天幕の祈り

 騒ぎを聞いて駆け付けた王都軍の衛兵達は、未だ血の匂いが色濃く残る天幕に足を踏み入れた途端、言葉もなく立ち尽くした。

 何とか冷静さを取り戻し、憐れな『巫女見習い』の娘のために祭壇を用意するよう傭兵達に指示を与えると、野営地で葬儀を執り行うための助けを乞おうと領主の館へ急ぎ伝令を走らせた。

 その間、巫女姫からたまわった使い魔の妖獣は、金色の瞳を興味深げにくるくると動かしながら、きゅるきゅると鳴き声を上げて二人の周りを飛び回っていた。

 泉の水を入れた桶と古布が天幕の中に次々と運び込まれ、治癒師と治癒師見習いの「捧げもの」の子供が娘の亡骸にこびりついた血を洗い流しながら、魂の安息を願う祈りの言葉を優しく紡ぎ始めた。




 レイスヴァーンとアシャムを連れて天幕の中に戻ったギイが、小さな翼を持つシロアナグマのような使い魔に目をやって、嫌なものを見たとばかりに鼻の頭にしわを寄せた。が、すぐに気を取り直して、地面に残されている黒々とした染みを指差した。

「あそこで、娘が息絶えていた」

 治癒師達の祈りの声にしばし耳を傾けると、あごをしゃくるようにして、先程まで三人が立っていた辺りを指し示す。

「……で、ちょうどあの辺りで、彼女のものらしい血痕が途切れている。まるで、突然消えちまったみたいに、ぷっつりとな」


 気乗りのしない様子でたたずむ赤い髪の若者と、その隣で苦虫を潰したような顔で腕組みをする巨漢の傭兵を見比べるように視線を動かしながら、ギイはあごに手を置いて、大袈裟に思い悩むような素振りをしてみせた。

「これと似たような状況を、以前にも見たことがあるんだよなあ……さて、何処でだったかなあ……アシャム、お前さんはどう思う?」

 突然話を振られて、アシャムは歯切れの悪い口調でつぶやいた。

「どうもこうも……野の獣に噛み殺されて、身体を持っていかれちまった。それしか考えられんだろう」

「まあ、そう考えるのが妥当だよなあ。血痕と一緒に、『獲物』を引きったような跡が地面に残っているのを見りゃ、子供でも思いつきそうなもんだ」

 のらりくらりとした口調に神経を逆撫でされて、アシャムは眉間の皺を一層深くしてギイを睨みつけた。


「だがなあ、肝心の獣が天幕に入り込んだ形跡がさっぱり見当たらんのは、どういう訳だ?」

「それが分からんから、困っているんじゃないか。ギイ、からかい半分で絡むのはやめてくれ。大神殿への言い訳を考えんなきゃならんってのに……」

 忌々しそうに舌打ちするアシャムに、ギイは唇の端を吊り上げて不快感も露わな表情を浮かべると、低くうなるような声で言葉を続けた。

「言い訳、か。なるほど、そうだなあ……こんなのはどうだ? 『護衛の目を盗んで天幕の中に忍び込んだ野の獣が、護衛の一人も付けずに眠っていた娘を噛み殺し、誰にも気付かれぬように娘の身体の下半分を天幕の外に引きり出すと、煙のように消えちまいました』とさ」

 ギイの痛烈な皮肉に、アシャムは怒りに震えながらも返答に窮して口をつぐんだ。

「傭兵の名折れだが、仕方ないよなあ。たった一人の子供も守り切れず、あんな恐ろしい目に合わせて命を奪われちまったんだからなあ……アシャムよ、昼間っから酒の匂いをぷんぷん漂わせているお前に丁度良い言い訳だとは思わんか?」

 痛いところを突かれて、ぐうの音も出ず、腹立たしさにわなわなと震えながら歯軋はぎしりする男を横目に、ギイは赤毛の若者に視線を向けた。


 地面に残された血痕に視線を落したまま、何事か考え込んでいたレイスヴァーンが、突然、はあっと息を呑んで顔を上げた。

「何か思いついたようだなあ、レイス」

「……戦場だ」

 その言葉に、古参の傭兵は目を細めると、にやりと凄みのある笑みを浮かべてうなずいた。

「正解だ」


  

