「魔」を狩る者

『見ようとするなっ、感じ取れと言ったろうが! 何度も同じことを言わせるんじゃないっ、この馬鹿野郎!』


 懐かしい声が聞こえたような気がして、レイスヴァーンは少し首をかしげて宙を仰いだ。

 「狭間」を自在に通り抜けて姿をくらませる化け物を相手に、目で追おうとするな、気配を探れ……そう言って、『魔の系譜』と対峙するすべを叩き込んでくれた妖獣狩人の声が、心の中で鮮やかに蘇る。


『「魔の系譜」とは言え、血肉を持つものなら必ず急所も持ち合わせている。妖獣の外皮は分厚く硬いってのが通説だが、奴らの骨節ほねぶしの裏側を覆う外皮は驚くほど柔らかくてね。そこを狙えば、わざわざ狩人の武器なんぞ使わずとも、お前たち傭兵のなまくらな剣で傷つけることが出来るのさ……覚えておけよ、レイス。そこを断ち切れば、確実に奴らの動きを止められる』


 簡単に言ってくれるな、と薄笑いを浮かべて心の中で毒突くと、レイスヴァーンはゆっくりと静かな呼吸を繰り返しながら、この世界に棲まう全てのものの息遣い一つ逃すまいと、感覚を研ぎ澄ませた。



 地響きと共に、地上に降り積もった雪が巻き上げられた。

 「捧げもの」の隊列から取り残された五台の荷馬車の周りに、白い煙幕がもうもうと立ち込める。 

 はらり、はらりと頭上から舞い落ちる銀色の輝きは、砕け散った結界の欠片かけらだろうか。全てを覆い尽くした白い静寂の中に、地を這うような獣のうなり声だけが不気味に響き渡った。

 視界を奪われて身動きが取れぬまま、傭兵達は己が守るべきの無事を確かめようと、馬車の荷台に向けて手を伸ばした。

 荷台の上で、すっぽりと毛布で覆い隠された子供達が、恐怖で震える身体を寄せ合いながられ出そうな嗚咽おえつを懸命にこらえている。最後尾の馬車には、ギイとウィアに見守られながらシルルースが何も知らずに眠り続けているはずだ。


 ……守るべき命を、人の子としての尊厳を、あんな化け物に奪われてたまるものか。


を守ることが優先だ。奴が襲ってこない限り、絶対に手を出さないでくれ」

 レイスヴァーンは込み上げる怒りを心の奥底に抑え込むと、感情を伴わぬ低く冷ややかな声で告げながら、雪煙の向こう側に潜む獣の気配に固唾かたずを呑む男達の間を静かにすり抜けて行く。

「やむを得ない場合は、骨節ほねぶしの裏側を狙うんだ。そこを断ち斬れば、奴の動きを止められる」

 尋常でないことをさらりと言ってのける赤毛の若者に、すれ違いざま、年長の傭兵があざけりを含んだ声色で「簡単に言ってくれるな」と吐き捨てた。その言葉に、レイスヴァーンは口元を歪めて薄笑いを浮かべた。

「簡単なことさ……あの化け物に喰い殺されたくなければ、そうするしかないんだ」


 白くかすむ視界の向こう側から禍々まがまがしい気配が漂ってくる。ちょうど、横倒しになった荷馬車がある辺りだ。おそらく、その下で絶命した若い傭兵の血肉の匂いに引かれた獣が、獲物にむさぼりついてでもいるのだろう。

 躊躇ためらいもなく長剣を引き抜いて、何かを咀嚼そしゃくするような耳障りな音のする方へ切っ先を向けると、レイスヴァーンは出来るだけ物音を立てぬように歩みを進めた。


 一瞬、目の前の煙幕がわずかに揺らいだ気がした。

 

 刹那、白煙の中からゆらりと現れたは、狂気に駆られた金色の瞳でレイスヴァーンをぎょろりと見据えると、鋭い牙が覗く口元から赤黒いよだれしたたらせながら全身の毛を逆立て、鋭い唸り声を上げた。



 「魔の系譜」は、人間の心に潜む恐怖や憎悪さえもかてとする。

 だが、行く手を阻むように悠然とたたずむ人の子から漂う匂いは、その手に握られたやいばの如く冷たく味気ない。禍々まがまがしい呪詛を練りこんだ武器を振り回す狩人達と同じ気配をまとう戦士を前に、束の間、妖獣は正気を取り戻しかけた。

