ビー玉色の春

働く秀吉

 『私立東梨学園では、校内にいる限り女子生徒は鼻にビー玉を詰めることが校則で決まっている。

 校則の発足は20数年前に遡る。ある女性教諭が、女性ばかり顔の造りをとやかく言われることに反発し、ルッキズムへのボイコットとして鼻にビー玉を詰めて授業を始めた。美醜の差を失くそうとのことだったらしい。抗議方法としての是非はともかく、彼女の行動は女子生徒の持つ好奇心や抑圧への反動に後押しされ、瞬く間に校内中へと広がった。詳しい文献もなく確かなことは不明だが、以来この学校の女子生徒は一様に鼻にビー玉を詰めて登校するようになり、いつしか校則にまで発展した。今となってはプロパガンダとしての意味合いが強いと思われる。

 人に言えば必ず怪訝な顔をされる校則である。昨今インターネットをはじめとする各所で賛否こもごも話題になりだしたものの、東梨学園は由緒ある名門校であり、年に数回問い合わせがある程度で大きな問題にもなっていない。発足当初は疑問を持った保護者が子供の受験を見送る動きもあった。しかし現在では、不可解とも言える校則に我慢して余りある高度な教育を求めて入学希望の生徒が後を絶たない。

 一方で、男子生徒に向けた特殊な制約は何もない。ただ他の高校と同様に指定制服や髪型の基準があるのみである。外部から見ると男尊女卑と捉えられかねないが、女性の自主的な逃避であり抗議であるというのが東梨学園の見解であるらしい。』


 そこまで書いて、坂本達也はキーボードを叩く手を止めた。いつもの起床時間にセットした時計のアラームに手を伸ばす。達也の部屋は西側に面しているため、全く朝日が入らず朝が来るたびに物足りなさを感じさせる。季節外れの暑さもあり、せっかくの早起きでさえ爽快な気分にはならなかった。

 達也は起動していたテキストファイルを閉じ、パソコンの電源を切った。ただ画面を閉じるだけで状態保存も可能なのだが、電源まで落とさないと母親がうるさい。真っ暗になった画面を見とめ、なるべく丁寧に折りたたんだ。

 昨年の3月まで通っていた中学時代の担任から、「君が在籍する東梨学園についてレポートにまとめて欲しい」と連絡があったのは一昨日のことである。何故今さらになってと思ったものの、達也のいた中学から東梨学園に進学する生徒は非常に珍しく、生徒はもちろん教師たちも今後の参考にしたいとのことだった。承諾はしたものの、しかしうまく書けるのか未だに気掛かりである。

 書き進めたものを見返してみる。東梨学園を語るうえで校則を無視することは難しい。達也の中学を含め、学園近辺では誰もが知る校則ではある。だが、知ることと理解することは全く別ものだ。高い学力とブランドを誇る学園への憧れと、得体の知れない校則への不安とが生徒たちを悩ませる。

 レポートには余計なことを書いたが、シンプルに言えば女子は鼻にビー玉を詰めるのだ。例外はほとんどない。部活動内で生じる秘密の恋慕も、鼻にビー玉が詰まっている。意気揚々と発言のために手を挙げる優等生も、鼻にビー玉が詰まっている。放課後の下駄箱の前で偶然居合わせた密かに思い募らせるあの子も、鼻にビー玉が詰まっている。学園祭の前日暗くなるまで人の残る教室には、鼻から放たれたビー玉が落ちている。畢竟、東梨学園の青春にはいつでもビー玉が詰まっている。



 学園へと向かう電車の中で東梨学園の制服を見かけると、思わず相手の顔に目を向けてしまう。校則では校内でのみビー玉着用が義務付けられているため、登校中は皆一様に素の鼻である。そのため、校外で見る顔といつも見ている顔が一致しないこともしょっちゅうだ。今日も電車を降りたところでクラスメイトの小西さんから「おはよう」と声をかけられ、誰かわからず必要以上に警戒してしまった。

