青い炎

 天幕の中の空気が、ぐにゃりと揺れた気がした。

 次の瞬間、歪んだ空間から溶け出すように現れた使い魔が、ぱたぱたと小さな翼を羽ばたかせながら身を屈め、急ごしらえの粗末な祭壇に横たえられている「巫女見習い」の娘の顔をのぞき込んだ。

 

『悲しげな顔をしておるな……苦しんだのであろう』

 

 小さな翼をせわしなく動かし、金色の眼できょろきょろと落ち着きなく辺りを見回していた使い魔の口元から、突如として、深い響きを持つ女の声で言葉が紡がれ始めると、天幕の中は水を打ったような静寂に包まれた。

 女の声が巫女姫キシルリリの名代であると告げるのを聞くや否や、王都軍の衛兵達がはじかれたように神妙な面持ちで胸に手を当て、片膝をついてこうべを垂れた。何が起こっているのか分からず、唖然と立ち尽くす傭兵達に、ギイが苦笑しつつ膝をついて「とにかく、真似しろ」と目配せした。


『「箱」の天幕と共に、娘をしてやるが良い。砦の術師如きの手を借りずとも、天幕に織り込まれた巫女姫の祈りのお言葉が、この娘の魂を「安息の地」へとお導き下さるだろう』


 その言葉に、アシャムを筆頭に、天竜を神と崇める者達が次々と感嘆の息をらした。


『憐れな娘が天幕の中で命を落したことに、巫女姫は大そうお心を痛めていらっしゃる。結界にほころびがあったのでは、とご自身を責めておいでなのだ……』


 シロアナグマによく似た使い魔が、居たたまれないと言いたげに、ほおっと吐息をついた。余りにも人間臭いその仕草にそぐわぬ金色の獣の眼が、縦長の瞳孔を針のように細めて不気味に輝いている。きゅるきゅると短く喉を鳴らすと、口元から鋭い牙を覗かせながら、使い魔は再び女の声で語り始めた。


『娘の不幸な死は、世界のことわりであり、聖竜のおぼし召しであった、と大神官ハルティエン様はおおせになった。ゆえに、大神殿がお前達王都軍はもとより、護衛の傭兵達をとがめることはない。引き続き務めに励み、必ずやラスエルクラティアまでの旅を遂行せよ。聖なる天竜ラスエルの加護がお前達と共にあらんことを』


 

 聖竜への祈りの言葉を最後に、女の気配がふっつりと消え去った。

 と、きゅるきゅると大きな鳴き声を上げた使い魔が、ぱたぱたと天幕の中を飛び回り始めた。呪縛から解き放たれて喜びを隠せぬような妖獣の姿に、片膝をついてかしこまっていた傭兵達も、ようやく緊張の糸を解いた。


「いやあ、驚きました! 領主の館の術師から『キシルリリ様の使い魔には、ふみではなく、言葉を託すだけで良い』と言われた時には、半信半疑でしたが……やはり、スェヴェリス王家の血を引く姫君だけあって、巫女姫様は術の力にも長けていらっしゃるようですね。人の言葉を操る妖獣とは、何とも素晴らしい」

 興奮冷めやらぬ様子でまくし立てる王都軍の衛兵に、上空を飛び回る使い魔を冷めた眼差しで見つめていたギイが、忌々しそうにつぶやいた。

「不気味なだけだろうが……戦場で術師が連れていた使い魔を散々目にしたが、あんな芸当をやってのける妖獣なんぞ、見たことも聞いたこともないぞ。なあ、レイス」


 俺に聞くな、とでも言いたげに、レイスヴァーンは顔を背けると、祭壇の方に視線を向けた。端正な顔がわずかにゆがむ。

「明日にはこの野営地を発つんだろう? 日が暮れる前に、あの娘を送り出す準備を始めた方が良くはないか? 人ひとりを灰にするには、それ相当の労力と時間が掛かるんだ。巫女姫の術がどれ程のものかは知らないが、どうせなら、『浄化の炎』でひと思いに燃してやればよいものを……」

