1-2 赴任
まだまだ残暑厳しい、2011年の八月が終わろうとしていた——。
クーラーの設定温度を律儀に二十七度に設定させた「社長室」には汗臭と
平田は、ヌルい風を吹き出すエアコンを恨めしく見上げた。
今年の三月十一日、東北地方を襲った「東日本大震災」の影響がまだまだ色濃く残っていて、遠く離れたこの大阪でも、「節電」と「自粛」の波は届いていた。
節電というより、お年寄りはエアコンの冷気が苦手なのよ——と、事務所のお局女子社員が給湯室で笑い話にしているのを盗み聞いたことがある。
——急なことなんだが、タイに行ってくれないか
社長の熊田は老眼鏡越しに上目使いで平田に問うて寄越した。
この会社の創業社長の熊田耕三は、その顔には深い皺が無数に刻まれ、老獪を絵に描いたような
——タイ?、タイ工場ですか?
——そうなんだ、梶原くんが大腸ガンの疑いがあるから、帰して欲しいって言って来たんだよ。日本でポリーブ切除の手術を受けたいってね
——はぁ、それで、私に行け……ですか
平田
平田は営業統括の常務取締役として、熊田を支えていた。
——君んとこはもう子供も大きいし、大丈夫だろ? 取り敢えず、三年ってことで、頼むよっ!
平田は目の前の禿げ頭をぼーっと眺めながら逡巡していたが、さしたる断る理由も浮かばず、不思議なくらいあっさりそれを了承した。
——分かりました。で、いつから?
——あぁー、できるだけ早く頼むよッ。明日からでも行って欲しいくらいなんだよ
結局、総務部長の一言でビジネスビザの申請許可が下り次第——ということで決着した。
窓の外でまだまだ現役で忙しなく鳴く蝉の鳴き声が少しばかり癪に触った。
タイには、現地工場が立ち上がる際に数ヶ月ほど短期出張した経験があるだけであった。現地の得意先工場との取引開始の手続きの為の滞在だった。あれからもう五年が経つ。その時覚えた少しのタイ語も記憶の彼方となっていた。
社長の熊田とは三年の約束であるが、前任者の梶原常務が帰任となると、自分以外に適任な人材も見当たらず、平田は長期になることを覚悟していた。
その日、退社後すぐに街の本屋に飛び込み、タイ語教習本を数冊買い込んで帰宅した。
——えっ? タイ? そう……、たいへんねーそれは……
妻の反応は予想通りで、言葉通りに“たいへん”とは思っていないのがすぐにわかった。すっかり専業主婦脳になっていて、娘の大学の授業料さえきちんと払えれば、亭主がどこで働いていようが構わないというのが本音なんだろう、口に出して言わないだけで——。
——(亭主元気で留守がいい……か)
平田は胸内で舌打ちひとつして、書斎に消えた。
平田は、携帯電話でタイ工場で勤める前原健二に電話を掛けた。前原は三十代でまだ独身だったので、工場立ち上げの時からタイに赴任していた。現在は若いながらも工場長としてタイ工場を切り盛りしているらしい。
——ああ、平田だけど……
——あっ、平田常務、お疲れ様です
——聞いてるかな? こんど俺がタイ工場の
——えっ、そうなんですか? 梶原社長が定期検診で初期の大腸ガンが見つかったって聞いてましたけど、やっぱり帰任されるんですか……
——ああ、日本で治療したいらしい。それで、俺におはちが回ってきたってことだ
——いやぁー、タイはいいとこですよ? 住めば都ですし……、お待ちしてますよっ!
——まぁ、とにかくヨロシク頼むよ
国際電話ということもあって手短に済ませて切った。
——(サワッディー カップ……か)
平田は「速習タイ語」のページをパラパラ捲りながら長い息を一つ吐いた。
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