愛しいひと

 扉の隙間から差し込む夜明けの淡い光に、キリアンはまぶしそうに目を細めた。


 不安と緊張で張り詰めた若者の心が、朝の空気をぴりぴりと震えさせている。無理もない。王都軍の騎兵に殺されかけながら、なんとか逃げ延びたというのに、今また彼らに見つかれば、今度こそ確実に命を奪われるだろう……

 戦士と呼ぶには小さすぎる背中に優しく触れてやりたい衝動に駆られながら、同情や憐れみは若者の心をむしばむだけだと思い直して、シルルースは差し出した手を静かに引き戻した。

「早く行きなさい、キリアン。剣を持つ者が、己の心が生み出した恐怖に呑まれてどうするの?」

 優しさの欠片かけらも感じさせない言葉が小さなとげとなって、若者の心を傷つける。全ては、この場所を懐かしむ想いをいだかせぬために。二度と此処ここには戻るまいと心に誓わせるために。一刻も早く、この心優しい若者を逃すために……この手で救った命が奪われる前に。

「水の乙女達のれも長くは持たないわ……さあ、早く」


 小さな両手に押し出されるようにして扉をくぐり抜けると、キリアンは恐る恐る辺りを見回した。まだ、追っ手には気づかれていないようだ。おとりになってくれた精霊達を思うと胸が痛むが、無邪気な彼女達のことだ。存外、人間の男達を相手に「悪戯いたずら」を楽しんでいるのかもしれない。

 心を決めて一歩踏み出した矢先、目の前の空間が、ぐらりと大きく揺らいだ。まるで虚空から溶け出すかのように姿を現した黒髪の妖魔が、ぎょっとして立ち止まったキリアンの行く手を塞いだ。


 歩き出したはなから動きを止めた若者の背に思い切り顔をぶつけて、シルルースは片手で顔を覆い、くぐもった声で呪いの言葉を吐いた。

「……ザルティス、術師の気を引きつけておいてとお願いしたはずよね?」

 娘の苛立ちなど気にもせず、ザルティスは開け放たれた扉に手を置くと、音を立てないようにそっと閉じた。

「その術師がアズラエリの名を呼んだ。途端に、結界に亀裂が生じてな。騎兵達は既に結界の内側に入り込んでいる」

 見る間に表情を強張こわばらせた娘が、すかさず妖魔に駆け寄って、大きな胸元目掛けてこぶしを振り上げた。

「アズラエリ……?」

 聞き慣れない名を口にしたキリアンの声が、かすかに震えている。ザルティスは小さな拳を軽々と受け止めると、娘を腕の中に引き寄せた。

「大神官ハルティエンを守護する聖魔だ」

 妖魔の言葉に、若者は首を傾げた。 

「ええと……勉強不足で本当に申し訳ないのだけれど……聖魔って?」

 ぴくり、と娘が肩を震わせ、深いため息を吐く。

「呆れた。大陸の創世神話もまともに覚えていないの? そんなだから『大神殿の護衛は極上の穀潰し』などと言われるのよ」

 それくらいにしておけ、とでも言いたげに、ザルティスの指が娘の唇をするりと撫で上げた。わずらわしそうに大きな手を押しのける娘を抱きしめたまま、顔を真っ赤に染めた若者をいたわるように、ザルティスは穏やかな声で言葉を紡いでいく。

「高位の妖魔、と言えば分かるか? 妖魔の中でも特に強大な力を持ち、ラスエルのめいを受けて人の世に留まるものを、そう呼ぶのだよ。しかし、生真面目なあの御方が一介の術師に手を貸すとは……娘よ、妙だとは思わんか?」


 大陸の民が神と崇める「聖なる天竜ラスエル」の代弁者として神性を生きる大神官は、俗世を離れた存在だ。己の意思を伝える『器』であるハルティエンに危害が及ばぬよう、天竜が遣わした聖魔アズラエリも「妖魔は必要以上に人の世に関わるべからず」と言う天の掟に縛られている。常ならば、この二人が大神殿の不始末にわざわざ干渉するなど、あり得ない。


