熾火(おきび)

 野営地に戻った頃には、すっかり日も高くなっていた。古布で覆い隠したきらびやかな長剣と革の荷袋をくらから外し、愛馬を囲い柵の中に放ってやると、レイスヴァーンはゆっくりと辺りに視線を向けた。


「捧げもの」の子供達が、久しぶりの地面の感触を楽しむかのように、はじけるような笑い声を上げながら天幕の間を駆け回っている。

 ウィアと同じ年頃の娘達が天幕の前に腰掛けて、年若い傭兵達に熱い視線を送りながらおしゃべりに興じていた。一見すると砦の娘達と何ら変わらぬ彼女達が、貧しさゆえに家族と故郷から引き離され、泣き腫らした顔で荷馬車に揺られていた「捧げもの」であることをつい忘れてしまうほど、和やかな光景だ。


 ふと、無意識のうちに黒髪の少女の姿を見出そうとしていることに気づいて、レイスヴァーンは苦々しそうに唇の片側を吊り上げて乾いた声を漏らした。

「……女々しいな。あれだけはっきりと拒まれたくせに」


 あの少女の悲鳴が、耳から離れない。

 腕の中の小さな温もりを感じながら静かな夜が明け、穏やかな一日が始まるはずだったのに。

 王都軍の衛兵が「血染めのエルランシング」の名を不用意に口にした途端、シルルースが激しい悲鳴を上げて地面にくずおれた。何が起こったのか分からぬまま、助け起こそうと差し伸べた手を、震える小さな手が払い除けた。その瞬間、少女をおびえさせたのが自分なのだと察して、レイスヴァーンは当惑した。恐怖に震えた眼差しを向けられたのが何故なのかも分からぬまま、どうすることも出来ずにその場から逃げ出すしかなかった。


 朝市の喧騒の中を漂っている間も、あの少女と次に顔を合わせた時に何と声を掛けるべきか、そればかり考えていた。おかげで、くしを売っていた店の女主人に「もしや、想い人と喧嘩でもしたのかい? そう言う時には、素直に非を認めて謝っちまえばいんだよ。女はいさぎよい男に弱いんだからさ」と揶揄からかわれる始末だ。焼き菓子屋の主人などは同情した様子で「これで機嫌を直してもらえると良いなあ、兄さん」と言いながら、菓子を少し多めに包んでくれた。



 ともかく、冷静になって考える時間が必要だ。こんな時、ギイには絶対に捕まりたくない。どこか人目につかない場所で、腹ごしらえでもしながら考えにふけることにしよう。出来れば、少し横になって眠れるような場所があれば……


 そんなことを思いながら、レイスヴァーンはもう一度、辺りに視線を走らせた。



***



 暖かな日差しに誘われるように、シルルースは子猫のような伸びをすると、ゆっくりと身を起こして、ぼんやりと辺りを見回した。

 いつの間にか、すっかり日が高くなっている。


 レイスヴァーンの残した甘い香りを追いかけていた矢先、あの邪悪な気配に阻まれてしまったことを思い出して、ぶるりと身を震わせると、天幕が立ち並ぶ野営地の中央に意識を向けた。

 不思議なことに、身がすくむほどの恐怖を引き起こしたあの気配はどこにも感じられない。それどころか、浄化の炎でされたかのようにけがれない空気が、まるで結界のように野営地全体を覆っている。

 シルルースはいぶかし気に眉をひそめて首をかしげた。

 

 天幕の入り口にたたずんでいたは、一体、何だったのだろう。

 それに、あの邪悪な気配を消し去ったであろう空気が野営地を守るように包み込んでいるのは、どうしてなんだろう……


 

 しばらくの間、抱え持つ知識の波間を漂ってみたものの、結局、納得できる答えを見つけられずに、シルルースは眉間の皺を一層深くしたまま、ゆらりと立ち上がった。

 王都軍の衛兵と共に領主の館に赴いたはずのレイスヴァーンが、今、どこに居るのかなど見当もつかない。風の精霊に聞けば何か教えてくれるかもしれないが、また余計なものまで見せられるのはごめんだと、シルルースは顔をしかめて首を振った。

「とりあえず、ウィアに見つかる前に天幕に戻らなきゃ」

 もう、とっくに姿が見えないことに気づいて大騒ぎをしているかもしれない。妙に面倒見の良い娘が血相を変えて年上の傭兵に当たり散らす姿を思い浮かべて、シルルースは思わず小さな笑い声を漏らした。


 

 天幕の方へと歩き出したシルルースの髪を、風の精霊達が銀色のはねでそよ風を起こしながら、ふわりと宙に巻き上げて、はらりとこぼれ落とす。

 顔にかかった髪を鬱陶うっとうしそうに払い除けながらも、一向に歩みを緩めようとしない少女の足止めをするかのように、そよ風が再び黒髪をふわりと巻き上げて、はらりと零れ落とした。そんなことを何度も繰り返しながら、まるで誘うように、くすくすと笑い声を上げて、悪戯いたずらな風が野営地の外れへと駆け抜けて行く。

