第一章 沈む古都アユタヤ
1-1 水没
「事態」を把握するには一見するのが最善——というのが平田のこれまでの企業人としての信念であった。
自ら車を走らせ現場を見渡せるであろう高速道路の高架橋の下まで来た。そこからは車での通行は規制されていて、車を降りて高架橋を歩いて登った。十月のタイはまだ暑い。
平田はガクガクする脚を両の手で支えながら、上がる息を整えてゆっくり身を起こした。
唖然として声が出ない——、とはこのことなのだろうか。
眼前に広がる光景は自分の想像していたものを遥かに凌駕していた。
タイ中部の大地が湖と化していた。
遠くに、古都アユタヤの街並みが見えるが、そこまで通じる道も大地もすべて湖面の下に水没していた。
ただ不気味に湖面の水が南国の陽の光に照り輝いていた。その様だけを見ていると、そいつはじっとそこで留まっているだけに見え、いずれ日が経てば照りつける南国の太陽がそいつらを空へと舞い上げ消し去ってくれると思えた。
なぜなら、湖面の水はあまりにも静かで凶器と化す化け物にはどうしても見えなかったのだ。
平田は好んで読んだ司馬遼太郎の歴史小説の一片を思い起こしていた。それは羽柴秀吉による備中高松城の「水攻め」の様であった。
古都アユタヤの街並みの周囲をすっぽり水で取り囲まれている様がそれを想起させたのだ。
——えらいことに、なってる
それは、思わずこぼれ落ちた嘘偽りのない声であった。
しかし、次の瞬間得体の知れない恐怖感が平田の全身に襲ってきた。体感温度ではゆうに三十度は超えているというのに、寒気すらした。
——来るっ、こいつらはきっと来る
平田の五感には見えた、聴こえた、いや、嗅ぎ取ったのかもしれない——眼前の化け物が蠢きながら狂気の雄叫びをあげるのを。
平田は、急ぎ高速道路の高架橋を駆け降りて車に飛び乗った。すぐに対応策を考えねばならないと思った。ハンドルを握る手の汗が引かない。
次から次へと巡る思考を整理することもできず、そこから南に10kmほど戻った場所にある自分の工場へと車のアクセルを踏みこんだ。
連日、テレビのニュースで報じられる「洪水情報」で、どこそこの偉い大学教授が説く今後の予想には何度も裏切られてきた。
「最終防衛ライン」がどんどん南下しているのだ。
地元のタイ人たちは、これ以上の南下を政府が黙って見過ごすことはない、国立大学や歴史のある大工業団地が存在する場所まで「侵略」を許すはずがない——、と言う。
しかし、平田は自分の五感で感じ得たものを信じることにした。
来週にはゼッタイ、やつらは来る————。
今日は十月十五日(土曜日)であった。
事は急がねばならなかった。
水深2m以上の水に襲われたら、自分の工場は、間違いなく死ぬ。
それは企業倒産を意味した。
ほんの数ヶ月前の自分には、今置かれているこの緊迫した状況は露微塵も想像できないことだった。
平田は、自分にこの「試練」を課した神を呪いたい気分だった。
否、さしずめ、サッサと帰国してしまった前任者の梶原常務へ恨み節を吐きたかった。きゃつは、三時間ほどの簡単な手術でピンピンと元気になって、夜な夜な大阪の「北新地」で飲み歩いているらしいじゃないかっ!
神は克服でき得るものにしか、試練を与えない————。
その時、それらを鎮めるためにやっと探り出して呟いたこの
化け物は刻一刻と進軍を続けていた————。
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