 しばらくの間、眉をひそめて考え込んでいたシルルースが、ふと虚空を見上げて、かすれがちの声でささやいた。

「ハルティエン様の命を受けてアズラエリ様が動いたのだとしたら……おそらく、キシルリリ様も関わっているわ」


 あの方のことだから、今この瞬間も水鏡を覗き込みながら、悪巧みを思いついた子供のように薄笑いを浮かべているに決まっているわ……


「とにかく、ハルティエン様のご命令なら、騎兵達があなたを傷つけることはないと思う。あの方は、例え罪人つみびとであろうと大陸の民の血が流れるのを良しとしないのよ。そういうことだから、キリアン、大人しく彼らに捕まりなさい」

 娘の思いがけない言葉に、キリアンは助けを求めるように黒い妖魔に視線を向けた。ザルティスは苦笑いを浮かべながら首を横に振る。

「大神殿の内情についてはシルルースの方が通じているのでな……娘よ、騎兵がこちらに近づいているぞ」


 シルルースは耳を澄ませると、露骨に不快な表情を浮かべた。

 いつの間にか、水の乙女達の歌声は不自然に吹きすさぶ風の音に掻き消されている。風の精霊達は深々と項垂うなだれたまま辺りを駆け抜けていく。その姿はまるで、他の誰かになびいてしまった弱さを恥じるかのようだ。気まぐれな精霊を捕らえて自在に操るのは容易なことではない。「精霊の落とし子」と呼ばれるシルルースでさえ、全ての精霊と心を通じ合えるわけではないのだ。

 風の精霊達を縛っているのが王都軍の術師だとしたら……

「厄介だわ」

 面倒臭そうにつぶやくと、妖魔の腕をすり抜けて若者に近寄り、早鐘のように鼓動を打つ胸の上にそっと手を置いた。

「ねえ、キリアン。大神官と巫女姫があなたをご所望なの。どうしてかしら?」

 人の子ならぬ奇妙な輝きを宿す薄紫色の瞳に見つめられて、キリアンは思わず目を逸らした。「異界を覗き見る」その瞳に、心の奥底まで覗かれてしまうような気がしたからだ。

「あなたが『殺した』のは、一体、何だったのかしら?」

 娘の言葉が、あの時の光景を鮮やかに蘇えらせた。



 血の海に横たわる女の、無残に引き裂かれた腹の中で何かがうごめいている。ずるりと這い出した「それ」が、金色の獣の瞳をこちらに向ける。息絶えた女と寸分違わぬ顔に歪んだ微笑みを浮かべた「それ」は、口元に光る鋭い牙から赤黒いよだれを滴らせながら……



 キリアンが声にならない悲鳴を上げて、その場にうずくまった。と同時に、小川の方から悲壮な叫び声と水面をばしゃばしゃと叩くような音が響いた。

 ザルティスと互いに顔を見合わせて小さくうなずくと、シルルースは震えの止まらない若者の髪にそっと手を置いて、くしゃりと撫でた。

「幻なんかに囚われて……しょうがない子ね」

 はあっ、と息を呑んだ若者が涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。憐れむような薄紫色の瞳と目があった途端、娘は小さな両手を伸ばして若者の頬をそっと包み込んだ。

「キリアン、騎兵達に抵抗しては駄目よ。剣を捨てて、大人しく捕まりなさい。良いわね?」

 小さな弟に言い聞かせるような口調でそう告げると、シルルースは黒い妖魔に駆け寄って、その腕の中に飛び込んだ。


 うずくまって動けぬまま、キリアンは二人の姿が虚空の裂け目に吸い込まれて消えるのを見つめていた。



***



 水の中に引きずり込まれて姿を消したのは四人。ティシュトリア領内から潜入するはずだった騎兵の半数を失ってしまった。


 アルコヴァルと共に「妖術師の王国」スェヴェリス侵攻を押し進めるティシュトリアは、他国の術師が領内に入り込むことを禁じている。ラスエルクラティアの大神官の勅命と言えど、領内を通り抜ける騎兵達に王都軍の術師を随行させることは許されなかった。独自の判断で行動することをギイに叩き込まれている騎兵達は、動揺する素振りも見せずに国境を越えていった。

 ……結果が、このざまだ。

 レイスヴァーンは、ぎりりと歯軋りをして水面に目をやると、ハーランが止めるのもお構いなしに、精霊達の気を引きつけようと、わざと大きな音を立てて小川に足を踏み入れた。

