結界と獣

 まるで街道を呑み込むかのように、つたで覆われた木々が鬱蒼うっそうと生い茂る「嘆きの森」は、もの悲しいほどの静寂に包まれていた。降り積もる雪を踏みしめるひづめと荷馬車のきしむ音だけが、緑の深淵に響いては静かに沈んでいく。


「なんだか、不気味な森よねえ……」

 森の荘厳さに圧倒されながら、ウィアはぽつりとつぶやいて、隣に横たわる少女に視線を落とした。王都軍の衛兵が「大切な『巫女見習い』を凍えさせるわけにはいかないから」と用意してくれた毛布と雨除あまよけ用の外衣のおかげで、シルルースは凍てつく外気にさらされることなく眠り続けている。

 比較的温暖な気候のアルコヴァルで生まれ育ったウィアにとって、この寒さは想像以上に厳しかった。ギイが貸してくれた毛布に頭からすっぽりくるまってはいるものの、凍えて震えが止まらない。せめて冷たい風から少しでも身を守ろうと、荷台の枠に背中を押し付けて、震える身体をぎゅっと縮こめて膝を抱えたまま、なんとか寒さに耐えていた。

 時折、すぐ隣で馬を進めるギイが手を伸ばして、頭の上に降り積もった雪を払い落してくれる。それが妙に気恥ずかしくて、ほんの少し前までは、首を思い切り横に振って「触らないでったら!」と声を張り上げていたというのに。もう、そんな気力さええてしまった。


 凍えて動けずにいる娘を見かねて、ギイは着ていた革の雨除けを脱ぐと、ぱさりとウィアの上に投げ掛けた。

「街道を守護する術師の結界も、寒さからは守っちゃくれんのだよなあ。風除けくらいにはなるだろうからかぶっておけ」

「……あんたが、凍えちゃうじゃないの」

 がくがくと震える娘の唇が弱々しく言葉を刻むのを耳にして、ギイはふんと鼻を鳴らすと、荷台の上に身を乗り出して、雪をはじく外衣をウィアの身体にしっかりと巻き付けた。

「俺はティシュトリアの生まれでな。これくらいの寒さは慣れっこなんだよ」

 護衛の男の温もりが残る革の外衣に包まれて、ウィアは凍えた身体がゆっくりと溶けていくような感覚を覚えた。

「他の子供らは身を寄せ合って暖を取っているようだが、お前さんはそういう訳にもいかんだろう? 嬢ちゃんは眠ったままだしなあ」

 やけにがらんとした荷台の上に横たわる少女に視線を投げかけて、ギイはウィアの頭をゆっくりと撫でた。



 出発前の野営地で、アルコヴァルの「東の砦」から預かった「捧げもの」の兄妹に、「お願いだから、他の荷馬車に乗せて」と泣き付かれた。ギイは彼らを別々の荷馬車に預けることで収まりを付けたものの、荷台の上から事の次第を冷ややかに見つめるウィアの視線を痛いほどに感じていた。

 昨夜の業火を不思議な力でしずめたシルルースを恐れてか、『で炎を操る盲目の「巫女見習い」は、スェヴェリスの回し者に違いない』などとあらぬ噂が早朝の野営地に広がっていた。おかげで、ウィアは目覚めてからずっと不貞腐ふてくされたままだった。

「根も葉もない噂だ。お前さんが苛立いらだったところで、どうにもならんだろうが」

 ギイがそう言った途端、ウィアは荷台の上に猛然と立ち上がると、怒り狂った表情で大声を上げた。

「大の男達が消そうとしても消せなかった炎を、この子はたった一人で抑え込んで、命懸けで私達を守ってくれたのよ! あんた達が逃げ回っている間、この子はたった一人で……そのせいで力を使い果たして、未だに目が覚めないってのに! それなのに、この子を妖術師呼ばわりするなんて……あんた達みたいな恩知らずは、『嘆きの森』で妖獣に喰われちまえっ!」



 『喰われちまえ』ってのは年頃の娘としては言葉が過ぎるが、確かに正論だな……と、あの時の娘の雄姿を思い出して、ギイは薄笑いを浮かべた。

「おい、ウィア。何なら、俺の馬に乗せてやろうか?」

「……なんでそうなるのよ。吹きっさらしの馬の上の方が寒いに決まっているじゃない」

 まだ少し不機嫌そうだが、先程よりはましになった、とギイは胸を撫で下ろした。

「そうでもないんだよなあ。落馬せんようにぴったりと身体を寄せ合う必要があるから、そうやって一人で震えているより、よっぽど温かいぞ。ああ、ただなあ……お前さんが、やれ胸を触ったの、尻を触ったのと文句を言わんと約束出来るならの話だが」