 「あ、小西だよ、小西理生。同じクラスの。わかる?」

 「わかるよ、わかる。もちろんわかってたさ。」

 「嘘ばっかり。そんなに目を細めて見られたら、誰でも傷つくんだからね。」

 そう言って理生は笑う。達也は自身の気恥ずかしさを隠すのに必死で、小さく「ごめん」と返すだけだった。初めて見る理生の素顔は、天空の王者たる鷲を思わせた。美人とは言えないかもしれないが、やけに鼻筋が通っている。まるで鼻に合わせてそれ以外のパーツが発生したかのように、目や口からも鋭さを感じる。女子生徒の素顔を見ると、平日は制服姿の異性と休日に私服で待ち合わせたときと同じ当惑を覚えてしまう。誰かに自慢したいほど嬉しいのに、なぜだか罪悪感のようなものもある。そんな感情に達也は支配された。

 「ごめんじゃ許せないから、罰として学園まで一緒に行こ。」

 直に次の電車が来るとアナウンスがあった。理生の鼻をうまく見ることができない。このまま留まっていると邪魔になるからと自分に言い聞かせ、気恥ずかしさを誤魔化しながら歩きだした。


 学園までの道のりでは、取り留めのない話題に無理矢理花を咲かせた。すべての言葉が自分の喉のみでやりとりされているように、達也には思えた。

 いくらかは理生も笑っていたと思う。だがそんなことを気にする余裕もなく達也は理生の顔の一部から目が離せなかった。

 「坂本くん、私の顔に何かついてる?ずっと見てるけど。」

 「何もついてないから見てるんだ。」思わず口をついて出そうになった言葉をすんでのところで引き留める。

 「なんでもないよ。気にしないで。」

 達也は理生の鼻を見ながら答えた。理生は少し眉をひそめたが、すぐに表情を緩め前に向き直る。つられて達也も前に目をやると、いつも学園の目印にしている大きな杉の木が見えた。いつの間にか学園が近づいていたようだ。

 校門まで100メートルというところで、理生が肩にかけた指定の学生カバンに手を伸ばす。指定のカバンは黒か紺の二色と決まっており、形はオーソドックスな長方形のものだけが許されている。ファスナーの隙間から覗ける限り整頓されたカバンの中から、理生は小さなプラスチックケースを取り出した。やけに慎重な理生の手つきを見て、達也にも合点がいく。

 「それって、あれ?」

 「そう、あれ。もうすぐ学校だからね。こんなに前からつけたくはないけど、校門に先生がいたら面倒だから。あ、ちょっと向こう見てて。」

 周りを見渡すと、多くの女子生徒が一斉に鼻に指を突っ込んでいる。毎日見慣れた光景とはいえ、いつまで経ってもこの異様さは慣れるものでない。ビー玉は特注で、息がしやすいように通気穴が開いている。その穴と鼻筋が垂直になるようにビー玉を詰めるのだ。そうすれば難なく鼻呼吸が可能になる。とはいえ始業前から放課後まで正味10時間ほど鼻にビー玉を詰め続けるのは容易でないだろう。

 「いいよ、お待たせ。」

 振り向くと、そこには輝きを失った鼻があった。落胆からか、鼻を見据えることができなかった。厳密に言えば詰められたビー玉が輝いているのだが、先程まで理生の鼻に強く惹かれていた達也にとっては黒光りする昆虫にも似た不快な輝きに思えた。

 「それって、やっぱりマイビー玉?」

 目を逸らしたまま達也は尋ねた。

 「そ。2つで500円っていう微妙に高価なシロモノだよ。知ってる?カラーバリエーションがたくさんあって、30種類ぐらいあるんだ。今日のは赤いやつ。今日のやつと言っても他には青しか持ってないけどね。だから失くしたらショック。先生にも怒られるし。」

 プラスチックケースをカバンにしまい終え理生が再び歩きだしたので、慌てて達也も横に並ぶ。

 「失くしたらどうするの?」

 「保健室に貸し出しのビー玉があるからそれを借りるの。忘れたときも一緒。でもちゃんと消毒されてるか不安でさ、あまり借りたくないんだよね。」

 左腕の時計に目をやる。始業時間までには十分な時間がある。

 「へえ、大変だね。」

 「大変だね、なんて言う人は本当に大変だなんて思ってないんだよ、もう。」

 「ごめん、ごめん。でもさ、少しは大変だろうに、なんでずっとつけ続けるの?」

 達也はそこでやっと理生の顔を再度見ることができた。理生は目だけを上にやる仕草をし、ややあって校門のほうを見据え口を開いた。

 「きっと誇りみたいなものがあるんだよ。このビー玉って、偉大な先生や先輩が戦った証なんでしょ?名前も覚えてないけど。でも、先輩とか、自分自身とかの思いが詰まってる気がするんだ。うーん、なんだかね、私は東梨に通ってるんだぞって。いっぱい勉強してここにいるんだぞって。うまく言えないけど、そういう気分になるんだ。」

