願い

 レイスヴァーンは少し身をかがめてゆっくりとシルルースを抱き下ろすと、小さな両足が地面をしっかりとらえたのを確かめて、手を離そうとした。が、なぜだか腕にしがみついたまま、少女は一向に離れようとしない。

「……シルルース? おい、どうしたんだ?」

 また何かに怯えているのだろうかと不安が過ぎり、少女の顔を覗き込んだ。


 驚くほど静かに、少し憂いを帯びた表情で、シルルースは『箱』の天幕を真っ直ぐに。夕暮れの薄明かりを映し込んだような色彩を持つ瞳に、ゆらゆらと揺らめく陽炎を思わせるきらめきが浮かんでは消える。

 その瞳の美しさに、一瞬でも心を奪われたことにやましさを感じて、レイスヴァーンは思わず視線を逸らした。



 

 誰かに呼ばれたような気がして、シルルースは天幕の方へと意識を向けた。

 ウィアと同じ年頃の美しい娘が、黄金色の髪を風になびかせ、生気のない空色の瞳でじっとりとこちらを見つめていた。何かを告げようと赤い唇が動くたび、底知れぬ乾きに飢えた「獣」の気配がどくどくと流れ出し、娘の白い胸元を深紅に染める。足元からねっとりと立ち昇る「瘴気」の毒にむしばまれて、しなやかだった娘の四肢がちた老木のようにぼろぼろと崩れていく。

 娘の周りを気遣わしげに漂っていた精霊達が、毒気にからめ捕られ、銀色のはねを焼かれて地面に転げ落ち、もがき苦しみながら息絶えた。それを目の当たりにして、空色の瞳から涙がつうっとこぼれ落ちた。

 やがて、娘は全てをあきらめたかのような吐息と共に、ちりとなって消えていった。




「……おい、どうしたんだ?」

 心地良い響きを持つ声に心を引き戻されて、シルルースはぶるりと大きく身体を震わせた。同時に、男の逞しい腕にしがみついているのだと気付いて、ひいっと小さな悲鳴を上げて飛び退くように後退あとずさりした。

 勢い余って倒れそうになった小さな身体を、レイスヴァーンが咄嗟に掬い上げて横抱きにすると、そのままきびすを返して『箱』の天幕とは反対の方向へと歩き始めた。


「気分が悪いのなら我慢するなと言ったろう? 元の天幕に戻るぞ」

 有無を言わさぬ男の声に、シルルースはふるふると首を横に振ると、消え入りそうな声を絞り出した。

「待って、ヴァンレイ……お願い……あそこに……お願いだから、あの天幕のそばに戻って」

 あそこに居る、あの子を助けなきゃ……そう言い掛けて、シルルースは言葉を呑み込んだ。精霊達の目を通して見聞きしたことを、この頑固な年上の傭兵が何処まで信じてくれるのだろうと不安が過ぎった。

「騒ぎの中心があの天幕なら、お前は近付かない方がいい。お前をここまで連れて来たこと自体、間違いだったんだ」

 腹立たし気に告げる男の声に、足を止める気配など全く感じられない。


 シルルースは唇をきつく噛んで眉をひそめると、深く息を吸い込んだ。

 地を這うようように、低く冷ややかに暗闇を漂う夜風の精霊達の姿を心に思い浮かべながら、氷のようなひそやかさで、懸命に言葉を紡ぎ出す。

「駄目よ、止まって……止まりなさい、ヴァンレイ……今すぐに!」

 不意に放たれた『巫女の声』に、レイスヴァーンは耐え切れずにぎりぎりと歯を食いしばると、その場に凍りついたように立ち止まった。


「ああ、くそっ……シルルース! 頼むから、その『声』とやらを使うのはめてくれ!」

 自分でも驚くほど苛立ちも露わな声に、レイスヴァーンは心の中で思い切り毒づくと、腕の中の少女に視線を落した。小さな身体をこれでもかと縮こまらせ、声にならない声で震える唇が「ごめんなさい」とささやくのを目にして、やりきれない思いが込み上げてくる。


