迷い子と精霊

『眠気が失せた』

 ため息まじりにそう言った男の気配が、少しずつ離れて行く。

 やるせない気持ちに押し潰されそうになりながらも、シルルースは心の痛みに必死に耐えていた。



 あの人が心の奥底に封印した過去を、のぞき見るつもりなどなかったのに。あの人が自ら語り聞かせてくれる時まで、いつまでも待つつもりだったのに。

 風の精霊達の記憶の中に、戦場で血にまみれたあの人の姿を見つけて、たまらず悲鳴を上げてしまった。差し出された大きな手を、震える手で払い除けてしまった。悔しさをにじませるあの人に、おびえた眼差しを向けてしまった。


 あの人のことを、もっと知りたいと思ったのに。

 あの人の過去の重さに尻込みして、逃げ出してしまった。ありのままの私を受け止めてくれたあの人が、果てしない悲しみを心に抱え持っていると知っていながら、ありのままのあの人を受け止めることが出来なかった。

 大陸の民の心を癒すために祈りを捧げるはずの巫女が、たった一人の心さえ癒す事も出来ず、悲鳴を上げて逃げ出すことしか出来なかった。

 なんて、卑怯なの。なんて、情けないの。



 自分の弱さが許せなくて、シルルースは立ち去って行くレイスヴァーンの重苦しい気配を切ないほどに感じながらも、ウィアにしがみついたまま、くやしさに身を震わせて泣き続けるしかなかった。


 どれくらいそうしていたのか。

 気づけば、ウィアに手を取られて天幕の中へと足を運んでいた。

「ほら、横になって」

 少しだけ不機嫌な顔のウィアが、震えの止まらぬシルルースの身体を毛布でしっかりと包み込んだ。

「あんたねえ……何も言わずに泣いてばかりじゃ、どうしてあげたら良いか分からないじゃないの。子供じゃないんだから、いい加減、泣き止んだらどう?」

 真っ赤に泣きはらした目が、何か言いたげにこちらを見つめている。ウィアは困ったように眉を下げて肩をすくめると、涙でぐしゃぐしゃになった少女の顔をそっと拭ってやった。

「とにかく、明日の出発まで天幕はこのままだってギイが言ってたから、落ち着くまで寝てなさいな」

 毛布の中に埋もれたまま、少女がもぞもぞと身体を動かす。

「ねえ、シルルース。あんな風に目の前で悲鳴を上げられたら、誰だって居たたまれなくて逃げ出したくもなるわよ……レイスには後でちゃんと謝っておきなさいよ。一応、旅の間、私達を守ってくれる護衛なんだからね」

 返事をするかのように、毛布の中から、ひっく、と大きくしゃくりあげる声が聞こえた。それがあまりにも可笑しくて、ウィアは思わず目を細めて口元を緩めた。

「まったく、もう……あんたが『巫女見習い』だなんて、あの『声』を聞いていなかったら、今でも信じられないわよ」

 ぽんぽん、と毛布の上を優しく叩くと、ウィアは「ちゃんと休むのよ」と言い残して天幕を後にした。



 暖かいはずの毛布の中も、あの人の腕の中に比べれば、それほどでもない……

 そんなことを思う自分が嫌で、シルルースはウィアの気配が消えたのを確かめると、むっくりと起き上がった。

 どうしてあの傭兵のことがこんなにも気になるのか、自分でも分からない。ただ、空っぽな炎に包まれて、熾火おきびのようにくすぶっている魂を解き放って上げたいだけだ。でも、そんなことをウィアに言ったところで、「一体、何のことよ?」といぶかしがられるに決まっている。だから、ウィアには何も言わないままでいよう、と心に決めた。

 天幕の外では、ウィアが食べかけのまま冷めてしまった朝食のスープを面倒臭そうに口に運んでいる。ギイは王都軍の衛兵達と世間話に花を咲かせているようだ。

 二人に見つからないように、シルルースはそっと天幕を抜け出した。



 天幕の外で待ちわびていたように、風の精霊達が、ふわりと黒髪を撫でながら少女の周りを駆け抜けて行く。が、シルルースは唇を噛み締めると、身体にまとわりつく精霊達を両手で必死に振り払いながら歩き続けた。

