愛しいひと
扉の隙間から差し込む夜明けの淡い光に、キリアンは
不安と緊張で張り詰めた若者の心が、朝の空気をぴりぴりと震えさせている。無理もない。王都軍の騎兵に殺されかけながら、なんとか逃げ延びたというのに、今また彼らに見つかれば、今度こそ確実に命を奪われるだろう……
戦士と呼ぶには小さすぎる背中に優しく触れてやりたい衝動に駆られながら、同情や憐れみは若者の心を
「早く行きなさい、キリアン。剣を持つ者が、己の心が生み出した恐怖に呑まれてどうするの?」
優しさの
「水の乙女達の
小さな両手に押し出されるようにして扉をくぐり抜けると、キリアンは恐る恐る辺りを見回した。まだ、追っ手には気づかれていないようだ。
心を決めて一歩踏み出した矢先、目の前の空間が、ぐらりと大きく揺らいだ。まるで虚空から溶け出すかのように姿を現した黒髪の妖魔が、ぎょっとして立ち止まったキリアンの行く手を塞いだ。
歩き出した
「……ザルティス、術師の気を引きつけておいてとお願いしたはずよね?」
娘の苛立ちなど気にもせず、ザルティスは開け放たれた扉に手を置くと、音を立てないようにそっと閉じた。
「その術師がアズラエリの名を呼んだ。途端に、結界に亀裂が生じてな。騎兵達は既に結界の内側に入り込んでいる」
見る間に表情を
「アズラエリ……?」
聞き慣れない名を口にしたキリアンの声が、
「大神官ハルティエンを守護する聖魔だ」
妖魔の言葉に、若者は首を傾げた。
「ええと……勉強不足で本当に申し訳ないのだけれど……聖魔って?」
ぴくり、と娘が肩を震わせ、深いため息を吐く。
「呆れた。大陸の創世神話もまともに覚えていないの? そんなだから『大神殿の護衛は極上の穀潰し』などと言われるのよ」
それくらいにしておけ、とでも言いたげに、ザルティスの指が娘の唇をするりと撫で上げた。
「高位の妖魔、と言えば分かるか? 妖魔の中でも特に強大な力を持ち、ラスエルの
大陸の民が神と崇める「聖なる
しばらくの間、眉をひそめて考え込んでいたシルルースが、ふと虚空を見上げて、
「ハルティエン様の命を受けてアズラエリ様が動いたのだとしたら……おそらく、キシルリリ様も関わっているわ」
あの方のことだから、今この瞬間も水鏡を覗き込みながら、悪巧みを思いついた子供のように薄笑いを浮かべているに決まっているわ……
「とにかく、ハルティエン様のご命令なら、騎兵達があなたを傷つけることはないと思う。あの方は、例え
娘の思いがけない言葉に、キリアンは助けを求めるように黒い妖魔に視線を向けた。ザルティスは苦笑いを浮かべながら首を横に振る。
「大神殿の内情についてはシルルースの方が通じているのでな……娘よ、騎兵がこちらに近づいているぞ」
シルルースは耳を澄ませると、露骨に不快な表情を浮かべた。
いつの間にか、水の乙女達の歌声は不自然に吹き
風の精霊達を縛っているのが王都軍の術師だとしたら……
「厄介だわ」
面倒臭そうに
「ねえ、キリアン。大神官と巫女姫があなたをご所望なの。どうしてかしら?」
人の子ならぬ奇妙な輝きを宿す薄紫色の瞳に見つめられて、キリアンは思わず目を逸らした。「異界を覗き見る」その瞳に、心の奥底まで覗かれてしまうような気がしたからだ。
「あなたが『殺した』のは、一体、何だったのかしら?」
娘の言葉が、あの時の光景を鮮やかに蘇えらせた。
血の海に横たわる女の、無残に引き裂かれた腹の中で何かが
キリアンが声にならない悲鳴を上げて、その場にうずくまった。と同時に、小川の方から悲壮な叫び声と水面をばしゃばしゃと叩くような音が響いた。
ザルティスと互いに顔を見合わせて小さく
「幻なんかに囚われて……しょうがない子ね」
はあっ、と息を呑んだ若者が涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。憐れむような薄紫色の瞳と目があった途端、娘は小さな両手を伸ばして若者の頬をそっと包み込んだ。
「キリアン、騎兵達に抵抗しては駄目よ。剣を捨てて、大人しく捕まりなさい。良いわね?」
小さな弟に言い聞かせるような口調でそう告げると、シルルースは黒い妖魔に駆け寄って、その腕の中に飛び込んだ。
うずくまって動けぬまま、キリアンは二人の姿が虚空の裂け目に吸い込まれて消えるのを見つめていた。
***
水の中に引きずり込まれて姿を消したのは四人。ティシュトリア領内から潜入するはずだった騎兵の半数を失ってしまった。