  言葉のはしに現れた、娘の死の真相をうやむやにされていきどおる若者の胸の内を感じ取って、ギイは少し呆れたように薄笑いを浮かべると、レイスヴァーンの肩にぽんと手を置いた。

「まったく……レイスよ、何度も言ったはずだが、お前は女と子供に優し過ぎるんだよ。その優しさが、いつかお前の首を締めることにならなきゃいんだがなあ」

「……余計なお世話さ」


 年上の男の気遣いが妙にくすぐったくて、レイスヴァーンは不機嫌な子供のように唇を噛んだ。

 


***



 傭兵達の手で『箱』の天幕が跡形もなく取り壊されるのに、さほど時間は掛からなかった。

 天幕を支えていた木枠を薪代わりにうずたかく積み上げ、その上に布を重ねて祭壇代わりにすると、その周りを取り囲むように篝火かがりびが灯された。

 夜の闇の中に、祭壇の上に横たわる娘の姿がぼんやりと浮び上る。巫女の正装である白の長衣ローブで包まれた娘の亡骸の胸元には、「捧げもの」の子らが集めた野の花々で作られた小さな花束が添えられていた。

 天幕の布に施されていた『天翔あまかける青竜』の意匠がきれいに切り取られ、娘を覆い隠すようにふわりと掛けられると、その様子を眺めていた者達の間から、すすり泣きがれ聞こえた。

 

 『箱』の子供の一人である「神官見習い」の男の子が、王都軍の衛兵に促されるまま祭壇の前に進み出て、何度も声を詰まらせながら「魂の最後の祈り」を捧げ終えると、傭兵達が篝火から引き抜いた松明たいまつを祭壇の上に重ねていく。

 刹那、天竜の意匠が青白く浮かび上がったかと思うと、轟々ごうごうと荒々しい音を立てて炎が一気に燃え広がり、天にも届くほどに激しく燃え立つ火柱となって祭壇を呑み込んだ。



 夜闇を照らし出す炎の輝きに魅入られている「捧げもの」の子供らをよそに、明るい朱色の炎が一向に衰えを見せないことに気づいて、傭兵達がざわめき始めた。

「なあ、術師が灯す『浄化の炎』ってのは、もっとこう……静かに燃え上がるものじゃなかったか?」

「そうだよなあ、もっと青白くて、妙に悲しい気持ちにさせるような……そんな感じだったと思うんだが」

「この炎は、何というか、その……いくさで焼かれた街を思い出しちまう」

 命を落した娘の魂を「安息の地」へといざなうはずの炎の異様さに、風の精霊達までもがざわざわと騒ぎだし、大きく揺れた火柱から火の粉が雨のように降り注ぎ始めると、逃げ惑う子供達の声が夜の静寂を掻き乱した。




 ウィアの刺すような視線を嫌と言うほど感じながら、レイスヴァーンはしがみついて離れない少女の肩に手を置いたまま、燃え盛る葬儀の炎を遠巻きに眺めていた。

 先程まで小刻みに震えていた小さな身体が、一瞬、動きを止めた。不思議に思ってシルルースの顔を覗き込むと、少女は神妙な面持ちで炎の熱を感じる方を見つめていた。

 薄紫色の瞳の中で不思議な銀色の光が揺れている……こういった時のシルルースが尋常な状態ではないのだと、レイスヴァーンは身を以って知っていた。

「シルルース、どうした?」

「あの『天竜の意匠』……あそこに織り込まれた祈りの言葉から、嫌な匂いがするの」

 

 赤毛の傭兵の腕の中から抜け出して、業火に焼かれる祭壇に向かってゆっくりと歩みを進めるシルルースを目にして、ウィアが悲鳴を上げた。

「駄目よ、シルルース! そっちは危ないから……ちょっと、レイス! あんた、何してるのよ! 早くあの子を引き留めなさいよっ!」

 ちらりと視線を向けた傭兵の、凍えるような緑色の瞳に圧倒されて、ウィアは慌てて口をつぐんだ。

「何か思うところがあるらしい。ああいう状態のシルルースを止めることは、俺には出来ないんだよ」


 そうだ、きっと、あの『声』に、俺の魂は今でも縛り付けられたままなんだ……そんなことを思う自分に呆れ果てながらも、レイスヴァーンはシルルースの後を追ってゆっくりと歩き始めた。