 理生はそれきり何も言わなかった。少し足早に歩き、校門を過ぎたところで風紀委員からビー玉のチェックを受け、また歩き出すのを、達也はただ茫然と後ろから見ていた。

世界には、いわゆる一般人には理解できない文化が往々にして存在する。それは例えばカニバリズムであり、奴隷制度であり、極端に考えれば宗教も該当するかもしれない。しかし、それらも当人にしてみれば当たり前のことで、誇りをも持ち得る。だから部外者である一般人にそれらを制限する権利などないのかもしれない。

 風紀委員に目を向けながら校門をくぐる。彼女たちは男子生徒に関心がない。ただビー玉だけをチェックしている。理生はああ言ったが、形骸化してしまったものに果たして意義はあるのだろうか。



 教室に入ると、まだ遅刻にはほど遠い時間であるのに多くの生徒が集まっていた。教室の朝はどうにもやかましい。朝の目覚ましアラームを聞いていない今日は、いつにも増してうるさく感じられた。

窓際の後ろから二番目の席に腰を下ろす。ドアからの道中数人と挨拶を交わしはしたものの、立ち話に興じることはなかった。頬に差す朝日がまぶしい。達也はやっと朝の気分を得た。

 もちろん、女子は朝からビー玉を鼻に詰めている。一方で、中には男子でも鼻にビー玉を詰めている者もある。彼らの意図するものにはファッションや一種のフェミニズムなど多様なものがあるが、それ以外の男子からは一様にビーダマンと呼ばれている。自分たちは女子の気持ちがわかるんだ、というような態度がどうやら鼻につくようだ。

 レポートの続きに備え、達也は頭の中で東梨学園についてさらってみる。

東梨学園の授業にギャグは厳禁だ。人間、厳粛な雰囲気の中で思わず笑おうとすると鼻から息が噴き出てしまう。東梨の場合はビー玉が噴出され、屋根裏のネズミのように床中を転がりまわる。ビー玉には各々の粘膜や鼻水が付着しているため、間違えて他人のビー玉を詰めるという事態は誰もが絶対に避けたい。そのためビー玉が噴き出る度に授業をストップさせ、ビー玉の同定をしなければならず、カリキュラムが一向に進まないのだ。

 また、花粉症が猛威を振るう時期はビー玉も猛威を振るう。くしゃみによって床を転がりだしたビー玉はただのビー玉ではなく、鼻水のベールに包まれているのである。たとえマスクをしていようとも、その重さでビー玉は落下してしまう。菌は防げてもビー玉は防げない、というのがこの学園におけるマスクの評価になっている。

 そんな日常の中にいると、どうしても漫画によくあるような高校生活は遠い存在になってしまう。おそらく世の高校生よりもみんな漫画のような高校生活への憧れが強い。それらに比べて、自分たちの学園生活はつまらないと感じているようだ。鼻にビー玉は詰まっているのに。特に達也は劣等感にも似た憧れを持っている。目を瞑るといつでも落とした消しゴムを拾おうとしたときに手と手が触れ合う、といった陳腐なシチュエーションを描くことができた。しかしそれを声に出すと鼻で笑われるのが関の山であり、決して思い描く以上のことはしなかった。


 いつしか授業が始まっていたらしい。周りを見るとみんな背筋を伸ばし教師の声に耳を傾けている。達也も座りなおし、ペンを握ろうとして机に何の準備もしていないことに気付いた。一限は英語である。教師は慌てる達也を気にも留めず、ひたすら教科書を読み上げている。ひとつ息を吐く。机の横にかけたカバンから急いで教科書とノートを取り出し、もういちど深く椅子に座った。

 今日は春にしては暖かく、少しはやい花粉も舞うだろうとテレビで言っていた。ブレザーを脱いで椅子に掛ける生徒も目立つ。達也もブレザーを脱ぎ、ワイシャツの袖を2回まくった。