 どうやら、そちらに精霊達の気を引くものがあるらしいと気づいて、シルルースは面倒臭そうに「仕方ないわね」とつぶやくと、風が流れく方へと足を向けた。




 野営地の外れの、こんもりと緑が生い茂ったその場所で、崩れ落ちた砦の外壁に根を張った木々が長い月日の間に小さな森となって、自然の城壁を作り上げていた。

 シルルースは地面を走る木の根につまずいて転ばないように気をつけながら、風の精霊達のささやきに身を任せて、森の中にそっと足を踏み入れた。


 木々の間をさわさわと駆け抜けて行く精霊達を追いかけるようにして、歩みを進めて行く。

 しばらくして、緑のつたに覆われた大きな木の根元に、探していた人の気配が横たわっているのを感じ取って、シルルースは足を止めた。

 ゆっくりと規則正しい寝息が、風に乗って伝わってくる。


 

 こんな人気のない場所で眠ってしまうなんて、危険ではないのかしら……?



 少し呆れながらも、男の静かな寝息に耳を傾けているうちに、心の中が暖かい光に満たされるような不思議な感覚を覚えて、ほおっと息を呑んだ。



 ああ、やっぱり……この人は、炎だ。

 空っぽな炎。

 だけど、触れれば、こんなにも暖かい。

 


***



 ぱきり、と乾いた音がした。

 レイスヴァーンは胸の上に抱えていた長剣を引っ掴んで素早く起き上がると、音のした方へ視線を走らせた。



 地面に落ちていた小枝を踏み折ってしまったと気づいた少女が、慌てて足を引っ込めたものの、どうしたものかと顔をしかめたまま、その場に固まっている。もつれた長い黒髪に枯葉や小枝が絡みつき、まるで、罠にかかった悪戯いたずらな森の精霊のようだ。


 レイスヴァーンは込み上げる笑いを必死にこらえながら、出来る限り優しい声で少女の名を呼んだ。

「シルルース、おいで。足元に気をつけて」

 決まり悪そうな表情を浮かべながら、少女がゆっくりと近づいて来る。

「ここに座るといい。少し触るが、驚かないでくれ」

 大きな手に肩を引き寄せられて、少女がぴくりと身体を震わせた。が、今朝のような悲鳴を上げることもなく、身体を支えてくれる逞しい腕に大人しく身を委ねた。


 また拒まれるかもしれない……そう思いながら差し出した手を、少女が静かに受け入れたことに少し驚きながらも、レイスヴァーンは柔らかい下草の生える地面に広げておいた毛布の上にシルルースをゆっくりと座らせると、少し離れた場所に腰を下ろした。

「一人で歩き回って、平気なのか?」

 傭兵の気遣わし気な声に、シルルースは無言のまま、こくりと小さくうなずいた。

「一体、どこを通り抜けて来たんだ? 髪に色々と絡まっているんだが……」

 はっ、と息を呑んで目を見開いた少女が、おずおずと片手で黒髪に触れて、困ったように唇をきゅっと尖らせた。

 その様子が余りにも可笑しくて、レイスヴァーンは堪え切れずに小さな笑い声を漏らした。その声に、シルルースが思い切り顔をしかめる。

「髪に触れるが……構わないなら、取ってあげよう」

 声のする方へ、大きく見開かれた薄紫色の瞳を向けたまま、少女が小さく頷いた。



 見た目と違って、シルルースの黒髪は絹糸のような手触りだった。柔らかな黒髪にそっと指を滑らせながら、レイスヴァーンは思いを巡らせた。

 昨夜見た、赤い輝きをまとう小さな生きものは、まぼろしだったのか。

 空っぽな名前、空っぽな炎、弔いの炎……そんな不可解な言葉を連ねて、何を伝えようとしていたのか。

 叫び声を上げて地面に崩れ落ちるほど、一体、何におびえていたのか。

 問い詰めたいことは山ほどある。それでも、この少女を再び追い詰めるような真似はしたくなかった。


「こんなものかな……まだ細かいのが少し絡まったままだから、後でウィアにいてもらうといい」

 レイスヴァーンは黒髪からゆっくりと手を離すと、おもむろに荷袋の中から何かを取り出して、シルルースの手を取った。

「朝市で見つけたんだ。何だか分かるか?」

 手のひらに乗せられたものに、少女がもう一方の手をそっと添える。白く細い指がその上をゆっくりと動いていくのを、レイスヴァーンは静かに見守っていた。

「……櫛? 何か、られているわ」

 不思議そうに櫛に彫り込まれた模様をなぞる指を、傭兵のごつごつとした指が優しくつまみ上げた。

「ほら、ここが夜空。星がたくさん彫られているだろう?」

 小さな星々をなぞりながら、少女がほおっと息を呑んだ。

「これが月……新月の少し前の、細長い月だな。夜空の下には」

 少女の指に重ねられた大きな手が、木々が彫られている箇所へと導いていく。

「……森が広がっている」

 少女の指先がゆっくりと森の木々を愛でる。やがて、そこに座り込んでいる小さな生き物に気づくと、ぱあっと顔を輝かせた。

「何か居るわ……青狼ヴォール? ううん、違う。もっと小さな……もしかして、尾長イタチ?」

「正解だ。よく分かったな」

  