 途端に、そこに居るはずのない女の声がするりと耳朶を撫でた。

『すまぬな、レイス。時間切れだ』


 瞬く間に、身体を覆っていた銀色のまゆが、はらりとほどけて、夜明けの光を受けてかすかにきらめきながら水面へとこぼれ落ちていく……

 腰の辺りまで水に浸かったまま、レイスヴァーンは喉の奥から怒りに駆られた獣のようなうなり声を上げて岸辺を振り返った。

「ハーラン! 騎兵達に手を貸してやれ」

 途方に暮れて立ち尽くす術師の若者に大声で命じる間にも、巫女姫の結界は、ぼろぼろと崩れ落ち、やがてふっつりと消えた。

「この期に及んで……冗談も大概にしろよ、キシルリリ」

 レイスヴァーンの苛立ちをあざけるように、ゆらりと揺れた水面みなもに青灰色の瞳の女の顔が浮かび上がった。

『水鏡越しに結界を張り続けるのは、さすがに骨が折れるのだよ』

 水面を睨みつける男の姿に、キシルリリが冷ややかに微笑む。

『ここから先は、お前の本領発揮と言ったところか。精霊を傷つけずに如何にして水底みなそこに沈んだ騎兵どもを取り戻すか……見ものだな、レイスヴァーン。傭兵の血が騒ぐだろう?』

「御託はもういい……消えろ!」

 手にしていた長剣で水面を打った瞬間、ハーランの叫び声が聞こえた。刹那、尋常でない力に両足をすくわれ、あっという間に水の中に引きずり込まれた。



 ごぼごぼと大きな泡が口元から立ち昇る。

 身体中に絡みつく無数の青白い腕の、ぬめぬめとした感触に、レイスヴァーンは心の中でありったけの呪いの言葉を吐きながら、どうにかして長剣を引き抜こうともがき続けた。


『精霊達が傭兵を恐れるのは、血の匂いがするからなの。彼らは何より「けがれ」を嫌うから』


 息を継ぐことさえ出来ぬまま、少しずつ遠のく意識の中で、レイスヴァーンは懐かしい声を聴いたような気がした。その声に誘われるまま、長剣の刃に左の親指の腹を押し当てると、紅い花びらが散るように水中を舞う己の血を見つめながら、肺の中に残っていた最後の息を、ごぼりと吐き出した。

 護符の剣を握りしめるこぶしに絡みついていた巫女姫の呪詛が、薄闇色の生き物のように、ぬらり、と水中で身を捩る。と、獲物を逃すまいとするかの如き早さで指先から流れ出る鮮血と混じり合い、身体の周りをゆらゆらと漂い始めた……と、それまでレイスヴァーンを捕らえていた青白い腕が、するりと離れた。

 赤く染まった呪詛に包まれて、ふわりと浮いた男の身体の周りを、精霊達はなおもあきらめきれぬように泳ぎ回っている。その姿をぼんやりと眺めながら、レイスヴァーンは朱に染まった指先を陽の光が揺れる水面へと必死に伸ばした。


 

 水面に浮き上がった瞬間、新鮮な空気を急激に吸い込んだ肺が悲鳴を上げ、激しく咳き込んだ。

 水面に浮いたまま、なんとか落ち着きを取り戻して水底を覗き込むと、青白い女達が恨めしそうな顔でこちらを見上げている。どうやら、流した血と長剣の呪詛が結界となって精霊達をはばんでいるらしい。

 ふと、何かに気づいたかのように目を凝らして大きく息を吸い込むと、レイスヴァーンは勢いをつけてもう一度水中に身を沈めた。呪詛に絡め取られまいと身体をうねらせながら流れを漂う女達から少し離れた場所で、群れに追いつこうと必死に泳ぐ小さな影に強靭な腕を伸ばす……


 突然現れた人の子に銀色の長い髪を鷲掴みにされ、羽交い絞めにされて身動きの取れなくなった幼い精霊が、恐怖の叫び声を上げた。

 助けを求める幼な子の悲鳴に気づいた女達が、怒り狂ったようにレイスヴァーンの後を追いかけて浮上を始めた。が、血の結界に阻まれて手出しが出来ぬまま、幼な子を引きずるように腕に抱えて浅瀬に逃れた男に威嚇の声をあげるのが精一杯だった。