ふと、誰かが近くでくしゃみをした。

 「今の誰だ。」

 すぐに教師が教科書から目を上げた。しわのよった額が教室中を見渡す。

 「すみません、私です。」

 ふたつ隣の席で、理生が恥ずかしそうに手を挙げた。挙げていないほうの手で、ビー玉のとれた鼻を隠すようにしている。

 「ふたつともか。」

 「はい。」

 「そうか。もうすぐ花粉がひどい季節だから、マスクをカバンに入れておくようにしておけよ。くしゃみしちゃあ意味ないけど、花粉自体には効果あるからな。おい、みんな小西のを探してやれ。」

 世間ではよく、若者の文化を理解しない高齢者の存在が話題になる。しかし東梨学園の校則に限ってはどの年代も理解している。古くからあって根付いていることに加え、私立の高校なので教師に転勤がなく新任も卒業生が多いこともあり、誰も異を唱えない。秘密を共有したときに似た連帯感が生まれるのか、教師と生徒で反発しあうこともほぼないと言っていい。

 誰かが足元を探そうと頭をもたげ、それが教室中に広がる。達也も自分の机の周りを確認した。机の脚にはほこりのひとつもない。表面が湿ったビー玉がほこりまみれの床を転がると掃除を終えた粘着クリーナーのようになるので、毎日丹念に掃除が為されるのだ。ビー玉は、ふたつとも持ち上げた達也の足の下にあった。気づかずに踏んでしまっていたらしい。それにしても、真横に転がるなんて不思議な動きをしたものだ。

 ありました、とだけ言ってカバンの中からティッシュを取り出し、ふたつを一度に摘まんだ。あやうく指先から転がり落ちそうになりながらも、なんとかもう一方の手のひらに乗せる。

 「ありがとう。」

 気づくと理生が隣に立っていた。右の手のひらを達也に差し出してくる。教室で素の鼻を見せるのが恥ずかしいのか未だ左手で隠しているのが奇妙に映った。達也はティッシュの上からビー玉を軽く握り、その手を理生の右手に重ね、そっと落とした。瞬間、小さく跳ねるビー玉。慌てたように理生が左手をおろし、達也も両手でビー玉を掬い上げようとする。よっつの手でビー玉を包み込むような恰好になった。

 「危なかったね。」

 理生へ笑いかけた達也の目に、鼻が飛び込んできた。アンコールワットのような荘厳さ。ストーンヘンジのような不可解さ。サグラダファミリアのような未完成さ。それらすべてを内包している理生の鼻に達也は打ちひしがれた。冷たい水が体に行き渡るのを感じるように、理生のすべてが体に入ってくる。目は口程に物を言うと云うが、鼻は口以上に物を言う。

 「どうしたの。やっぱり私の顔に何かついてる?」

 視界の下のほうで、赤いビー玉が光る。達也が何も答えられないでいる間に、教師が「はやく洗ってきなさい。」と声をかけた。理生はもう一度だけありがとうと言うとドアに向かって歩き出す。

 「一人で行けるか?」

 ビーダマンの一人が冷やかしの声をあげた。何人かが噴き出しそうになるのをこらえる。みんなの笑う声が充満する中、達也は静かに席についた。場を鎮めようと喚く教師。笑い合う男子。ずれたビー玉を直す女子。赤く光るビー玉。達也は自分の頬が熱くなるのを感じ、手で小さく仰いだ。

 「今日やっぱり暑いよね。」

 教室のどこかで女子が言った。一度起きた喧噪はなかなか終着に辿りつかない。太陽が昇るにつれて高くなった気温に比例するように、クラスメイトたちの饒舌も熱を帯びた。


 春に芽吹き、夏に花が咲く。秋にはそれらが枯れ、冬には雪を纏う。日本の四季が見せる様々な景色には、いつも多くの植物が華を添える。

 今まで達也がこんなにも鼻に美しさを感じるなど、自分でさえ知らなかった。昔は何も感じなかったはずである。しかし、不純物が混じってから魅力に気づくこともあるのではないか。これから、どんな鼻の移ろいを見せてくれるのか、途端に楽しみになった。窓から降り注ぐ日差しに目を細める。

 もうすぐ、夏が来る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ビー玉色の春 働く秀吉 @shin8hideyoshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