風の名前

 木彫りのくしを膝の上にのせて、ちびりちびりと焼き菓子をかじっているシルルースのすぐそばで、レイスヴァーンは下草の生えた地面にごろりと寝転がった。

 夜番明けの上、仮眠も取らずに王都の街を駆けずり回ったからだろう。身体の隅々までじんわりと気怠けだるさが広がっていく。



 シルルースをあんなにもおびえさせた「邪悪なもの」の気配は、いつの間にか、すっかり影を潜めたらしい。

「その代わり、変な感じの空気が野営地をおおうように漂っているの」

 焼き菓子の欠片かけらを口のはしにくっつけたまま、少女は腑に落ちないと言いたげに首を傾げた。

「悪意を感じるようなものでないのなら、そう気に病む必要はないと思うが」

 そう言いながら、少女の口元をぬぐってやりたい衝動に駆られて、レイスヴァーンは無意識のうちに手を伸ばしていた。柔らかな頰に指が触れた瞬間、シルルースがびくりと大きく身をよじった。その拍子に、手にしていた焼き菓子が滑り落ちて、膝の上でぽろぽろと崩れた。


「ああ、すまない。つい……」

 もどかしさに口ごもる男の手が、ゆっくりと離れていく。

 咄嗟に、シルルースは宙を掻くように両手を伸ばして節くれ立った大きな手を探り当てると、しがみつくように握りしめて自分の方へと引き戻した。

「大丈夫、だから」

 戸惑いがちに告げる少女の手が震えているのを感じて、レイスヴァーンは困惑に目を細めた。

「菓子の残りかすが付いているんだ。少し触るが、驚かないでくれ……ほら、ここに」

 少女の頬を包み込むように大きな手を添えると、柔らかな唇の上に親指を置いて、ゆっくりと滑らせていく。

 生暖かい吐息に指先をくすぐられて、心が跳ね上がるのを何とか抑え込みながら、レイスヴァーンは何事もなかったように少女の口元から手を離した。


「あなたは……怖くないの?」

 目を伏せて、指先でそっと唇をなぞりながら、シルルースがかすれた声でささやいた。

「何のことだ?」

 小さな膝の上にこぼれ落ちた焼き菓子を拾い上げていたレイスヴァーンが、怪訝な面持ちで少女の顔を覗き込む。

「『精霊の落とし子』に触れたら、精霊の怒りを買うって、村の人達はみんな怖がって……」

 ゆっくりと名残惜しそうに唇から指を離して、胸元でぎゅっと握りしめる。鼓動が早鐘のように胸を打ち続け、シルルースは急に息苦しさを覚えた。

「誰も、私に触れようとしなかったから」



 風に乗って「捧げもの」の子供達の笑い声がかすかに聞こえてくる。

 あの子供達と一緒に走り回り、無邪気に笑い転げていてもおかしくない年頃の少女が、顔をゆがめて感情を押し殺し、唇を噛み締めて必死に涙をこらえている。その姿は、あまりにも痛々しくはかなげだ。人の心を操る「巫女の声」を編み出す力を秘めているとは、到底、信じられぬほどに。


 ふうっと息を吐き出すと、レイスヴァーンは片方の唇を釣り上げて、意地悪そうな笑みを浮かべた。

「今更だな、シルルース。俺は一晩中、お前に触れていたんだぞ」

 ひっ、と小さな悲鳴を上げて、少女が弾かれたように顔を上げた。耳の付け根まで真っ赤に染まっている。

 レイスヴァーンは新しい焼き菓子を摘み上げると、瞳を大きく見開いたまま固まってしまったシルルースの両手を取った。

「ほら。今度は落とすなよ」


 甘い香りと穏やかな声に、心の奥がきゅうっと痛むのを感じて、シルルースは困ったように眉根を寄せた。



 しかめ面のまま焼き菓子を握りしめる少女のそばに腰掛けると、レイスヴァーンは大きく伸びをして目を閉じた。柔らかな午後の日差しの温もりを感じているうちに、いつしか深く静かな眠りの底へと沈んでいく……

「ねえ、知ってる? 聖なる天竜ラスエルには弟竜がいたの。禁忌を犯した黒い竜なんだけど」

 唐突な少女の問い掛けに呼び起こされて、レイスヴァーンは片眉を吊り上げると、ゆっくりとまばたきした。未だ名前を呼ぼうとしない少女の言葉が、自分に向けられたものなのか、周りを飛び交っている精霊達に向けられているのかも分からぬまま、ため息混じりに眠たげな声を出す。

