巫女見習い

 「狭間はざま」の暗闇を微睡まどろみながら漂っていたはずが、気づけばあらがいようのない力にからめ捕られて、この小さき箱の如き隙間に閉じ込められていた。

 「狭間はざま」の瘴気は、我ら「魔の系譜」のかてとなり、我らの魂を包み込むまゆとなるが、此処ここ忌々いまいましい呪詛の匂いで満ちあふれている。おかげで、身動きさえままならぬ。


 ……いや、待て。


 なんともかぐわしい匂いがするではないか。

 ああ、これは……まだ生まれて間もない、新鮮な人の子の匂いだ……




 だらしなく開いた口元らしき赤い穴から、ぼたぼたと唾液をしたたり落とす「それ」は、堪え切れぬとばかりに長い舌を突き出すと、ずるりと音を立てて暗闇を舐め回した。



***



 旅慣れた傭兵ならではの機敏さで、野営の準備が着々と整えられて行くのを、ウィアは驚きの表情を浮かべながら見つめていた。


 日暮れ前に全ての天幕を張り終えると、荷馬車に積まれていた篝籠かがりかごを見る間に組み上げて、野営地をぐるりと囲むようにひとつ、またひとつと篝火かがりびを灯していく。

 薄暗い闇の中、明かりの灯された天幕の白い姿がぼんやりと浮かび上がる。それはまるで、夕陽を浴びて柔らかな光を帯びた綿雲のようで、荷馬車の上で待つよう言い付けられていた『捧げもの』の子供達から、わあっと感嘆の声が上がった。

 十数台の荷馬車に囲まれた野営地の中心に置かれた天幕には、「大陸」の地図に巨大な体躯を巻きつけて両翼を広げた青い竜が描かれていた。その周りを取り囲むように、大小の天幕が交互に三つずつ置かれている。

 青竜の天幕の前には、神妙な面持ちで何やら話し込んでいる護衛が三人。その内の二人がまとう濃紺の外衣には、天幕のものとよく似た竜が天翔あまかける様子を描いた意匠がほどこされている。どうやら、この隊列を指揮する「王都軍の衛兵」らしい。残る一人は、短く刈り込んだ栗色の髪の壮年の傭兵だ。左頬に傷のあるその男を前にして、年若い衛兵達が緊張を隠せずにいるのが遠目にも見て取れた。


「あの人、確か……ギイ、だったわよね。へえ、王都軍の兵士にも顔が効くんだ」

 荷台の上から身を乗り出したウィアが、意外なものを見たとばかりに肩をすくめ、形のよい唇の片端をわずかに吊り上げた。

「あの青い竜、天竜ラスエルさまよね。ねえ、シルルース、天竜さまって人の姿も取れるのよね?」

「……知らない。会ったことないもの」

 荷台の枠に肘をつき、その上にあごをのせて物思いにふけっていた黒髪の少女が、くぐもった声を出した。

「ええっ? あ、いや、そうじゃなくて……ほら、大陸の創世神話の中に、天竜さまのお話があるじゃない? 若くて美しい娘を見初めては、凛々しい人間の男に姿を変えて地上に降りて来るって」

 そう言いながら、ウィアは両手を首の後ろに回すと、腰まで届く黄金色の髪をふわりとすくい上げてみせた。細い首筋からしなやかに曲線を描く背中が露わになり、篝火の炎が妖艶な肢体を照らし出す。それに気づいて、傭兵達が口笛を吹いてはやし立て、荷台に座っていた少年達は目の置き場に困ったように頰を赤らめ、ごくりと喉を鳴らした。

 満足気な微笑みを浮かべるウィアの横で、シルルースが興味無さ気にささやいた。

「それは、人の子が勝手に創ったおとぎ話。妖魔だから、若い娘を甘い言葉でかどわかして食い殺すくらい訳無いだろうけど」


 ぎょっとして思わず髪から手を離したウィアが、どうにも腑に落ちないと言いたげな表情のままシルルースの隣にすとんと腰を下ろし、荷台の枠にもたれ掛かって夜空を見上げた。