「あんなもの、見たくなかったのに……」

 まだ泣き足りないと言わんばかりに、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

「あなた達が、勝手に……私の中に『記憶』を送り込んで……無理矢理、見たくもないものを見せられて……!」

 一瞬、風がいだような気がして、シルルースは薄紫色の瞳を上空に向けた。

「悲しいことや、辛いことばかり……そんなの、見たくない……お願いだから、そっとしておいて」


 遠くでそよぐ風の音が悲しそうに響くのが聞こえて、シルルースの胸がちくりと傷んだ。一つしか年の違わないウィアの、厳しい言葉の裏に隠された優しさに触れたばかりだというのに、風の精霊に八つ当たりするような自分の未熟さに、ほとほと嫌気がさした。


 とにかく、先ずはあの人を見つけて、謝らなきゃ……そう心に決めて、眉根にしわを寄せたまま、赤い髪の傭兵が残した甘い香りを辿たどって天幕の間をすり抜けて行く。

 思いつめた表情の少女が足早に通り過ぎるのを、周りにいた傭兵や「捧げもの」の子供達は怪訝そうな顔で眺めているだけだ。黒髪の貧相な少女が「巫女見習い」だとは、知る由もなく。



 甘い香りは、『箱』の馬車に乗っていた子供達が一夜を過ごした天幕のそばを縫って、荷馬車や馬を停めた野営地の外れまで続いているようだ。

 が、シルルースは『箱』の天幕の前で、ぴたりと足を止めた。

 故郷の神殿の前で箱型の馬車に足を踏み入れた瞬間に感じた、あの得体の知れないものの気配が、天幕から漂っていたからだ。


『巫女姫キシルリリ様の結界で守られているんだぞ? その「箱」の中に、邪悪なものだか何だか知らんが、良からぬものが入り込めるわけがないだろうが』


 『箱』の護衛はそう言っていた。確かに、邪悪な気配を馬車の中に縛りつける「くびき」のようなものの存在を、シルルースも感じていた。だから、『箱』から逃げ出しさえすれば大丈夫だと思っていた。

 それなのに……


 気配が動いている……?

 違う、そうじゃなくて……動けるようになったんだ。まだ、馬車の「くびき」の匂いに縛られているのが分かる。巫女姫の結界から完全に自由になったわけではないのだろう。

 でも、一体、どうやって? 


 シルルースは困惑して立ち止まったまま、郷里の神殿で叩き込まれた伝承と知識が迷路のように連なった世界に心を漂わせると、道標みちしるべとなる言葉を必死に手繰り寄せた。

『「巫女姫キシルリリ」。

 スェヴェリス王家に生まれた末席の姫は、スェヴェリスの言葉で「夜の娘」を意味する「キシルリリ」の通り名を与えられ、巫女としてラスエルクラティアの大神殿に捧げられる。

 現在のキシルリリが巫女姫となったのは、現ラスエルクラティア王である大神官ハルティエンがまだ幼い頃のこと。

 スェヴェリス討伐に乗り出したアルコヴァルとティシュトリア両国から「妖術師の王国スェヴェリスの血を引く巫女姫を、見せしめのため処刑すべし」との要請があったにも関わらず、大神官ハルティエンは「大陸の民を癒し、戦火に散った魂のために日々祈りを捧げる巫女の命を、その血筋だけを理由に奪うなど、決して許されぬ」として、彼女の引き渡しを断固として拒み続けた……』


 大神官ハルティエンの信頼を勝ち得たスェヴェリスの巫女姫が、祈りの言葉を織り込んで編み上げた結界。そこから逃れるなど、たとえ「魔の系譜」であっても容易ではないだろう。下位の妖魔ならば、結界にからめ捕られた肉体を祈りの言葉で焼き尽くされ、浄化されてしまうはずだ。

 だとすれば、あの天幕の中にいるのは、まさか……


 

 刹那、天幕からこちらを見つめているじっとりとした視線に射竦いすくめられて、我に返ったシルルースが、ひゅうっと息を呑んで震え上がった。

 天幕の入り口にたたずむ姿は人の子の形をしてはいるが、そこから漂うのは、血の匂いと底知れぬ乾きに飢えた獣の気配だ。『箱』に閉じ込められていたはずの気配と全く同じ、どろどろとまとわりつく、恐ろしく邪悪な……


 シルルースは何とか視線の呪縛から逃れようと、浄化の炎を灯す際に巫女が捧げる祈りの言葉を、頭の中で必死に繰り返した。

 『箱』の天幕の中には「捧げもの」の子供達が居るはずだ。あの気配に呑み込まれて、既に正気を失っているかもしれない。いや、もし、あれが本当に上位の妖魔だとすれば、魂をむさぼり喰われ、「安息の場所」に行き着くことも叶わずに、この世界から姿を消すことになる。


「駄目よ……そこから、離れて……早く……」

 恐怖に震えながらもシルルースが懸命に絞り出した声は、野営地を駆けまわる子供達の騒ぎ声に掻き消されて、『箱』の天幕のすぐそばでたむろっている傭兵達の耳にさえ届かない。


 ああ、駄目……!