「……火竜レンオアムのことか?」


 一瞬、驚いたような表情を浮かべたシルルースが、こくりと小さくうなずいた。

「そう。じゃあ、炎の精霊に恋して地上に降りた弟竜レンオアムが、その後、どうなったかは?」

「炎を横取りされまいとした人間の手で翼をもがれ、炎に焼かれて身を滅ぼした」

 この問答はどこまで続くのだろう、といぶかしがりながら、レイスヴァーンは面倒臭そうに言葉を連ねた。

「その教訓は?」

「シルルース、悪いが俺はそこまで信心深くない。天竜の教えなんぞ、まともに覚えちゃいないんだ」

 傭兵の戸惑いなど気にもせぬ素ぶりで、少女は淡々と言葉を続けた。

「『身の程をわきまえよ』。それが、大神殿の神官によって記された創世神話の『愚かな黒き竜』の教訓」

 薄紫色の瞳が、不意に虚空に向けられた。

「レンオアムは、欲深い人の子の捕囚となっていた愛しい精霊を解き放っただけなのに」

 ほおっと吐息を漏らして、シルルースが言葉を切った。

「それは、吟遊詩人のれ歌だろう?」

「でも、あなたは、それが戯れ歌ではないと知っている……そうでしょう?」


 少女の声は、昨夜、レイスヴァーンの心の中に容赦なく入り込んで、きりきりと魂を締め上げた、あの時の響きに似ていた。

「大陸の民は、ラスエルの弟竜を『レンオアム』の名では呼ばないの。創世神話の教えに従って、『翼を持たぬ竜』だとか『愚かな黒き竜』と呼ぶだけ。王侯貴族から『地を這う竜』と呼ばれてさげすまれている弟竜は、翼をもがれ、名を奪われ、大陸の民からあがめられることもない」

 レイスヴァーンは、『巫女の声』が紡ぎ出す創世神話の竜達が、目の前の虚空にゆらりと姿を現し、その巨体を優雅にくねらせながら、咆哮を上げて天へと突き進んで行くのを垣間見たような気がして、驚きに息を呑んで目を凝らした。

「でも、『火竜レンオアム』の名を口にするあなたの声は愛情にあふれていた……どうして?」

 少女が静かにささやいた言葉からは、先ほどまでの威厳など欠片かけらも感じられない。

 答えを待ち望むような薄紫色の瞳にじっと見つめられていることに気づいて、レイスヴァーンはようやく我に返った。

「……参ったな」

 絞り出すような男の声に、シルルースは満足そうな微笑みを浮かべると、焼き菓子をぱくりと口にした。その様子に、レイスヴァーンの心の中で張り詰めていたものが、ゆっくりと解きほぐされていく。


「母が、火竜の谷レンオアムダールの生まれだった……幼い頃から、谷の守り神であるレンオアムの物語を嫌というほど聞かされて育ったんだ」

「火竜の谷? 逃亡奴隷が大陸の西の果てに築いた集落のこと?」

 少女がひょっと首をかしげる。

「それは、もう数千年も前の話だな。今では、この大陸で唯一『武装中立』を貫き続ける都市国家だよ」

 大陸の西の果てにある母の故郷に想いを馳せながら、レイスヴァーンは自分でも驚くほど穏やかな声で語り続けた。

「レンオアムダールは優れた傭兵を輩出することでも知られている。戦場で『火竜の傭兵』として恐れられる彼らのことを、聞いたことはないか?」


 眉間にしわを寄せたまま、ふるふると首を横に振る少女の仕草が妙に愛らしくて、レイスヴァーンの頰が自然に緩む。

 見かけによらず口の立つ少女が、神殿の奥にこもって大陸の民のために祈りを捧げる「巫女見習い」だったことを思えば、戦場での血生臭い噂話を聞き及んでいなくとも不思議はない。

「火竜の民を『卑しい奴隷のけがれた血を受け継ぐ者』とさげすむ王侯貴族でさえ、『火竜の傭兵』をこぞって自軍に引き入れようとする……それくらい、味方にすれば頼もしく、敵にすれば恐ろしい戦士なんだ」 

「あなたも、その『火竜』なの?」

「いや、俺は違う。『火竜』の身体には守り神の刺青が彫られているんだが、俺にはないよ。確かめてみるか?」

 ぎょっとした表情で頰を赤らめたシルルースが、少し哀しげに首を振って顔を背けた。傭兵同士ならば軽い冗談で済むはずの言葉が、盲目の少女を前にして空回りしたことにようやく気づいて、レイスヴァーンは心の中で毒づいた。

「シルルース、悪かった。その……お前の目のことを、すっかり忘れていて」

「忘れてくれた方がいこともあるの」

 小さくつぶやいて、肩をすくめてみせる。

「でも、あなたには、忘れてはいけないことがある。あなたの本当の名前、まだ聞いていないわ」



『そんな空っぽな名前、あなたじゃない』


 ……ああ、だからか。決して「レイスヴァーン」の名で呼ぼうとしなかったのは。



 時に見え隠れする少女の頑固さが、何故だか無性に愛しく思えた。

「……ヴァンレイだ」

 少女が不思議そうに首を傾げる。

「レイスヴァーンは親父がつけた名だ。貴族の子に多い名前ではあるんだが、『火竜の傭兵』であることに誇りを持っていた母は、貴族特有の気取った響きを酷く嫌ってね……『レイスヴァーン』のつづりを入れ替えて、レンオアムダールの言葉で『輝く風』を意味する名で俺を呼んでいた」