アルコヴァルと共に「妖術師の王国」スェヴェリス侵攻を押し進めるティシュトリアは、他国の術師が領内に入り込むことを禁じている。ラスエルクラティアの大神官の勅命と言えど、領内を通り抜ける騎兵達に王都軍の術師を随行させることは許されなかった。独自の判断で行動することをギイに叩き込まれている騎兵達は、動揺する素振りも見せずに国境を越えていった。
……結果が、このざまだ。
レイスヴァーンは、ぎりりと歯軋りをして水面に目をやると、ハーランが止めるのもお構いなしに、精霊達の気を引きつけようと、わざと大きな音を立てて小川に足を踏み入れた。
途端に、そこに居るはずのない女の声がするりと耳朶を撫でた。
『すまぬな、レイス。時間切れだ』
瞬く間に、身体を覆っていた銀色の
腰の辺りまで水に浸かったまま、レイスヴァーンは喉の奥から怒りに駆られた獣のような
「ハーラン! 騎兵達に手を貸してやれ」
途方に暮れて立ち尽くす術師の若者に大声で命じる間にも、巫女姫の結界は、ぼろぼろと崩れ落ち、やがてふっつりと消えた。
「この期に及んで……冗談も大概にしろよ、キシルリリ」
レイスヴァーンの苛立ちを
『水鏡越しに結界を張り続けるのは、さすがに骨が折れるのだよ』
水面を睨みつける男の姿に、キシルリリが冷ややかに微笑む。
『ここから先は、お前の本領発揮と言ったところか。精霊を傷つけずに如何にして
「御託はもういい……消えろ!」
手にしていた長剣で水面を打った瞬間、ハーランの叫び声が聞こえた。刹那、尋常でない力に両足を
ごぼごぼと大きな泡が口元から立ち昇る。
身体中に絡みつく無数の青白い腕の、ぬめぬめとした感触に、レイスヴァーンは心の中でありったけの呪いの言葉を吐きながら、どうにかして長剣を引き抜こうともがき続けた。
『精霊達が傭兵を恐れるのは、血の匂いがするからなの。彼らは何より「
息を継ぐことさえ出来ぬまま、少しずつ遠のく意識の中で、レイスヴァーンは懐かしい声を聴いたような気がした。その声に誘われるまま、長剣の刃に左の親指の腹を押し当てると、紅い花びらが散るように水中を舞う己の血を見つめながら、肺の中に残っていた最後の息を、ごぼりと吐き出した。
護符の剣を握りしめる
赤く染まった呪詛に包まれて、ふわりと浮いた男の身体の周りを、精霊達はなおも
水面に浮き上がった瞬間、新鮮な空気を急激に吸い込んだ肺が悲鳴を上げ、激しく咳き込んだ。
水面に浮いたまま、なんとか落ち着きを取り戻して水底を覗き込むと、青白い女達が恨めしそうな顔でこちらを見上げている。どうやら、流した血と長剣の呪詛が結界となって精霊達を
ふと、何かに気づいたかのように目を凝らして大きく息を吸い込むと、レイスヴァーンは勢いをつけてもう一度水中に身を沈めた。呪詛に絡め取られまいと身体をうねらせながら流れを漂う女達から少し離れた場所で、群れに追いつこうと必死に泳ぐ小さな影に強靭な腕を伸ばす……
突然現れた人の子に銀色の長い髪を鷲掴みにされ、羽交い絞めにされて身動きの取れなくなった幼い精霊が、恐怖の叫び声を上げた。
助けを求める幼な子の悲鳴に気づいた女達が、怒り狂ったようにレイスヴァーンの後を追いかけて浮上を始めた。が、血の結界に阻まれて手出しが出来ぬまま、幼な子を引きずるように腕に抱えて浅瀬に逃れた男に威嚇の声をあげるのが精一杯だった。
「良い子だから落ち着いてくれ。お前を傷つけるつもりはないんだ」
腕の中で暴れる幼い精霊をなだめようと、レイスヴァーンは穏やかな声で話しかけた。どうにか逃れようと身体を
「頼むから暴れないでくれ。すぐに自由にしてやるから……」
次第に、腕の中で
「なあ、お前達だって、仲間を奪われれば悲しいだろう?」
果たして、彼らに人の言葉が通じるのだろうか……そんな不安が頭を
「お前達が水の中に引き込んだ俺の仲間を返してくれ。そうすれば、この子を返してやる。あいつらの身体を
恐る恐る浅瀬に近づいてくる精霊達が、スェヴェリスの名を聞いた途端に、ひいっと小さな悲鳴を上げた。
「頼む、三人を返してくれ。精霊よ、お前達の子は必ず水の中に戻す。だから、お願いだ……人の子を地上に戻してくれ」
***
瘴気を吸い込まぬようにザルティスの胸に顔を埋めて「狭間」を通り抜けたシルルースが降り立ったのは、水車のある岸辺から少し離れた岩場だった。ザルティスに腕を取られて岩陰に身を隠すと、上空を駆け抜ける風の精霊達に優しく