「良い子だから落ち着いてくれ。お前を傷つけるつもりはないんだ」

 腕の中で暴れる幼い精霊をなだめようと、レイスヴァーンは穏やかな声で話しかけた。どうにか逃れようと身体をひねらせてもがく度に、小さな身体からぼろぽろと虹色のうろこが零れ落ちる。それがあまりにも痛々しくて、思わず優しく抱きしめた。

「頼むから暴れないでくれ。すぐに自由にしてやるから……」

 次第に、腕の中であらがう力が弱まり、悲鳴も上げなくなった。ぐったりとした精霊の身体が小川の水から出ぬように、横抱きにして浅瀬に腰掛けると、小さな吐息が聞こえた。水面に顔を出した女達が遠巻きにこちらを見つめている。


「なあ、お前達だって、仲間を奪われれば悲しいだろう?」

 果たして、彼らに人の言葉が通じるのだろうか……そんな不安が頭をよぎりながらも、遠い昔、精霊達に語りかける盲目の娘の姿を初めて見た日の驚きを思い出しながら、レイスヴァーンは静かに言葉を継いだ。

「お前達が水の中に引き込んだ俺の仲間を返してくれ。そうすれば、この子を返してやる。あいつらの身体を玩具おもちゃ代わりにもてあそぶつもりなら、この子はにえとしてスェヴェリスの巫女姫にくれてやる……さあ、どうする?」

 恐る恐る浅瀬に近づいてくる精霊達が、スェヴェリスの名を聞いた途端に、ひいっと小さな悲鳴を上げた。

「頼む、三人を返してくれ。精霊よ、お前達の子は必ず水の中に戻す。だから、お願いだ……人の子を地上に戻してくれ」

 


***



 瘴気を吸い込まぬようにザルティスの胸に顔を埋めて「狭間」を通り抜けたシルルースが降り立ったのは、水車のある岸辺から少し離れた岩場だった。ザルティスに腕を取られて岩陰に身を隠すと、上空を駆け抜ける風の精霊達に優しくささやきかけた。

「ほんの少しだけ、あなた達の目を借して」



 腰の辺りまで小川に浸かった赤毛の男が、虹色に光る何かを大切そうに両腕で抱えていた。その先の流れに、精霊達が身を寄せ合うようにして漂っている。やがて、男の腕から解き放たれた小さな幼な子を優しい歌声と共に迎え入れた精霊達が、静かに水底へと姿を消した。

 岸辺では、大きすぎるローブを身体に巻きつけた青年が、震える両の手のひらを天に向けたまま、足元に横たわる男達に「失われた魂の祈り」を捧げていた。その声にひそむ身を切るような悲しみに心をつらぬかれて、シルルースは小さなうめき声を上げた。ザルティスの腕の中にいなければ、岩場に崩れ落ちていただろう。

「騎兵達の亡骸か。水の乙女達も戯れが過ぎたようだな……娘よ、一人で立てるか?」

「平気。ねえ、あれが王都軍の術師なの? まだほんの子供じゃない」

 身体を支えてくれる暖かな腕から抜け出すと、シルルースは小川の浅瀬にたたずむ男に意識を向けた。

「あまり近づくでないぞ。あれは妖獣狩人だ」

 苦々しい声でささやくザルティスに「大丈夫」と短く告げて、もう一度、意識を集中させる……


 血の匂いがする。『魔の系譜』のではなく、人の子の、むせかえるような血の匂い。

 妖獣狩人? いいえ、違う……あれは、傭兵だわ。それも、かなり手練れの。


 

 ばしゃり、ばしゃりと大きな水音を立てながら岸に上がったその男は、地面に横たえられた者達のそばにひざまずきこうべを垂れると、神妙な面持ちで祈りの儀式に加わった。その優雅で洗練された仕草が、男がただの傭兵ではないことを物語っている。おそらく、高貴な血筋の生まれなのだろう。大神殿に仕える護衛ならば特に珍しくもないが。


