ

 ——なんっすか、それッ

 ——ったく、この国の渋滞ってのは慢性的だな。なんとかならんもんかね

 ——ムリっすね。たぶん……


 前原は、エレベーターのボタンを押しながら意味もない笑を寄越した。


 また、外で稲妻が光り轟音が耳を突き裂いた。

 平田は、細く小さくなることのない雨粒がアスファルトを侵食し冠水させていく様を日本料理屋の窓から眺めていた。

 

 下水口に出来た濁流の渦は蠢く化け物の口のようだった————。

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