「でも……ほら、黒髪の素敵な男の姿で現れた天竜様と聖女ウシュリアは、お互いを一目見るなり激しい恋に落ちた、って言うじゃない?」

「それも、吟遊詩人が尾ひれをつけて歌った戯れ歌が、いつのまにか『伝承』として広まっただけ」

 抑揚のない声で淡々と告げるシルルースの顔を呆れたように覗き込むと、ウィアは大きな溜息をこぼした。 

「ちょっと……天竜の巫女が、そんなこと言って良いの?」

「まだ、巫女じゃない。ただの見習い」

 身動きもせず眉間にしわを寄せたまま、もごもごと口だけを動かす少女の姿が、まるで、木の実にかじり付いている尾長イタチのようで、ウィアはこらえ切れずに笑い出してしまった。

「ああ……ごめんね……でも、あんたのその格好……」

 くっくっと肩を震わせて笑い続ける娘の隣で、眉間の皺を一層深くしたシルルースが、突然、低く威圧的な声を絞り出した。

「創世神話の全てが本当のお話だとは限らない。あれは元々、ラスエルクラティアの神官達が大陸の民を啓蒙けいもうするために創り上げたものだから。確かなのは、ラスエルと言う名の聖魔が存在するということ」


 それまで口数も少なくうつむいてばかりいた少女が放った『巫女の声』に、魂をぎゅっと鷲掴みにされたような感覚を覚えて、ウィアはひゅうっと息を呑んで胸元に手を当てると、大きく見開いた琥珀色の瞳をきょろきょろと動かした。

「な、何? 今の……あんたなの、シルルース?」

 困惑するウィアを前にして、少しだけ気まずそうに、少女が薄紫色の瞳を向けた。

「……痛かった? 傷つけないように、出来るだけ抑えたつもりなんだけど」

「へっ……平気よ! ちょっとびっくりしたけど……あんた、そんなだけど『巫女』ってのは本当なのね」

「まだ『見習い』。真面目な話をしているのに、ウィアがあんな風に笑うから……」

 ほんの一瞬、唇を歪めてぎこちなく微笑むと、シルルースはまた、荷台の枠に肘をついて顎を乗せ、少しだけ眉根を寄せた。


 ウィアはその場を取り繕うように、妙に甘い声を出しながらシルルースにもたれ掛かった。

「だから、悪気はなかったんだってば……ねえ、それより、『けい、もう』って、何?」

「純朴で無知な人々を教え導く、と言うこと。『天竜の統べる王国ラスエルクラティア』が大陸の民の心を支配するために創り上げたのが、創世神話」

「ふうん……『せいま』ってのは?」

 シルルースは何かの気配を探るようにほんの少し耳を澄ませると、ウィアの耳元に顔を寄せてささやいた。

「妖魔の中でも、特に力のあるもの達をそう呼ぶの」

「へえ……あんた、小さいくせに、色々と難しいことを知ってるのね」

「小さくない。ウィアより一つ下なだけ」

 機嫌を損ねたように、少女が唇を尖らせる。

「ええっ? 嘘でしょう?」

「嘘じゃない。次の春が来たら十四になるもの」


 シルルースの爪先から頭のてっぺんまで、何度も視線を動かしながら、ウィアは驚きと申し訳ない気持ちで一杯になった。

「嫌だ……てっきり、ずっと年下かと思ってたわ。あんた……その……ちっちゃいから」

「知ってる。ウィアの柔らかくて丸みのある身体に比べたら、私の身体は小さな子供みたいだもの」

 消え入りそうな声でそう告げて、シルルースは両の腕に顔を埋めた。はらり、と波打つ黒髪が流れ落ちて、外衣のように小さな身体を覆い隠した。

 貧しい農村に生まれた盲目の「穀潰ごくつぶし」の子供にまともな食事が与えられないことくらい、ウィアにも容易に察しがついた。幼い頃からとりでの領主に囲われる見返りに十分な食事にありついていた自分が、何故だかとても貪欲どんよくに思えた。

 後ろめたい気持ちに駆られて、ウィアは自分でも驚くほど大きな声を張り上げていた。

「だ……大丈夫よ! あんた、大神殿の巫女見習いになったら、きっと毎日、美味しいものをお腹いっぱい食べさせてもらえるわよ。そうしたら、嫌でもお肉がいっぱいついて、丸っこくて柔らかい、女らしい身体になるんだから!」



