「魔」を狩る者
『見ようとするなっ、感じ取れと言ったろうが! 何度も同じことを言わせるんじゃないっ、この馬鹿野郎!』
懐かしい声が聞こえたような気がして、レイスヴァーンは少し首を
「狭間」を自在に通り抜けて姿をくらませる化け物を相手に、目で追おうとするな、気配を探れ……そう言って、『魔の系譜』と対峙する
『「魔の系譜」とは言え、血肉を持つものなら必ず急所も持ち合わせている。妖獣の外皮は分厚く硬いってのが通説だが、奴らの
簡単に言ってくれるな、と薄笑いを浮かべて心の中で毒突くと、レイスヴァーンはゆっくりと静かな呼吸を繰り返しながら、この世界に棲まう全てのものの息遣い一つ逃すまいと、感覚を研ぎ澄ませた。
地響きと共に、地上に降り積もった雪が巻き上げられた。
「捧げもの」の隊列から取り残された五台の荷馬車の周りに、白い煙幕がもうもうと立ち込める。
はらり、はらりと頭上から舞い落ちる銀色の輝きは、砕け散った結界の
視界を奪われて身動きが取れぬまま、傭兵達は己が守るべき積荷の無事を確かめようと、馬車の荷台に向けて手を伸ばした。
荷台の上で、すっぽりと毛布で覆い隠された子供達が、恐怖で震える身体を寄せ合いながら
……守るべき命を、人の子としての尊厳を、あんな化け物に奪われてたまるものか。
「積荷を守ることが優先だ。奴が襲ってこない限り、絶対に手を出さないでくれ」
レイスヴァーンは込み上げる怒りを心の奥底に抑え込むと、感情を伴わぬ低く冷ややかな声で告げながら、雪煙の向こう側に潜む獣の気配に
「やむを得ない場合は、
尋常でないことをさらりと言ってのける赤毛の若者に、すれ違いざま、年長の傭兵が
「簡単なことさ……あの化け物に喰い殺されたくなければ、そうするしかないんだ」
白く
一瞬、目の前の煙幕がわずかに揺らいだ気がした。
刹那、白煙の中からゆらりと現れたそれは、狂気に駆られた金色の瞳でレイスヴァーンをぎょろりと見据えると、鋭い牙が覗く口元から赤黒い
「魔の系譜」は、人間の心に潜む恐怖や憎悪さえも
だが、行く手を阻むように悠然と
が、戦士の背後から漂い来る、恐れ
軍馬など簡単に踏み
その姿形からは考えられぬほどの身軽さに、レイスヴァーンは驚愕しながらも咄嗟に雪の上に身を投げ出し、妖獣の脇腹を
獣の外皮を引き裂いた刀身が、ずしり、と肉に食い込む手応えを確かに感じた。
次の瞬間、思わぬ反撃を食らった妖獣が凄まじい咆哮を上げて、ぐらりと傾いた巨体を支えきれずに雪の中に倒れ込んだ。
雪しぶきを上げて
武器を手にした人の子らが群れ寄る気配に、妖獣は苛立ちも露わな形相を浮かべながらも何とか身を起こした。が、後脚の一つが思うように動かぬことに気づいて、首をぶるりと横に振って甲高い咆哮を上げると、怒りに燃える
「
「骨節の裏側、だったな。狙えるか?」
「やるしかないだろう……脚だ! とにかく脚を狙えっ!」
互いを鼓舞するように叫び合いながら、傭兵達は妖獣の周りをぐるりと取り囲む。と、獣の正面で長槍を構えていた数名の男達が示し合わせたように躍り出て、鉤爪と鋭い牙の攻撃を際どいところで
分厚い外皮に
絶え間なく攻撃を仕掛けることで化け物をこの場に足止めすることが出来れば、先に行った者達が援軍を連れて戻るまで持ち
群がる
だが、執拗に急所を狙って繰り出される刃に少しずつ斬り裂かれる痛みに、さしもの妖獣も怒りとも苦悶ともつかぬ耳障りな唸り声を
視点の定まらぬ金色の瞳が何かの気配を探るかのように、ぎょろり、ぎょろりと
途端に、獣の瞳が不気味な輝きを増した。
傭兵らと共に、獣の背後から剣を振るっていたレイスヴァーンは、森の木々が急に騒めいたような気がして思わず
まるで身震いでもするかのように、その闇色の空間が、ぐにゃり、と大きく
傭兵達が異変に気付いたのは、険しい表情で宙を見上げたまま立ち尽くす赤毛の若者の視線の先で、漆黒の闇が虚空にぽっかりと口を開けた時だった。戦場に身を置いたことがある者ならば、「中空に突然現れる闇色の穴」が、術師の使い魔である妖獣達の通り道なのだと承知している。