 得体の知れないものに魂をぎりりと締め上げられるような感覚は、不気味で不愉快極まりないのだと、シルルースも骨身に染みて分かっている。『巫女見習い』として最初に与えられた試練が、師匠である巫女姫の『声』だったからだ。

「でも……お願いしたのに。あなたが私の話を……聞いてくれないから」

 あなたには、私の全てを分かって欲しいと願っているのに、やっぱり、分かってもらえない……そう思った途端に、涙がぽろぽろとあふれ出て止まらなくなった。

 泣き顔を覗き込まれたくなくて、シルルースはレイスヴァーンの首におずおずと両腕を回すと、涙でぐしゃぐしゃになった顔を首筋に押し付けた。

 ごくり、と喉を鳴らした男の大きな手が、ぎこちなく、ゆっくりと背中をさするのを感じた。

 

 子守歌のような優しさで、とくん、とくん、と脈打つ音に耳を傾けているうちに、心の中のしこりがゆっくりと溶け出していく。

 この心地良い温もりがずっと続いてくれれば良いのに……そう願う己の浅ましさに驚き呆れながら、シルルースはレイスヴァーンの首筋に顔をうずめたまま、そっとささやいた。

「お願い、ヴァンレイ。もう一度、『箱』の天幕のところへ連れて行って」

 

 

***



「シルルース!」

 金切り声と共に、天幕を遠巻きに見ていた人だかりの中から飛び出した人影が、金色の髪を揺らしながら猛然とこちらに駆け寄って来る。


 レイスヴァーンがシルルースを地面に降ろした途端、ウィアは少女に飛びつくと、ぎゅうっと思い切り抱きしめた。

「……ウィア、苦しい」

「ああ、もう、やっと見つけた! 探したんだからね、シルルース! あんた、今まで何処で何して……」

 輝くような笑顔が、少女のかたわらで顔をしかめてたたずむ長身の傭兵に向けられた途端、見る間に強張こわばっていく。

「ちょっと、レイス……あんた、また性懲りもなくシルルースを連れ回して!」

「ウィア、違うの」

 射るような視線を傭兵に向けた娘の気配に押されながらも、シルルースは必死に言葉を探した。

「野営地の外れに森があって……そこに迷い込んだら、この人が眠っていて」

「森って……? ギイと一緒にあんたを探して野営地の中を歩きまわったけど、森なんて知らないわよ」

 疑わし気な声の矛先が自分に向けられたと気付いて、レイスヴァーンが面倒臭そうに口を開いた。

「馬車を停めた辺りに、外壁が崩れ落ちて緑に覆われた場所があったろう? そこから少し奥に入ると、外壁沿いに木が生い茂っていて、ちょっとした森のようになっているんだ。領主の館から戻って、そこでしばらく仮眠をとっていたんだが……」

「私が起こしてしまったの。ヴァンレイは悪くないの」

「ヴァン……何?」

 聴き慣れない名前に、ウィアが首を傾げた。はっ、と息を呑んで両手で口元を覆ったシルルースを前に、ウィアがいぶかしむような顔でレイスヴァーンを睨みつけた。

「ちょっと、あんた達……何か隠し事でもあるんじゃないの?」


 うんざりとした顔で無言のまま睨み返す傭兵と、今にも噛み付きそうな勢いの娘の間に流れる不穏な空気を振り払いたくて、シルルースはふるふると首を横に振って両のこぶしを握りしめると、大きく息を吸い込んで一気に言葉を吐き出した。