 早く、ここから離れなきゃ……誰か……助けて……お願い、助けて!



 シルルースの心の叫びを聴いた風の精霊達が、邪悪なものの眼差しに囚われて動けなくなってしまった『愛し子』を小さな旋風つむじかぜで包み込むと、黒髪を優しく引っ張り、強張った身体をふわりと押しながら、少しずつ『箱』の天幕から離れさせ、けがれのない澄んだ空気の流れがある方へと導いて行く。 

 引きられるようにして、天幕から遠く離れた場所に何とか辿り着いた瞬間、シルルースは地面にぺたりとしゃがみ込んでしまった。


 ぜえぜえと音を立てながら、何度も大きな呼吸を繰り返しながら、冷たい朝の新鮮な空気で身体中が満たされた頃。ようやく落ち着きを取り戻した少女の周りを、風の精霊達が心配そうに駆け抜けて行く。

「……ごめんなさい」

 震える唇に手を当てたまま、シルルースはまた泣き出しそうになるのを必死にこらえ、もう片方の手を伸ばして、震える指で目の前を通り過ぎて行く精霊達に触れながら、優しく語り掛けた。

「私、あなた達に酷いことを言ったわ……あなた達はただ、私が見ることの出来ない世界を見せてくれようとしているだけなのに……勝手に、だなんて……無理矢理、だなんて言って………本当に、ごめんなさい」

 くすくす、といつもの軽やかな笑い声が耳元を撫でるのを感じて、シルルースの表情がわずかに和らいだ。

「こんな情けない私を……出来の悪い『迷い子』を、いつも助けてくれて……ありがとう」

 


 急に気が緩んだせいだろうか。

 突然、シルルースは耐え難いほどの眠気に襲われて、その場にぱったりと倒れ込んだ。

 天幕が立ち並ぶ野営地の中央から、嫌な気配が未だに立ち昇っているのを感じる。から逃げ出すためだけに、起き上がる事も出来ないほど力を使い果たしてしまった自分にほとほと呆れ果てながらも、シルルースはぼんやりと頭の中で考えを巡らせた。



 ……どうしよう。どうすればいい?

 あんなものを相手に出来るのは、力のある術師か妖獣狩人だけ。

 この隊列には、役に立たない巫女見習いと、治癒師しかいないのに……

 どうしよう。どうすれば……

 

 ああ、そうだ。

 あの人を見つけなきゃ。

 あの人なら、きっと、何があっても私を守ってくれる。


 昨日の夜みたいに……


 

 風の中にかすかに漂う甘い香りを感じながら、シルルースはゆっくりと眠りに落ちた。



***



 明かり取りの小窓から差し込む朝の光が水面に反射して、薄暗い天井にきらきらと揺れる光の波紋を映し出す。


 青白い浄化の炎が灯された祈りの間で、大きな水鏡みずかがみの前に座り込んでいる白装束の女が、うっとりとした表情で天井に映し込まれた光を見つめていた。

 その隣で、腹ばいの姿勢のまま、ゆらりと宙に浮いていた銀灰色ぎんかいしょくの髪の女が、水鏡をのぞき込んで、にやりと歪んだ笑みを浮かべた。

の気配を嗅ぎ取っておきながら、尻尾を巻いて逃げ出しおったわ。精霊が肩入れをしているからには、少しは使い物になるやも知れぬと思ったが……われはどうやら、少し買い被り過ぎていたらしい』


 その言葉に誘われるように、白装束の女がゆっくりと立ち上がって水鏡を覗き込む。緑の下草に覆われた大地に横たわって眠りこけている少女の姿が映し出されると、何かを確かめるかのように細い指先を水面に走らせた。


『キシルリリよ、スェヴェリスが滅びの道を選んだ今、お前を継ぐべき者は何処でどうしているのやら』


 くくっ、と不気味な笑い声を上げた銀灰色の女が、さも愉快そうに金色の獣の瞳を細めるのを横目に、キシルリリは水面から視線を逸らさずに、静かに言葉を紡いだ。

「血肉を分けた者に裏切られ、故郷からも見捨てられた『捧げもの』の子らになど、情けも期待も掛けぬことだ……そう言いたいのでしょう、ラマシュ?」

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