『ヴァンレイ。

 私の大切な、愛しい子。

 あなたは風のように、自由に生きなさい。身分や血筋に囚われず、大陸を吹き渡る風のように』


 愛しげな、少しだけ哀愁を帯びた、深く優しい響きを持つ女の声。

 風の精霊が遠い昔に聞いた記憶の中の声が、さわさわとシルルースの耳元を優しく駆け抜けて行った。 

「ヴァンレイ……綺麗な音ね」

「そうか?」

「ええ。あなたによく似合ってる。大陸を吹き渡る赤毛の風の精霊さん」

「……勘弁してくれ。ギイが聞いたら笑い転げるぞ」

 ふふっと嬉しそうにシルルースが笑い声を上げた。



 この少女のことを、もっと知りたい。


 なぜそんなことを思うのか戸惑いながらも、レイスヴァーンは外衣を引き寄せると、少女に背を向けて横になった。

「シルルース、俺はもうしばらく眠るから、お前はウィアのところへ戻った方がいい」

 途端に、甘い香りがふわりと揺れて、小さな温もりが躊躇ためらいがちにレイスヴァーンの背中に触れた。

「駄目。あなたが眠っている間、私もここに居る」


 男が戸惑うような吐息を漏らした。だが、たしなめる言葉もなく、起き上がる気配もない。

 シルルースはレイスヴァーンのかたわらにしゃがみ込むと、大きな背中にもたれかかるように身を預けた。


 昨夜、微睡まどろみの中で感じた、自分を優しく包みんでくれた温もりが、この傭兵のたくましい身体だったのだと改めて思い出して、少女は恥じらうように唇をぎゅっととがらせた。



***



 どれくらいそうしていたのだろう。気づけば、陽もだいぶ傾いていた。


 起き上がろうとして、レイスヴァーンは背中にもたれかかる重みに気づいた。

「シルルース?」

 ううん、と声を漏らしたものの、少女はまだ夢の中を彷徨っているらしい。

「起きてくれ、シルルース。さすがにもう戻らないと」

 またウィアの怒りを買ってしまう。そう言い掛けて、レイスヴァーンは思わず苦笑した。


 ゆっくりと身を起こし、シルルースの顔を覗き込む。子猫のように身を丸めて毛布にくるまっている少女が目を覚ましそうにないと分かると、諦めたように大きなため息を吐いた。

 革の荷袋を拾い上げ、毛布ごと少女を抱え上げると、櫛を握りしめたままの小さな手を胸元に引き寄せて、レイスヴァーンはゆっくりと森の木々を抜けて行った。


 

 ウィアとギイの姿を探しながら、夕陽に赤く染まる天幕が立ち並ぶ方へと足を進めて行く。

 途中、王都軍の衛兵達に行き合った。領主の館から戻ったばかりだと言う二人は、小さな翼の生えたシロアナグマのような奇妙な生き物を連れていた。

「キシルリリ様の使い魔だそうです。今後、何かあれば、この使い魔に伝言を託すようにと言われて」

 領主に仕える術師が、水鏡を使って、わざわざ大神殿の術師に掛け合ってくれたのだ、と感極まる様子の衛兵達を前に、恐らく、エルランシング家の反感を買うことを恐れたあの側近が何かしら口添えをしたのだろうと察して、レイスヴァーンは苦々しく口元を歪めた。


 愛嬌のある顔をした妖獣の姿を見つけた子供達が、好奇心に目を輝かせて近づいて来た。が、使い魔が鼻に皺を寄せて牙を剝きだし、恐ろしげな威嚇の声を上げた途端、わっと悲鳴を上げて逃げて行った。

「使い魔とは言え『魔の系譜』に変わりはないだろう? そんなものを野営地に持ち込んで、大丈夫なのか?」

 金色の獣の瞳をくりくりと動かしてこちらを見つめる使い魔に、レイスヴァーンは鋭い視線を向けた。

「術師が言うには、キシルリリ様の呪詛で縛られた使い魔を連れていれば、その呪詛が『魔の系譜』けにもなるのだとか」

 衛兵が少し興奮気味に声を上げた。

「『箱』の結界も、わざわざ新しいものを編み上げて下さったそうです」

 そう言って胸に手を置くと、衛兵は天竜の祈りを口にしながら遠くの空を見上げた。

 

 シルルースが気にしていた「変な感じの空気」とはそのことだろうか。

 眠り続けている少女をわざわざ起こすことでもないだろうと思いながら、レイスヴァーンは衛兵達に別れを告げて、ウィアが待っているはずの天幕へと足を向けた。


 突如、耳を裂くほどの鋭い悲鳴が野営地に響き渡った。


 びくりと身体を震わせて目を覚ましたシルルースが、恐怖に顔を引きつらせてレイスヴァーンを見上げている。

 新たな悲鳴と泣き叫ぶ声が辺りを揺るがし始め、レイスヴァーンは震える少女の身体をしっかりと抱きしめ直すと、耳元に唇を寄せて静かにささやいた。

「大丈夫だ。何があっても必ず守ってやる」

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