「冗談じゃないわよっ! どうして、あんたなんかに胸やお尻を触られなきゃならないのよ! これだから、傭兵の男はいやなのよ! ああ、もう! 下品な男の雨除けなんて、使いたくもないわ……って、あれ? 何よ、これ……ちょっと……ギイ! こんなにぐるぐる巻きにされたら、動けないじゃないの!」

 顔を真っ赤に染めて慌てふためくウィアをよそに、ギイは唇の端を大きく吊り上げて悪戯いたずっ子のような笑みを浮かべた。

「ちょっとは寒さを忘れられたか? 身体がこごえれば、心まで凍えちまうもんだ。らしくないお前さんなど見るに耐えんよ」

「余計なお世話よっ!」

 身体中が燃えるように熱くなるのを感じながら、ウィアは思い切り顔をしかめて舌を突き出した。



 

 時に、見下すような冷淡さで男を見据える娘が、ギイの前ではあんなにも子供らしい表情を見せる。

 レイスヴァーンは心の中で驚きながら、前方で戯れ合う二人の姿を見つめていた。元来子供好きのギイは、「捧げもの」の子らの世話も快く引き受けていたが、とりわけ、ウィアのことを気に掛けている。時間が許す限りそばに寄り添っては、あんな風に揶揄からかってばかりいるのも、少しひねくれた愛情表現に他ならない。

「女子供に甘いのは、ギイ、お前の方だよ」

 レイスヴァーンは少し呆れたように薄笑いを浮かべた。


 不意に、二人の声を耳元に運んでいた風が、動きを止めた。


 木々を通り抜ける風がんだというのに、森の騒めきが増したような気がして、レイスヴァーンは咄嗟に五感を研ぎ澄ませた。

 隊列の中に異変を感じた者はいないかと前方に視線を向けてみたものの、無駄話を交わす傭兵達の声がかすに聞こえるだけで、特に変わった様子もない。隊列の中ほどを行く『箱』の荷馬車の上では、巫女姫キシルリリの使い魔が座り込んで、ふさふさの尻尾を両手で抱え持って呑気に毛繕いをしている。

 全てが平穏に見えて、何かがおかしい……そんな思いに囚われたまま、辺りに目を凝らしていると、こちらを振り返ったギイと目が合った。近くに来い、と手で合図する男にうなずき返して、レイスヴァーンはギイのすぐ後ろに馬を並べた。


「よお、レイス。何か妙な感じがしなかったか?」

 レイスヴァーンはちらりと荷台に目をやって、静かにうなずいた。視線の端に、怪訝そうな顔でこちらを見つめるウィアが映り込む。シルルースはまだ目覚めていないようだ。

「風が変わった……動きを止めたんだ。それと、森がやけに騒がしいような気がする」 

「森が、か? 風についちゃあ、俺も気がついたんだがなあ」

 ギイは忌々しそうに舌打ちして、辺りに鋭い視線を走らせた。

「見ろ。あの辺りだけ、空気がゆがんでいる……分かるか、レイス?」

 ギイが指し示した先にあるのは、『箱』の荷馬車だ。言われてみれば、風が止んだにも関わらず、使い魔の毛がふわふわと揺れている。その姿が、時折、ぐにゃりと奇妙に歪んで見える。

 妖魔や妖獣達が「狭間はざま」を通り抜けてこの世界に入り込む際に生じる「空間の裂け目」が、周りの空気を不気味に歪めている証拠なのだと思い出して、レイスヴァーンは眉をひそめた。

「街道を守護する結界が、役目を果たしてくれると良いんだがなあ……こんな森の中でに襲われてみろ、逃げ場がない」

 面倒臭そうに告げるギイの声に、ウィアが思わず顔を引きらせた。

「ねえ、ギイ……もしも、結界が役に立たなかったら? そうしたら、私達も……あの『巫女見習い』の子みたいに……獣に殺されちゃうかもしれないってこと?」

 ぱかん、とウィアの頭をはたいたギイが、青灰色の冷ややかな瞳で娘の顔を覗き込む。

「そうならないように、俺たち護衛がいるんだろうが。まったく……少しは信用したらどうだ?」

 額にしわを寄せた傭兵の気迫に押されて、ウィアは唇を尖らせながらも無言でうつむいた。


 『箱』の上で毛繕いをしていた使い魔が、突然、全身の毛を逆立てながら、歪んだ虚空に向かって鋭い威嚇いかくの声を上げた。

 つられるように、子供達が悲鳴を上げると、彼らの不安を感じ取った馬達がいななきを始めた。戦場でも騎乗できるよう訓練を受けているはずの軍馬が落ち着きを失う姿に、傭兵達は動揺の色を隠せぬまま、手綱を握りしめる手に力を入れ、得体の知れぬものの姿を見定めようと辺りに目を凝らした。