***



 祭壇の周りでは、子供達を炎から遠ざけようと、傭兵達が大声を張り上げながら走り回っていた。

 炎に近づこうとする少女の姿に気付いた若い傭兵が、咄嗟に細い腕を掴むと「何やってるんだ! これ以上、近づくと危ないぞ!」と叫んだ。が、少女の唇から放たれた『声』に魂を締め上げられて、全身から力が抜けたように、へなへなと地面にしゃがみ込んでしまった。

 何が起きたのか分からず目を白黒させている傭兵に、レイスヴァーンが憐みの眼差しをちらりと向ける。が、シルルースの姿を見失うわけにはいかないと、そのまま歩き続けた。


 

 祭壇を呑み込んだ炎の柱は、天空を焦がすほどの勢いで燃え続けていた。

 その前で立ち止まり、火柱を見上げるようにしてあごを上げたまま、シルルースはゆっくりと両のてのひらを揃えて顔の高さまで持ち上げた。薄紫色の瞳が、恐ろしい叫び声を上げて燃え続ける炎の精霊達の姿を捉えると、広げた掌に唇を近づけて、何事かをそっとささやき掛ける。

 次の瞬間、何処からともなく青白い炎がぽおっと燃え上がり、少女の掌の上でゆらゆらと揺れ動き始めた。


『ねえ、「浄化の炎」が青いのはどうしてなのか、分かる?』


 昨夜、焚き火の炎に手をかざして、静かに、歌うように紡ぎ出された声が、レイスヴァーンの脳裏に蘇える。


『術師の呪詛にからめ捕られて自由を奪われた精霊は、炎に投げ込まれて、その身を燃やすの……苦しみに耐え切れず、悲鳴を上げながら……精霊達の悲しみの声が、炎を悲しい色に染めていく。それはやがて、魂を癒す青い光となって燃え上がる……それが、「浄化の炎」』


 その声が、目の前に佇むシルルースの掌に浮かんで揺れている青い炎と重なって、彼女が何をしようとしているのかを理解した瞬間、レイスヴァーンは大きく息を呑んで両のこぶしを握りしめた。




 殺された娘と共に毒気に搦め捕られて息絶えた精霊達の中に、未だくすぶり続ける熾火おきびが残されていることに、シルルースは気付いていた。風の精霊達が、大切に抱えていた彼らの亡骸を小さな掌に横たえる。そこに少女が『声』を吹き込むと、ぽおっと青白い炎が燃え上がった。


 祭壇の上では、轟々と燃える炎に閉じ込められて、金色の髪の娘が悲鳴を上げながらもがき続けていた。シルルースは眉根を寄せると、呪詛に縛られた苦しみに耐え切れずに狂気の色をまとったまま、紅蓮の炎を吐き続ける精霊達に語り掛けた。

「駄目よ。その子も『愛し子』なのでしょう? あなた達が愛したはずの子の魂を、罪人つみびとを燃やすような炎で焼くのは止めて」

 シルルースは必死に『声』を絞り出しながら、ゆらゆらと揺れ続ける青白い炎をゆっくりと差し出した。

「見て。『邪悪なもの』に搦め捕られてなお、『愛し子』のそばを離れようとせず、苦しみながら息絶えたの……今のあなた達も呪詛に縛られて苦しんでいるのでしょう? でも、狂ったまま、その子を道連れにして燃え尽きてしまったら、自らの命を燃してまでその子を守ろうとした彼らはどう思うかしら?」

 シルルースは掌の上で揺れ動く炎に、「さあ、仲間のところへお帰り」と優しく告げると、風の精霊達の翅が起こした風に誘われるようにして、青い炎が祭壇の炎の中へ吸い込まれていく。