 が、戦士の背後から漂い来る、恐れおののく人の子の甘美な匂いが、獣の魂を再びの狂気に引き戻した。かぐわしいの匂いに鼻をひくつかせ、よだれを垂らしながら青く長い舌で口元をずるりと舐め回すと、妖獣は蜥蜴とかげのそれを思わせる奇妙に折れ曲がった長い四肢を踏ん張って、大地を思い切り蹴った。



 軍馬など簡単に踏みつぶしそうなほど巨大な獣が、雪を蹴散らし、宙を泳ぐように軽々と跳躍した。

 その姿形からは考えられぬほどの身軽さに、レイスヴァーンは驚愕しながらも咄嗟に雪の上に身を投げ出し、妖獣の脇腹をかすめるようにして鋭い牙と鉤爪をかわした。が、獣の狙いが自分ではなく、後方に控える傭兵と子供達なのだと気づいて、振り返りざまに眼を凝らし、獣の後脚に狙いを定め、渾身こんしんの力を振り絞って長剣を横に大きくぎ払った。

 獣の外皮を引き裂いた刀身が、ずしり、と肉に食い込む手応えを確かに感じた。


 次の瞬間、思わぬ反撃を食らった妖獣が凄まじい咆哮を上げて、ぐらりと傾いた巨体を支えきれずに雪の中に倒れ込んだ。



 雪しぶきを上げてくずおれる獣の姿に、荷馬車を守っていた男達の間から歓声が上がった。すかさず、手練てだれの傭兵達が長槍を手にして前に飛び出し、雪に埋もれてもがく化け物にとどめを刺す好機とばかりに走り出した。

 武器を手にした人の子らが群れ寄る気配に、妖獣は苛立ちも露わな形相を浮かべながらも何とか身を起こした。が、後脚の一つが思うように動かぬことに気づいて、首をぶるりと横に振って甲高い咆哮を上げると、怒りに燃えるまなこで人の子らを睨みつけた。


ひるむなっ、取り囲め!」

「骨節の裏側、だったな。狙えるか?」

「やるしかないだろう……脚だ! とにかく脚を狙えっ!」

 互いを鼓舞するように叫び合いながら、傭兵達は妖獣の周りをぐるりと取り囲む。と、獣の正面で長槍を構えていた数名の男達が示し合わせたように躍り出て、鉤爪と鋭い牙の攻撃を際どいところでかわしながら、槍を振るい始めた。残りの男達は獣の背後から忍び寄り、後脚を刺しつらぬこうと長槍で素早い突きを繰り返す。

 分厚い外皮にはじかれて槍の穂先が砕け散っても、新たな槍が獣の急所を斬り裂くべく、素早く繰り出される。

 絶え間なく攻撃を仕掛けることで化け物をこの場に足止めすることが出来れば、先に行った者達が援軍を連れて戻るまで持ちこたえられるかもしれない。それまで、何としても生き延びなければ。「魔の系譜」とは言え、獣ごときに喰い殺されてたまるものか……その思いだけが、傭兵達を突き動かしていた。



 群がるわずらわしい虫を追い払うが如く、妖獣は長く太い尻尾をぶんっと振り回して後脚にたかる人の子らを蹴散けちらし、目の前に群がる戦士達を噛み砕こうと牙を剥き、鋭い鉤爪の光る前脚で男達を薙ぎ倒し続けた。

 だが、執拗に急所を狙って繰り出される刃に少しずつ斬り裂かれる痛みに、さしもの妖獣も怒りとも苦悶ともつかぬ耳障りな唸り声をらし始めた。

 視点の定まらぬ金色の瞳が何かの気配を探るかのように、ぎょろり、ぎょろりとせわしなく動き続ける。と、獣の頭上を覆う緑の天蓋てんがいが、ぐにゃり、と不自然に揺らいだ。

 途端に、獣の瞳が不気味な輝きを増した。



 傭兵らと共に、獣の背後から剣を振るっていたレイスヴァーンは、森の木々が急に騒めいたような気がして思わず後退あとずさった。いぶかしげに目を凝らして辺りを見回せば、何かを探るような素振りを見せる妖獣の頭上で、ぼんやりと現れた小さな漆黒のが、木々の緑と舞い降りる雪を巻き込みながら、ゆらり、ゆらり、と少しずつ形を変えてふくらんでいくのが見て取れた。