 大量の血が流される場所は、しかばねと血肉の匂いに誘われた獣が獲物を求めて徘徊する「狩り場」でもある。特に畏怖されるのは、「魔の系譜」たる妖獣達だ。

 いくさ最中さなかにあって、何処からともなく飛び出した妖獣が、地面に転がるむくろのみならず、まだ息のある戦士の血にまみれた身体に喰らい付き、虚空にぽっかりと口を開けた空間に引き摺り込んで姿を消すのを、レイスヴァーンも幾度となく目にしていた。

 術師達が「狭間はざま」と呼ぶその奇妙な空間が、『妖魔や妖獣がこの世界に降り立つための扉のようなものだ』と教えてくれたのは、出会った頃のギイが行動を共にしていた妖獣狩人だった。



「『狭間』を自由に行き来するあの化け物どもなら、痕跡など残さずに獲物を連れ去るくらい訳ないだろう。戦士と術師、妖獣狩人が入り乱れる戦場で『狩り』をする奴らにとって、抵抗するすべを持たない子供は格好の餌食だ……可哀想に」

 憐れむような表情を浮かべながらも淡々とした口調で告げる若者に、半ば驚愕し半ば呆れたような眼差しを向けるアシャムを目にして、ギイが面白そうに薄笑いを浮かべた。

「言ったろう? こいつは驚くほど勘がいってな」


 明らかに戦場での経験が乏しいはずの年若い傭兵に肩入れするような旧友の言葉に、アシャムは怒りと悔しさを感じずにはいられなかった。

「おい、ギイ……まさか、こんな若造の言うことを鵜呑みにするってのか? 『箱』の馬車同様、この天幕にもキシルリリ様の結界が施されているんだぞ? あの御方が祈りを込めて下さった結界に、妖獣が入り込む隙なんぞあるものか!」

「アシャムよ、『大神殿の巫女姫』に心酔するのはお前の勝手だが……その巫女姫が編み上げた『ありがたい結界』にかこつけて、『箱』の子供の護りに手抜きがあったとなりゃ、洒落にならんぞ。『巫女見習い』に万が一のことがあれば、お前達『箱』の護衛だけでなく、この契約に関わった全ての傭兵が責任を追及される……シルルースの件で、そう言い放ったのは、他でもない、お前だろうが」

 ギイの顔から薄笑いが消え、青灰色の瞳が冷たさを増した。

「所詮、人の子が作り上げたものには限界があるんだよ。それをはなから疑おうともせず浮かれやがって……アシャムよ、戦場で術師が編み上げた結界を化け物どもが喰い破るのを……仲間の傭兵達が奴らの餌食にされるのを、お前だって嫌というほど目にしたはずだろうが」


 

 凶暴な妖獣を使い魔として従えるだけの力を持つ術師が、自ら戦場に立って自軍の兵士の士気を鼓舞し、敵の陣地に向けて使い魔を放つ。

 首を切り落とされぬ限り動き続ける妖獣達は、その分厚く硬い外皮に包まれた身体を何度も結界に打ち付け、鋭い牙で呪詛の壁に編み込まれた祈りの言葉を引き剥がしながら、わずかに走った亀裂に群がると、やがて全てを喰い破って敵陣に侵入を果たし、目の前の「獲物」に襲い掛かる……


 その恐怖を思い出して、アシャムの背筋に冷たいものが走った。



***



 天幕をぐるりと囲む護衛の傭兵達のおかげで、そばに近づくこともままならない。

 伝令らしき男が慌ただしく馬から飛び降りて天幕の中に駆け込んで行くのを、シルルースの手をしっかりと握りしめたまま、ウィアは苛立ちも露わに見つめるしかなかった。


「ウィア、手……痛い」

 今にも泣き出しそうな少女の声に、小さな手を握り潰さんばかりに掴んでいたことに気付いて、ウィアは慌てて手を離した。

「うわっ、真っ赤じゃない! どうしてもっと早く言わないのよ!」

 痛む手を、もう片方の手でさすりながら、シルルースは途方に暮れたように、ふるふると首を横に振った。ウィアは両手で頭を抱え込んで大きなため息を吐くと、申し訳なさそうに黒髪の少女に視線を戻した。