「ほんの少しだけ、あなた達の目を借して」
腰の辺りまで小川に浸かった赤毛の男が、虹色に光る何かを大切そうに両腕で抱えていた。その先の流れに、精霊達が身を寄せ合うようにして漂っている。やがて、男の腕から解き放たれた小さな幼な子を優しい歌声と共に迎え入れた精霊達が、静かに水底へと姿を消した。
岸辺では、大きすぎるローブを身体に巻きつけた青年が、震える両の手のひらを天に向けたまま、足元に横たわる男達に「失われた魂の祈り」を捧げていた。その声に
「騎兵達の亡骸か。水の乙女達も戯れが過ぎたようだな……娘よ、一人で立てるか?」
「平気。ねえ、あれが王都軍の術師なの? まだほんの子供じゃない」
身体を支えてくれる暖かな腕から抜け出すと、シルルースは小川の浅瀬に
「あまり近づくでないぞ。あれは妖獣狩人だ」
苦々しい声で
血の匂いがする。『魔の系譜』のではなく、人の子の、むせかえるような血の匂い。
妖獣狩人? いいえ、違う……あれは、傭兵だわ。それも、かなり手練れの。
ばしゃり、ばしゃりと大きな水音を立てながら岸に上がったその男は、地面に横たえられた者達のそばにひざまずき
ふと、心の奥底に封印したはずの記憶に触れられた気がして、シルルースは首を傾げた。男がまとう血の匂いに混じって、
娘の心を覗き見た風の精霊達が、
ああ、この香り……
「……ヴァンレイ?」
今でも時々、夢の中でその名を呼んでしまう。ザルティスの腕の中で眠る夜でさえも。
……馬鹿ね。あの人は私を置いて、二度と戻って来なかったのに。
精霊の子を水に返して岸に戻ると、ハーランが既に
祈りを捧げた後、レイスヴァーンは変わり果てた男達の姿を呆然と見下ろして、深いため息を吐いた。厄介ごとにばかり巻き込まれる自分の性分に、ほとほと嫌気が差した。自分を信じて兵を預けてくれたギイに、何と
ひとまず、家族の元へ亡骸を送り届けるために馬車を手に入れよう。ティシュトリア側の岸辺に
「厄介だな……」
キリアンという名の元護衛を捕らえに向かった騎兵達は、まだ戻らない。
アルコヴァルの北の砦を預かる領主の実弟ともなれば、高位の貴族だ。貴族の子弟ならば、ある程度の剣術の心得はあるはずだが、ギイに言わせれば『剣の腕前は、四つになる俺の息子にも及ばんらしい』のだとか。
「……王都軍の精鋭を相手に、剣を振るうような馬鹿な真似はしてくれるなよ」
傷つけずに連れ帰ることが出来なければ、これまた厄介なことになる。
頭の中を駆け巡る雑念を蹴散らすように、レイスヴァーンは赤い髪をがしがしと搔くと、すっかり明るくなった空を見上げて声を漏らした。
「野の獣も追い詰められれば何をしでかすか分からんからな。とりあえず、様子を見に……」
突然、ぞくり、と身震いして、レイスヴァーンは咄嗟に剣の柄に手を置いた。なんとも言えない重圧感と凍えるような視線を感じた先に視線を向けて、目を凝らす。
いつのまに現れたのか、長い黒髪を風になびかせながら、男が一人こちらを見つめていた。大きな翼が上衣のように身体を覆っている。
地面にひざまずいて祈りを捧げていたハーランは、恐怖に凍りついて動けないようだ。
「レイスヴァーン殿……妖魔です。しかも、あの翼……かなり高位の……」
「分かっているさ。あいつ、いつからあそこに居たんだ? 全く気配を感じなかったが……」
漆黒の翼がふわりと揺れた。よく見れば、腕の中に小柄な女を抱えている。何事か妖魔に告げる素振りをした女が、ゆっくりとこちらに向かって足を踏み出した。
少し癖のある豊かな黒髪が風に舞う姿に、レイスヴァーンの鼓動が高まった。
……嘘だろう?
言葉にならない騒めきが心の中に
薄紫色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。
……いや、違う。
人の世を見つめる瞳を持たぬ彼女のことだ。気配を感じ取ろうとしているのだろう。心に秘めた想いさえ、彼女の前では隠しようもないことを、いつの間にか忘れてしまっていた。
最後にあの
「……ヴァンレイ?」
戸惑いがちに呼ばれたのは、母から
全てを捧げて守ると誓ったはずなのに、この手をすり抜けて、姿を消してしまった愛しい
「シルルース」
あれほど探しても見つからなかったというのに。
こんなにも近くに居たなんて。
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