 不意に、使い魔の頭上を覆っていた木々が、ぐにゃりと曲がり、ぽっかりと闇色の穴が口を開けた。

「来るぞ、レイス。ウィア、お前は嬢ちゃんから離れるんじゃ……」

 ギイの声が、背筋を凍らすような獣の雄叫びに掻き消された。


 次の瞬間、漆黒の穴から鋭い鉤爪かぎづめの生えた前脚が、ぬうっと現れた。

 少しずつ大きさを増す暗闇の底から、ずるりと這い出したが、いくつもの生き物を掛け合わせたような醜悪な姿をさらけ出すと、若い傭兵達は恐怖で身を強張らせ、子供達が狂ったように泣き叫び始めた。

 妖獣は眼下に群れる人の子らに血走った獣の眼を向けて、ずるりと大きく舌舐めずりすると、『獲物』目掛けて地上へと飛び降りた……


 が、大地を揺るがすほどの衝撃と共に、妖獣の巨体は見えない障壁にはじかれて、大きく宙を舞った。



 結界から無数の銀色の縄のようなものが現れて、宙に浮いた妖獣の身体を捕らえるのを、レイスヴァーンは驚愕と嫌悪の入り混じった眼差しで見つめていた。

 シルルースと出逢って以来、『この世ならざるもの』を見聞きすることが多くなったと感じてはいたが、あくまでも少女の力がそれを創り出しているのだと思い込んでいた。己が目にしているのが真実なのか幻覚なのかも分からぬまま、レイスヴァーンの前で、銀色の呪詛の縄が妖獣の身体をぎりぎりと締め上げていく。

 身体の自由を奪われて森の木々に串刺しにされる寸前、妖獣は死物狂いで銀色の縄を引き千切り、呪詛に焼かれた巨体をなんとかひるがえして、歪んだ闇の中に逃げ込んで姿を消した。


 安堵のため息と共に、隊列の其処此処そこここから聖なる天竜への感謝の祈りが漏れ始めると、すっかりおびえ切った子供達をなだめるかのように、優しげな鳥達の鳴き声が森の中に響き始めた。先ほどまでの静寂が嘘のように、ゆっくりと森が息を吹き返したようだ。

 木々の間から隊列の様子をうかがい見る「聖なる獣」の気配に気づいたのは、『箱』の上で未だ警戒心を解かずに鼻をひくつかせている使い魔だけだった。「角の王」に「心詞」で語りかけられて、きゅうっと驚きの鳴き声を上げた使い魔が、森の守護者に言われるがまま、頭上に広がる森の木々にじっと目を凝らす……


 

「今のうちに前進するぞ! 急げ!」

 突然の『魔の系譜』の襲来に騒然としながらも、王都軍の衛兵が必死に張り上げた声に応えるように、傭兵達がときの声を上げた。

 少しでも早く森を抜けて国境の砦に辿り着こうと、隊列が再び動き出した、まさにその時。


 『箱』の真上の空間がぐにゃりと歪んで、たけり狂った獣が咆哮と共に飛び出した。


 またしても見えない壁に身体を激しく打ち付けられた。が、今度は鋭い鉤爪で結界にしがみつき、そこに織り込まれている呪詛の文様を剥がし取ろうと、何度も牙を突き立てる。真っ赤な口からだらだらと垂れ落ちるよだれが、目に見えぬはずの守護の壁を浮かび上がらせ、呪詛の欠片かけらが銀色の輝きを放ちながら、はらり、はらりと地上にこぼれ落ちて来る。


ひるむなっ!  妖獣如きに、術師の結界が破れるものか!」

「聖なる天竜よ、どうか我らにご加護を……!」

 傭兵達は隊列を鼓舞する言葉を連ねながら、必死に馬を駆り続けた。

 だが、降り積もった雪に車輪を取られた一台の荷馬車が、勢い余って横転し、後に続く者達の動きをはばむように街道を塞いでしまった。

 荷台から子供達が投げ出されるのを目にした男達が、すぐさま馬から飛び降りて、小さな姿が消えた辺りへと駆けて行く。


 柔らかな新雪に守られてかすり傷一つない子供達の姿を見つけると、男達は前を行く者達に「先に行けっ!」「国境の砦に助けを求めるんだ!」と声を荒げた。



***



 横倒しになった荷台の下で、荷馬車を御していた若い傭兵が押し潰されていた。逃げようと思えば逃げられたはずなのに、最後まで荷台にいる子供達を守ろうと手綱を握り続けたのだろう。