 まるで身震いでもするかのように、その闇色の空間が、ぐにゃり、と大きくゆがんだ……


 傭兵達が異変に気付いたのは、険しい表情で宙を見上げたまま立ち尽くす赤毛の若者の視線の先で、漆黒の闇が虚空にぽっかりと口を開けた時だった。戦場に身を置いたことがある者ならば、「中空に突然現れる闇色の穴」が、術師の使い魔である妖獣達の通り道なのだと承知している。

「まずい……上だっ!」

「奴を跳ばせるなっ! あそこに逃げ込まれたら、厄介だぞ!」

 慌てふためく男達を嘲笑あざわらうかのように、妖獣は甲高い咆哮を上げて、あっという間に宙に舞い上がり、揺らいだ闇の中に姿を消した。



 何処からか再び、あの忌まわしい獣が飛び出してくるのではないか……そんな不安をあおる不気味な静けさの中、長槍を構えて辺りに眼を凝らし続けていた男達が、一人、また一人と、武器を握りしめる手を緩め、安堵のため息をもらし始めた。 

 最悪の事態は免れたのだと、まだ緊張のけ切らぬ顔に薄笑いを浮かべながら、仲間の視線を受けては小さくうなずき返し、互いを労わるように軽く肩を叩きながら、傭兵達は自分の持ち場へ戻ろうと動き出した。


 その傍らで、ただ一人、長身の若者があごを上げ、頭上を覆い尽くす森の木々を見据えたままたたずんでいる。遠目ながらも、あの鮮やかに燃える炎のような赤銅しゃくどう色の髪は、レイスヴァーンに違いない。

「あいつ、まだ警戒していやがるなあ」

 ギイは苦笑いを浮かべながら荷台へと視線を移した。眠り続けるシルルースにぴったりと身体を寄せたウィアが、青ざめた顔でがたがたと小刻みに震えている。

「確かに、これだけの獲物を前にしておきながら、やけにあきらめが良過ぎるんだよなあ。奴ら、もっと貪欲なはずなんだが……」

 怪訝そうな声でギイがつぶやいた、まさにその時。


 地を揺るがすほどの咆哮と共に、ぐにゃりと歪んだ空間を引き裂いて、妖獣が再び姿を現した。

 血走った金色の瞳が馬車の荷台で恐怖にすくむ子供達をとらえるや否や、獣は勝ち誇ったような雄叫びを上げて、地上の獲物目掛けて宙を蹴った。 

 絶望感に襲われながらも、がむしゃらに馬車に向かって走り出した傭兵達の目の前で、泣き叫ぶ子供達の頭上に妖獣の鋭い鉤爪が降り下ろされる……



 一瞬の後、音もなく斬り裂かれた獣の前脚が血飛沫しぶきを上げて宙を舞い、大きな音を立てて馬車のすぐ脇に転がり落ちて雪煙を巻き上げた。


 子供達が狂ったように悲鳴を上げる中、揺らいだ空間から躍り出た一人の男が、薙鎌なぎがまに似た大きな武器で容赦なく妖獣の脚を斬り捨てるのを、傭兵達は呆然と見つめていた。

 異様なほどに長い柄に不釣り合わぬ大きな三日月の鎌のやいばと、柄の先に取り付けられた短い直刀に、奇妙な文様がびっしりと刻まれている。堂々とした体躯を覆うよろいにも、瘴気の毒を吸い込まぬための面頬めんぼうにも、同様に刻み込まれた呪詛の文様が、男がただの戦士ではないことを物語っていた。


 ……妖獣狩人だ。


 レイスヴァーンは思わず、ごくり、と喉を鳴らした。


 男の背後から、巨大な毒竜エレンスゲを思わせる姿形の、だが彼らとは似ても似つかぬ美しい翼を持つ白い妖獣が姿を現し、ふわりと地上に舞い降りた。その背から、すらりとした肢体に簡素な革の武具を身に付けた女戦士が、軽やかな動きで滑り降りる。