「まずい……上だっ!」
「奴を跳ばせるなっ! あそこに逃げ込まれたら、厄介だぞ!」
慌てふためく男達を
何処からか再び、あの忌まわしい獣が飛び出してくるのではないか……そんな不安を
最悪の事態は免れたのだと、まだ緊張の
その傍らで、ただ一人、長身の若者が
「あいつ、まだ警戒していやがるなあ」
ギイは苦笑いを浮かべながら荷台へと視線を移した。眠り続けるシルルースにぴったりと身体を寄せたウィアが、青ざめた顔でがたがたと小刻みに震えている。
「確かに、これだけの獲物を前にしておきながら、やけに
怪訝そうな声でギイがつぶやいた、まさにその時。
地を揺るがすほどの咆哮と共に、ぐにゃりと歪んだ空間を引き裂いて、妖獣が再び姿を現した。
血走った金色の瞳が馬車の荷台で恐怖に
絶望感に襲われながらも、がむしゃらに馬車に向かって走り出した傭兵達の目の前で、泣き叫ぶ子供達の頭上に妖獣の鋭い鉤爪が降り下ろされる……
一瞬の後、音もなく斬り裂かれた獣の前脚が血
子供達が狂ったように悲鳴を上げる中、揺らいだ空間から躍り出た一人の男が、
異様なほどに長い柄に不釣り合わぬ大きな三日月の鎌の
……妖獣狩人だ。
レイスヴァーンは思わず、ごくり、と喉を鳴らした。
男の背後から、巨大な
『セサル、助けてやれそうか?』
女が紡ぐのは、大陸の共通語とは明らかに違う、流れるような美しい響きを持つ異国の言葉だ。
名を呼ばれて、セサルは首をゆっくりと横に振ると、歪んだ虚空に逃げ込もうとする獣の首を目掛けて大鎌を振り下ろした。
断末魔の叫びと共に、妖獣の首がごろりと転がり落ちる。同時に、その巨体がゆっくりと崩れ落ち、森の木々を押し倒しながら地面に倒れ込んだ。頭部を失った
毒気を含んだ白い煙が辺りに漂い始めると、毛布の隙間から恐る恐る顔を
『急げ、セサル! この瘴気だ、幼い子らは耐えられん』
女戦士は首に巻いていた布で口元を覆うと、もうもうと毒の気を放つ獣の遺骸のそばに
と、それまで傍らでむしゃむしゃと森の緑を頬張っていた毒竜が、くるると喉を鳴らして
少し首を傾げたまま主の声に耳を傾けていた毒竜が、不意に大きな翼をばさりと広げて舞い上がった。
その姿が歪んだ空間に吸い込まれて消えた途端、獣の遺骸が横たわる辺りの木々がぐにゃりと不自然に歪み始めた。やがて、木々の間にぽっかりと空いた闇色の穴から、鋭い鉤爪のついた二本の白い脚がにゅうっと現れて、瘴気を放つ妖獣の巨体をがっしりと掴み取り、暗闇の中に引き
「森を抜けたところで、野営の陣を張っている『捧げもの』の隊列に出くわしてな。森の中で妖獣に襲われた、仲間が取り残されている、と助けを請われた」
奇異の眼差しを向ける傭兵達に
「『捧げもの』の子らに、大事はないか?」
その言葉に、はっと我に返った傭兵達が、己の守るべき馬車に急いで駆け寄って行く。
女戦士は静かに辺りを見回すと、すぐそばの荷台の上で震えている子供達にゆっくりと近付いて、ふわりと微笑んだ。
「怖かったろう? もう大丈夫だ、よく我慢したな、偉いぞ」
静かな声で語り掛けながら、女戦士が差し出した温かな手に優しく頭を撫でられて、子供達の引き
『いやあ、お陰で助かった。恩に着る』
少し間延びした男の声が背後から聞こえた。女戦士は先程までの微笑みなど嘘のように冷ややかな表情で振り返ると、のらりくらりとした口調ながらも自国の「古語」を操る壮年の傭兵に、射るような眼差しを向けた。
そんなことなど全く意に介さぬといった風に、ギイは人懐こい笑顔を真っ直ぐ女に向ける。
『あの白い
女戦士の口元がわずかに
『確かに、あの子の半分は毒竜だけれど、母親は
ギイのそれとは比べ物にならぬほど、
「ティシュトリアの『古語』を解する傭兵とは……お前、我らが王都軍の騎兵だな。脱走兵か?」
大陸の言葉に切り替えた女の挑むような口調に、ギイはにやりと唇の片側を吊り上げてみせた。
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