『女である前に巫女であることが、お前を守る盾となろう』

 そう言って、郷里の神殿の巫女姫は、文字を読むすべを持たぬ幼い少女に大陸の伝承や「創世神話」を自ら歌って聞かせた。そのままそっくりそらんじるよう厳しく命じては、また新たな歌を口ずさむ……来る日も来る日も、それを繰り返した。真冬の月のように冷たい気配をまとう巫女姫が、何故、そんな風に己の持ち得る知識をそそぎ込もうとするのか知る由もないまま、いつしかシルルースは、いにしえの言葉で書かれた神々の争いごとから戦乱の七王国の世に至るまで、あらゆる時代の神話や伝承を己自身の言葉で事細かに諳んじることが出来るようになっていた。

 神殿に捧げられてから五年の歳月が流れ、「巫女見習い」として大人達からも一目置かれるようになっても、シルルースの身体は「女」になることを拒むかのように幼いままだった。




「別に、ウィアみたいに柔らかくならなくてもいい」

 そう言ったきり、不貞腐れたように顔を埋めたまま動こうとしないシルルースに、ウィアがしびれを切らした頃。一仕事終えたらしいレイスヴァーンがようやく姿を現した。

 荷馬車に取り残されていたウィアとシルルースを大釜の掛けられた焚き火の前まで連れて行くと、炊事を任されているらしい傭兵に声を掛けた。辺りには食欲をそそる芳ばしい匂いが漂っている。

「食事が終わったら、そこの天幕で眠ればいい」

 湯気の立ち昇るスープの器を受け取って地面にしゃがみ込んだシルルースをよそに、指し示された天幕を覗き込んだウィアが、ぎょっとした様子でレイスヴァーンを振り返った。

「ねえ、ちょっと! 男の子達と一緒の天幕で寝ろって言うの?」

「傭兵と同じ天幕よりは良いだろう? 大所帯なんだ、我慢してくれ」

 何食わぬ顔でそう告げると、レイスヴァーンはその場を離れようとした。

「待ちなさいよ! シルルースはどうするのよ! 『巫女見習い』に万が一のことがあったら、あんたの責任なんでしょう? 夜中に男の子達が変な気を起こして、この子を襲うなんてことになったらどうするつもり?」

 昼間、巨躯で知られるアシャムを殴り倒した赤い髪の傭兵に食って掛かる娘の金切り声に、周りにいた男達が、一瞬、ぎょっとして動きを止めた。レイスヴァーンは表情一つ変えずに、気にするな、と目配せして、自分の胸程の高さしかない娘の視線に合わせるように屈み込むと、不敵な笑みを浮かべた。

「有り得んな。天幕の外には夜番の傭兵が居る。おかしな物音が聞こえた時点で、お前達全員が叩き起こされるだけのことさ。あるいは……」

 野営地の中程に視線を移して、翼ある青い竜の天幕を指差しながら、言葉を続ける。

「シルルース、お前は『箱』の子供らと、あの天幕で眠っても良いんだぞ」

「ちょっと待ってよ! 私達、ラスエルクラティアに着くまでずっと一緒に居るって決めたのよ! この子があそこに行くなら、私も一緒に……!」


 突然、それまで、頭上で二人が言い争うのも気にせず温かいスープを頬張っていたシルルースが、手にしていた器を滑り落としてふらりと立ち上がり、ふるふると首を横に振りながらウィアにしがみついた。

「ウィア、駄目……あそこは、いやなの」

 


『……何か、邪悪なものが居るの』


 あの時、何かにおびえながら震える声で少女が囁いた言葉が、ゆっくりとレイスヴァーンの脳裏によみがえった。と、同時に、言いようのない感情が、胸の奥で嵐のように荒れ狂い始める。


 ああ、まただ……


 この少女を守ってやらねばという思いが、心の底から無性に込み上げてくる。何故そんな風に思うのか見当もつかぬまま、不思議な焦燥感に駆り立てられて、レイスヴァーンは喉の奥から鋭い音を立てて息を吐き出した。

 この隊列に加わっている全ての傭兵が、「捧げもの」の中でも特別な「巫女見習い」を命懸けで守るよう命じられている。雇い主であるラスエルクラティアの大神殿との契約に縛られている限り、誰もが同じように感じているはずだ。それだけのことだ。

 それなのに……小さな身体を震わせながら、助けを求めて駆け寄って来た少女の姿が脳裏を離れない。


「好きにしろ。俺もこの天幕の夜番にたつ。他に数名、見張りがつくから、逃げ出そうなどと思うなよ、シルルース」

 努めて冷ややかな声で告げると、レイスヴァーンは心の中に湧き上がる混沌とした感情を少女に悟られまいと、その場を後にした。

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