 崩れ落ちた積荷が街道にばら撒かれ、下敷きになった側の車輪は原型をとどめていない。この状況では、しばらく身動きが取れそうもない。

 そう覚悟を決めて、傭兵達は馬から降りると、それぞれが守る荷馬車に馬の手綱をくくり付け、荷台の上で震えている子供達を毛布ですっぽりと頭から覆いかぶせて、その視界をさえぎった。幼い瞳の前に、憐れな若者の遺骸と、これから起こるであろうことをさらささぬように。

「大丈夫だ、天竜様が必ず守って下さる」

 祈るように、何度も同じ言葉を繰り返しながら。



 ぼろぼろと崩れ落ちる銀色の欠片かけらが、純白の雪の上に降り積もっていく。

 どうにかして障壁の内側に侵入しようと狂ったようにもがき続ける妖獣の牙の前に、悲鳴にも似た音を上げて結界がきしみ始めた。鼻をつく獣の体臭が辺りに満ち始めると、『魔の系譜』の分厚い外皮を斬り裂くには術師の加護を受けた武具が必要だと知りながらも、傭兵達はそれぞれの思いの丈を込めて剣を引き抜き、切っ先を頭上の獣に向けた。


「ギイ! ねえ、ギイってば……どうして逃げないのよ! 森の中に逃げ込めば……」 

 馬から滑り降りて、ひらりと荷台の上に飛び乗るや否や、ギイは叫び声を上げるウィアの口元を大きな手で覆い、耳元で「静かにしろ」とささやいた。

「街道を離れた途端に、あの化け物に喰われちまうさ。先に行った奴らがティシュトリアの援軍を連れて戻るはずだ。それまで結界が持つよう、天竜にでも祈ってな」

 妙に落ち着いた声に心を揺さぶられて、ウィアは思わずギイにしがみついた。

「でも、あいつが結界を破ったら? ギイ、私、いやよ……あんな奴に喰い殺されるなんて! まだ、死にたくない……ギイ、助けてよ……お願い!」

 ぽかり、と頭を優しく叩かれて、ウィアがひゅうっと息を呑んだ。

 琥珀色の瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちるのを目にして、ギイは少し困ったように両の眉尻を下げると、毛布越しに娘の身体をぎゅうっと抱きしめて、いつものようにのんびりと穏やかな口調で告げた。

「言ったろう? そのために俺達がいるんだってな……安心しな。守ってやるよ」



 しばらくの間、なだめるように娘を抱きしめていたギイが、ようやく荷台から降りて、レイスヴァーンの隣に静かに並んだ。若者は剣の柄に手を掛けたまま、身動き一つせずに頭上を睨みつけている。

「よお、レイス、ティシャに仕込まれた腕の見せ所だなあ」

 かつて共に旅した妖獣狩人の名を出されて、若者が少し困ったように苦笑いを浮かべた。

「悪いが、あの人ほどの腕を期待されても困る。妖獣相手に、人を斬るための剣を振り回したところで……」

「助けが来るまで、奴の動きを止めるだけでいんだよ。しかし……妙だよなあ。あれだけ激しく結界に身体をぶつければ、普通なら呪詛に縛られるのを恐れて、とっとと逃げ出すってのに」

「……普通の状態じゃないんだ。戦場で、術師の呪詛に囚われた妖獣を見ただろう? 多分、あれと同じで……自我を失い、どれだけ傷ついても、首を落されるまで動き続ける」

 嫌悪感も露わに言葉を絞り出した若者の肩にそっと触れて、ギイが歪んだ笑みを浮かべる。

「なら、遠慮はいらんさ。レイス、存分に甚振いたぶってやれ」

「『この馬鹿野郎』とは言わないんだな」

 獣に視線をむけたまま、拍子抜けしたようにレイスヴァーンがつぶやくと、ギイは少しだけ肩をすくめた。

「そりゃあ、ティシャの常套句じょうとうくだからなあ。あいつの一番弟子だったお前に、俺が言うことじゃあ……」


 刹那、耳をつんざくほどの轟音と共に結界が砕け散った。


「くそっ……本当に結界を喰い破りやがった……おい、待てっ! レイス!」

 ギイが止めるよりも早く、レイスヴァーンは地上に降り立った獣目掛けて走り出した。

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