 傭兵の指が静かに離れて行くのを名残惜しく感じながら、シルルースは木彫りの櫛を、ぎゅうっと胸元で握りしめた。

 その姿に、レイスヴァーンの心がふわりと軽くなる。

「お前にやるよ。ウィアと一緒に使うといい」

「……本当に?」

 信じられないと言わんばかりに、シルルースが瞳を大きく見開いて、震える声を出した。

「私なんかが、こんな素敵なもの……本当にもらってもいの?」

 レイスヴァーンは少女の頭に手を置くと、あらん限りの優しさを込めて、くしゃりと黒髪を撫でた。

「女の子が櫛ぐらい持っていたところで、誰もとがめやしないさ」

 大きな手が離れて行く瞬間、ふわり、と甘い香りがシルルースの鼻先をくすぐった。


 びた鉄の匂いに似た香りをまとっているのが傭兵の常だ。目の前に居るこの男とて、例外ではない。

「あなたからは、血の匂いがするの」

 なのに、それと同じくらい、甘くて優しい香りをまとっているのはどうしてなんだろうとシルルースは首を傾げた。

「また唐突だな」

 レイスヴァーンは苦笑しつつも、昨夜、少女と交わした不可思議な会話を思い出した。心の中で、どこか別の世界を彷徨さまよいながら、思いを形にするために言葉を紡ぐ──そんな少女の話し方に慣れるには、共に過ごす時間がもう少々必要なのだろう。

「傭兵だからな。こびりついて洗い流せないほどの血を浴びて、本来なら『巫女見習い』のお前に触れることなど許されないほどけがれを帯びた身だ。血の匂いがしても不思議はない」

 

 レイスヴァーンの皮肉めいた声があまりにも悲しく聞こえて、シルルースは手の中の木彫りの櫛を強く握りしめると、ふるふると首を横に振った。

「……でも、あなたからは、甘い香りもするの」

 言い終えた瞬間、顔をうつむかせてかすかに微笑んだ。


 少女が見せた、はにかむような微笑みに、レイスヴァーンは又も魅せられた。

 昨夜と言い、本当に自分はどうかしてしまったのではないだろうかと困惑して、片手で口元を覆う。が、緑色の瞳に浮かんだ戸惑いの色までは隠しきれそうもない……


 そんなこととは気づかずに、シルルースが柔らかな声で告げた。

「悲しいことや嫌なことを優しく包み込んで忘れさせてくれる、甘い香り」

 生まれ育ったフュステンディルの草原に揺れる、薄紫色のラヘンデルの花のような。

「不思議ね。どうしてかしら」

 

 口元を覆っていた手を首に滑らせて、はあっと大きく息を吐き出すと、レイスヴァーンは平静を装って荷袋の中を覗き込んで焼き菓子の包みを取り出した。

「多分、これのせいだと思うんだが」

 そう言いながら、シルルースの鼻先に包みを近づける。香ばしい匂いに、少女が尾長イタチのように鼻をぴくぴくとさせた。

 なんとも愛らしい仕草に、レイスヴァーンの口元が自然に緩む。そんな自分に気づいて苦笑いしながら包みを広げると、一番大きな焼き菓子を選んで小さな手のひらに乗せた。

 はあっと大きく息を呑んだ少女の顔に、つぼみほころぶような微笑みが浮かぶ。朝市に立ち寄ったのは正解だったと、レイスヴァーンは心の中で満足気に頷いた。

「食べてごらん、シルルース。アルコヴァルの焼き菓子は、大陸一、美味うまいんだ」


 心が壊れているのではないかと思うほど、全ての感情を押し殺したまま荷馬車に揺られていた少女が、好奇心に瞳を輝かせ、甘い焼き菓子を頬張りながら嬉しそうに頬を染めている。

 そんなシルルースの姿から目を離せずにいる己自身に、レイスヴァーンはほとほと呆れ果てていた。


 

 ……参ったな。こんな子供に無性に庇護欲を掻き立てられて、調子を狂わされるとは。

 

 どこか危な気で頼りない、まだ幼さを残す少女が、子どもらしい幸せや喜びさえ知らぬまま、身勝手な大人達に『巫女』として生きる宿命を押し付けられた。それなのに、ほんの些細なことで、こんなにも嬉しそうに子供らしく顔をほころばせる──その姿を見てしまったからだ。

 せめて、王都への旅の間だけでも、この少女を守ってやりたい……そんなことを思うのは。

 ただ、それだけのことだ。



 レイスヴァーンの心の奥底で、静かにくすぶり続けていた熾火おきびが、ぱちりと爆ぜた。

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