『セサル、助けてやれそうか?』

 女が紡ぐのは、大陸の共通語とは明らかに違う、流れるような美しい響きを持つ異国の言葉だ。

 名を呼ばれて、セサルは首をゆっくりと横に振ると、歪んだ虚空に逃げ込もうとする獣の首を目掛けて大鎌を振り下ろした。


 断末魔の叫びと共に、妖獣の首がごろりと転がり落ちる。同時に、その巨体がゆっくりと崩れ落ち、森の木々を押し倒しながら地面に倒れ込んだ。頭部を失ったむくろから見る間に瘴気が立ち昇り、「魔の系譜」の青黒い血がどくどくとあふれ出して、じゅうっと音を立てながら大地を覆っていた雪を溶かしていく。

 毒気を含んだ白い煙が辺りに漂い始めると、毛布の隙間から恐る恐る顔をのぞかせていた子供達が苦しそうに咳き込み出した。


『急げ、セサル! この瘴気だ、幼い子らは耐えられん』

 女戦士は首に巻いていた布で口元を覆うと、もうもうと毒の気を放つ獣の遺骸のそばにひざまずいて祈りの言葉を捧げている男の肩に手を掛けた。セサルは静かにうなずいて立ち上がり、ひゅうっと口笛を鳴らす。

 と、それまで傍らでむしゃむしゃと森の緑を頬張っていた毒竜が、くるると喉を鳴らしてあるじの方へ歩み寄って来た。妖獣狩人は少し呆れたように目尻を下げると、鋭い牙の突き出た口からみ出た葉を取り除き、ごつごつとした鼻梁びりょうを優しく撫でながら、妖獣に向かって何事か話し掛けた。


 少し首を傾げたまま主の声に耳を傾けていた毒竜が、不意に大きな翼をばさりと広げて舞い上がった。

 その姿が歪んだ空間に吸い込まれて消えた途端、獣の遺骸が横たわる辺りの木々がぐにゃりと不自然に歪み始めた。やがて、木々の間にぽっかりと空いた闇色の穴から、鋭い鉤爪のついた二本の白い脚がにゅうっと現れて、瘴気を放つ妖獣の巨体をがっしりと掴み取り、暗闇の中に引きり込んで消えた。



 

「森を抜けたところで、野営の陣を張っている『捧げもの』の隊列に出くわしてな。森の中で妖獣に襲われた、仲間が取り残されている、と助けを請われた」

 奇異の眼差しを向ける傭兵達にひるむ素振りも見せずに、女戦士は口元を覆っていた布を外して涼やかな表情を浮かべたまま、大陸の共通語で話し始めた。

「『捧げもの』の子らに、大事はないか?」

 その言葉に、はっと我に返った傭兵達が、己の守るべき馬車に急いで駆け寄って行く。


 女戦士は静かに辺りを見回すと、すぐそばの荷台の上で震えている子供達にゆっくりと近付いて、ふわりと微笑んだ。

「怖かったろう? もう大丈夫だ、よく我慢したな、偉いぞ」

 静かな声で語り掛けながら、女戦士が差し出した温かな手に優しく頭を撫でられて、子供達の引きった表情が次第に和らいでいく。


『いやあ、お陰で助かった。恩に着る』

 少し間延びした男の声が背後から聞こえた。女戦士は先程までの微笑みなど嘘のように冷ややかな表情で振り返ると、のらりくらりとした口調ながらも自国の「古語」を操る壮年の傭兵に、射るような眼差しを向けた。

 そんなことなど全く意に介さぬといった風に、ギイは人懐こい笑顔を真っ直ぐ女に向ける。

『あの白い毒竜エレンスゲは、お前さんの連れの使い魔ってところか? やけに綺麗で愛嬌のある奴だったが』

 女戦士の口元がわずかにほころんだ。

『確かに、あの子の半分は毒竜だけれど、母親は水竜ウィーヴルでね。穏やかで心優しい子なんだが、あの容貌だから誤解されることも多いのさ。ところで……』

 ギイのそれとは比べ物にならぬほど、なめらかな響きと優雅な抑揚を持つ言葉で語り掛ける女の瞳が、妖しげな光を増す。

「ティシュトリアの『古語』を解する傭兵とは……お前、我らが王都軍の騎兵だな。脱走兵か?」


 大陸の言葉に切り替えた女の挑むような口調に、ギイはにやりと唇の片側を吊り上げてみせた。

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