「ち……違うのっ! 焼き菓子をもらったの」

 ウィアがきょとんとした顔をシルルースに向けた。

「すごく美味しくて……アルコヴァルの焼き菓子は大陸一美味しいんだって、教えてくれて……だから、私、つい食べ過ぎてしまって……」

 何を言ってるのか自分でも訳が分からなくなって、シルルースは何度も口をぱくぱくとさせながら、何とか言葉をつないだ。

「お腹一杯になったら、眠たくなって……陽も暖かかったし……気がついたら、一緒に寝てしまったみたいなの。だから、隠し事なんて……何も……」


 しどろもどろになりながらも、必死にレイスヴァーンを庇おうとする少女の姿があまりにもいじらしくて、ぽかんと口を開けたままシルルースを見つめていたウィアが、とうとう堪えきれず、くはっと笑い出した。

「嫌だ、あんたってば……『一緒に寝た』だなんて……誤解を招くような言い方、止めてよね……ああ、まったく、もう! 何にせよ、あんたが無事で良かったわ」

 くっくっと笑い声を上げながら、唖然とするシルルースを優しく抱きしめた。


「で、ギイは何処だ?」

 シルルースを離そうとしないウィアを横目に、レイスヴァーンは友の姿を探して人混みに視線を向けた。

「ああ、そうだ……ギイ! あの人ったら、『ここを動くなよ』なんて偉そうに言って、私を置いてきぼりにしたまま、天幕の中に入ったきり出てこないのよ!」

 少しねたような声を出しながら、唇の端を吊り上げて、不敵な微笑みを浮かべる。

しゃくにさわったから、近くに居た若い傭兵に話し掛けてみたの。そしたらね……彼、色々と教えてくれたのよ」

 意味ありげに、ふんっと鼻を鳴らしたウィアが、おもむろにレイスヴァーンの腕を引っぱって「もう少し、近づきなさいよ」と苛立たしげに言うと、ぐるりと視線を巡らして声をひそめた。

「天幕の中で休んでいた『巫女見習い』の子が、殺されたんですって。野の獣に襲われたらしくて、酷い有り様だって……」


 ひゅうっと息を呑んで、シルルースが身体を強張らせた。

「嫌だ、ちょっと……あんた、大丈夫?」

 心配そうに顔を寄せるウィアに小さくうなずいて、シルルースは身体に回されていた腕を優しく押し退けると、傍らに居るはずの気配を求めて必死に両手を伸ばした。

 戸惑いがちに差し出された大きな手が、そっと少女の腕を掴む。そのまま、温かな腕の中に引き寄せられて、シルルースはレイスヴァーンの胸にしがみついた。


 いつのまにか二人の間に芽生え始めた「何か」に心を逆撫でされるような気まずさを覚えて、ウィアは唇を少し尖らせたまま視線を宙に泳がせた。と、不意に天幕の中から現れた人影に気づいて、思わず大声を上げた。

「ギイ! ねえ、ちょっと、ギイったら! あんた、いつまで私を放ったらかしにしておくつもりなのよっ!」

 親子ほど年の離れた「捧げもの」の娘の黄色い声に、周りの男達の好奇の視線を浴びた傭兵が、左頬の傷跡をぽりぽりと掻きながら、迷惑極まりないと言いたげにウィアを見つめ返した。が、娘のそばに佇む長身の若者と、若者にしがみついている黒髪の少女に気づいて、にやりと薄笑いを浮かべると、大きく手を振った。

「よお、レイス! 嬢ちゃん達はそこに置いて、こっちに来てくれ!」


 レイスヴァーンは不安げにこちらを見上げる少女の黒髪をくしゃりと撫でて、小さな両肩を優しく抱きしめた。胸元に置かれていた小さな手が、ぎゅうっと握りしめられる。

「シルルース、しばらくの間、 ウィアと一緒に待っていてくれ」

 少女は唇を噛み締めて、こくりと頷くと、握りしめていた手をゆっくりとほどいて、レイスヴァーンの胸元に頰を寄せた。

「気をつけて、ヴァンレイ。ほんの少しだけれど、あの天幕から『瘴気』の匂いがするの。それに……」


 薄紫色の瞳に、銀色の揺らめく煌めきが浮かび上がる。

「あれは……野の獣なんかじゃない」

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