「ごめんね……痛かったわよね」

「大丈夫。ウィア……心配?」

 一瞬、心の中を覗かれたような気がして、ウィアは大きく顔をしかめた。

「……何のことよ?」

「ギイのこと。ずっと天幕の方を気にしてるから」


 途端に、娘の顔が真っ赤に染まった。大きく見開かれた空色の瞳が、きょろきょろと逃げ道を探すようにいそがしく動き回る。

「なっ……何言ってるのよっ! 冗談じゃないわよ、どうして私があんな奴のこと、心配しなきゃならないのよ! 護衛のくせに、『巫女見習い』のあんたまで放ったらかしにして、無責任過ぎるじゃないの! それに……そばを離れるんじゃない、って言ったくせに……あんたが私のそばを離れてどうするのよ……ああ、もう! これだから、傭兵の男なんて信用できないのよお!」


 興奮して早口にまくし立てる娘の口元を、シルルースが慌てて両手でふさいだ。それでもまだ言い足りないとでも言うように、ウィアはもごもごと口を動かし続けている。

「ウィア、声……大きすぎる」

 ようやく、苦笑いを浮かべる傭兵達と子供達の視線が自分に注がれているのに気付いて、ウィアは大きく息を呑み込むと、気まずそうにうつむいて、助けを求めるかのように黒髪の少女に肩を寄せた。

 いつもウィアがしてくれるように、私にも出来るかしら……そんな心の迷いを懸命に振り払って、シルルースは年上の娘の柔らかな身体を力いっぱい、ぎゅうっと抱きしめた。

「ギイなら大丈夫。あの天幕にはもう、『邪悪なもの』は居ないから」


 

 ウィアの呼吸が落ち着きを取り戻すのを感じながら、心を込めて祈りの言葉を紡ぎ上げ、吐息と共に静かに吐き出して、頭上を行く風にささやき掛ける。

「お願い、あの子に届けて」


『……大丈夫よ。あなたの魂も、、すぐに解き放って上げるから』


 

 シルルースの願いをすくい上げた風の精霊達が、しなやかに、宙を泳ぐように、ゆったりと天幕の上を漂い始めた。銀色のはねを優しく羽ばたかせる度に、少女が編んだ祈りの言葉は星屑ほしくずのようにきらめきながら、ゆっくりと舞い降りて、天幕の中に吸い込まれるようにして消えた。



***



 伝令が持ち帰った砦の領主からの勅書は『野営地の中で全てを浄化するように。街中に「けがれ」が放たれることがないよう、心せよ』との短いものだった。

 憐みの言葉もなく、浄化の炎を編むべき術師については触れることさえせず。

 その無慈悲さと、葬儀の手筈を整えるすべを失ってしまったことに途方に暮れた大神殿の衛兵達は、わらにもすがる思いで、巫女姫への言伝ことづてを使い魔に託すことにした。


「とは言え、使い魔などに頼るのは、初めてなもので……」

 不安を隠せぬ二人に立ち会いを頼まれて、断り切れずに引き受けてしまったギイが、シルルース達の元に戻ろうとしていたレイスヴァーンを大声で呼び止めた。

「おい、待て、レイス! お前、俺が妖獣が苦手だってことは知っているようなあ? それとも、何か……置いていかないでくれと涙ながらにしがみついて欲しいのか?」

 魔の眷属に特有の、縦長の瞳孔が浮かぶ瞳を持つ妖獣に射るような視線を向けたまま、レイスヴァーンは出来るだけ不機嫌そうな声を出した。

「笑えない冗談だな……シルルースを一人にしておくわけにはいかないだろう? 『巫女見習い』に万が一のことがあればまずいんじゃなかったのか?」 

「嬢ちゃんなら心配いらんさ、ウィアと一緒なんだろう? 何かありゃあ、大袈裟に騒いで傭兵達の気を引くことくらい、あの娘なら簡単にやってのけるさ」

 さも愉快そうな笑みを浮かべるギイをよそに、レイスヴァーンは天幕の入り口から外を覗き見た。


 天幕から少し離れた場所で、ひときわ小柄な黒髪の少女が、心細そうに唇をきつく結んで佇んでいた。その隣で、飛び抜けて美しい娘が、不貞腐れたような表情を浮かべている。


 何もかも正反対の二人が、まるでお互いの心を支え合うように、ぴったりと寄り添っている。その姿に、レイスヴァーンはほんの少しだけ口元を緩めると、ほおっと安堵の吐息をついた。

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