 やがて、浄化の青い光を宿した炎が、精霊達をむしばんでいた「狂気」と言う名の呪詛を焼き尽くしながら、祭壇全体を優しく包み込んだ。



 青白い炎に包まれて、少し困惑したような水色の瞳でこちらを見つめている娘の魂に、シルルースはささやくような優しさで語り掛けた。

「あなたはとても強かったわ。自分の中に潜む何かに身体が蝕まれていることに気づいて、必死にあらがおうとしたのね。肉体は奪われても、魂までは奪われないようにと、最後の瞬間まで祈りの言葉を魂に刻み付けて……痛かったでしょうね。怖かったでしょうね」

 金色の髪の娘の顔が、ゆっくりと穏やかさを取り戻したような気がした。

「最後まで『天竜の巫女』として、たった一人で逃げずに戦い続けて……でも、もういの。あなたの苦しみは、もう終わったのよ。『安息の地』であなたの魂は浄化され、全てを忘れて……また、この世界に戻っていらっしゃい」 

 シルルースは掌を天空に向けて両腕を前に差し出すと、静かに、歌うように、『失われた魂への祈り』をささやき始めた。

 

『苦しみの夜に、終わりを告げよ

 絶望の果てに、安らぎを得よ

 悲しみの明けに、静寂を迎えよ

 堕ちた星は我らの心で永遠に輝き続ける

 今は眠りにつく彼の地で、微睡まどろみの果てに甦れ』


 小さな「巫女見習い」の少女がいにしえの言葉で編み上げた祈りは、風にのって浄化の炎の上へと降り注ぎ、青白い火の粉となってきらきらと輝き続けた。





火竜レンオアム。炎を愛でる地上の竜」

 背後に佇む傭兵の気配にようやく気づいて、シルルースは掠れる声でささやいた。

「炎の精霊が妖魔であるレンオアムを愛したのは、真っ直ぐでけがれのない、全てを包み込んで燃える炎のような魂の輝きにかれたからなの」

 涙でぐしゃぐしゃになった頬を、小さな手が拭う。

「精霊達が傭兵を恐れるのは、血の匂いがするからなの。彼らは何より『けがれ』を嫌うから」

 シルルースはレイスヴァーンの方をゆっくりと振り向くと、はにかむような微笑みを口元に浮かべた。

「不思議ね……あなたからも血の匂いがする。なのに、精霊達はあなたを恐れないの」

 不意をつかれて、ごくりと息を呑んだ傭兵の戸惑いを感じ取りながらも、シルルースは言葉を繋いだ。

「昨日、眠れなかったのは、精霊達が騒いでいたからなの。天幕の外に『火竜』がいるから、出ておいでって……あの時は、何のことだか分らなかったけど」

 薄紫色の瞳は、傭兵の魂を真っ直ぐに見つめていた。

「ヴァンレイ、きっと、あなたの中で眠っている魂の熾火おきびが、精霊達には『火竜レンオアム』の炎のように見えるのね。けがれなく、真っ直ぐで、すべてを必然として受け入れて、暖かく照らし出してくれる、命の炎……彼らはそれに惹かれるんだわ」

 私も……そう言い掛けて、シルルースは言葉を呑み込むと、再び、葬儀の炎に顔を向けた。


「あれは、私だったかもしれない」

 小さな肩が震え出すのを目にして、レイスヴァーンはたまらず少女を背後から抱きしめた。

「ヴァンレイ、私……もう、逃げてばかりは嫌なの」

 身体に回された逞しい腕に必死にしがみつくと、シルルースの瞳からせきを切ったように大粒の涙があふれ出た。

「馬車から逃げ出した私を、あなたとギイがかばってくれなかったら……私は『悪しきもの』と一緒に、あの『箱』の中に閉じ込められていたわ。だから……」

 暖かい腕に頬を摺り寄せると、シルルースは安堵の吐息をついて、静かに瞳を閉じた。

「何があっても、あなたが必ず私を守ってくれるのでしょう?」

 消え入りそうな声が、祈るような優しさでレイスヴァーンの心にささやき掛ける。

「お願い、ヴァンレイ……ずっと、そばに居て、私を守って」



 ゆらゆらと青白く輝く浄化の炎が、二人の影を地上に落として、優しく揺れた。 

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