 ふと、心の奥底に封印したはずの記憶に触れられた気がして、シルルースは首を傾げた。男がまとう血の匂いに混じって、わずかに甘い香りが辺りに漂っていたからだ。

 娘の心を覗き見た風の精霊達が、かすかに残る甘い香りを選り分けて絡め取り、抱えきれぬほどの花束にして娘の頭上にふわりと落とした。懐かしい日々を思い出させる不思議な香りに包まれて、娘の震える唇から熱い吐息が漏れる。



 ああ、この香り……

 

「……ヴァンレイ?」


 今でも時々、夢の中でその名を呼んでしまう。ザルティスの腕の中で眠る夜でさえも。

 ……馬鹿ね。あの人は私を置いて、二度と戻って来なかったのに。





 精霊の子を水に返して岸に戻ると、ハーランが既にとむらいの儀式を始めていた。向こう岸から無事に小川を渡り切った騎兵達が、犠牲になった者達の衣服の乱れを整えて、野に咲く可憐な花を手向けていく。

 祈りを捧げた後、レイスヴァーンは変わり果てた男達の姿を呆然と見下ろして、深いため息を吐いた。厄介ごとにばかり巻き込まれる自分の性分に、ほとほと嫌気が差した。自分を信じて兵を預けてくれたギイに、何とびたら良いのだろう……そう思いながらも、心の中で言い訳を探す自分自身に呆れ果てながら。


 ひとまず、家族の元へ亡骸を送り届けるために馬車を手に入れよう。ティシュトリア側の岸辺にわだちの跡があったと騎兵の一人が言っていたから、近くに村があるはずだ。

「厄介だな……」

 キリアンという名の元護衛を捕らえに向かった騎兵達は、まだ戻らない。

 アルコヴァルの北の砦を預かる領主の実弟ともなれば、高位の貴族だ。貴族の子弟ならば、ある程度の剣術の心得はあるはずだが、ギイに言わせれば『剣の腕前は、四つになる俺の息子にも及ばんらしい』のだとか。

「……王都軍の精鋭を相手に、剣を振るうような馬鹿な真似はしてくれるなよ」

 傷つけずに連れ帰ることが出来なければ、これまた厄介なことになる。

 頭の中を駆け巡る雑念を蹴散らすように、レイスヴァーンは赤い髪をがしがしと搔くと、すっかり明るくなった空を見上げて声を漏らした。

「野の獣も追い詰められれば何をしでかすか分からんからな。とりあえず、様子を見に……」

 突然、ぞくり、と身震いして、レイスヴァーンは咄嗟に剣の柄に手を置いた。なんとも言えない重圧感と凍えるような視線を感じた先に視線を向けて、目を凝らす。


 いつのまに現れたのか、長い黒髪を風になびかせながら、男が一人こちらを見つめていた。大きな翼が上衣のように身体を覆っている。

 地面にひざまずいて祈りを捧げていたハーランは、恐怖に凍りついて動けないようだ。

「レイスヴァーン殿……妖魔です。しかも、あの翼……かなり高位の……」

 おびえきった様子の青年の肩にそっと手を置いて、ちっと舌打ちをする。

「分かっているさ。あいつ、いつからあそこに居たんだ? 全く気配を感じなかったが……」

 漆黒の翼がふわりと揺れた。よく見れば、腕の中に小柄な女を抱えている。何事か妖魔に告げる素振りをした女が、ゆっくりとこちらに向かって足を踏み出した。

 少し癖のある豊かな黒髪が風に舞う姿に、レイスヴァーンの鼓動が高まった。

 

 ……嘘だろう?


 言葉にならない騒めきが心の中にあふれ出して、レイスヴァーンは呆然とその場に立ち尽くした。

 薄紫色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。


 ……いや、違う。

 人の世を見つめる瞳を持たぬ彼女のことだ。気配を感じ取ろうとしているのだろう。心に秘めた想いさえ、彼女の前では隠しようもないことを、いつの間にか忘れてしまっていた。

 最後にあのはかなげな姿を目にしたのは、いつのことだったろう?

 



「……ヴァンレイ?」


 戸惑いがちに呼ばれたのは、母からもらったもう一つの名だ。母が亡くなった今となっては、その名で自分を呼ぶのは、この世界にたった一人しかいない。

 全てを捧げて守ると誓ったはずなのに、この手をすり抜けて、姿を消してしまった愛しいひと


「シルルース」



 あれほど探しても見つからなかったというのに。

 こんなにも近くに居たなんて。

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