水の戯れ

 水車小屋のある岸辺を取り囲むようにゆるやかな弧を描きながら、その小川は「くらき森」に沿って蛇行を続け、ラスエルクラティアとティシュトリアの間に自然の境界線を形作っていた。

 先程まで居た森の外れからは小屋の陰に隠れて見えなかったが、のきの下からり出した水車は思った以上に大きく、ぎいぎい、ごとん、と低く心地い律動を刻みながら、豊かな水の流れに身を任せてゆったりと回っている。聖なる森の片隅にぽつんとたたずむ木造りの小屋の周りだけ、時の流れから取り残されているかのようだ。


 辺りに響き渡る騎兵達の悲壮な叫び声と、それに絡みつくように漂う不思議な歌声に導かれながら、レイスヴァーンは小川の手前で足を止めた。途端に、人の子の言葉とは明らかに違う響きを持つ歌声が、あっという間にレイスヴァーンの心の隙間にじわりと入り込い、耐え難いほどの甘いうずきとなって魂を揺さぶろうとする。

 その妖艶な声で人の子の思考を停止させて思うがままに操り、岸辺に引き寄せて水底に引きずり込みながら、もだえ苦しむ男の身体にしなやかな肢体を絡みつけて掻き抱く。やがて、男の身体がぴくりとも動かなくなるまで……そうすることでしか、水の乙女達は快楽を得られぬのだ、と聞いたことがある。

「ああ、くそっ……」

 精霊の声に囚われ、己の意思とは裏腹に岸辺に向かおうとする身体を必死に抑え込みながら、レイスヴァーンは崩れ落ちるようにひざまずくと顔を歪めて唇を噛み締めた。

「さすがに、これは……耐え難いな……」

 ぼんやりとかすんでいく思考にあらがおうと何度も毒づき、何度も首を横に振りながら、震える手を必死に伸ばし、腰帯に結び付けておいた小さな革袋に指先が触れた瞬間、力任せに引き千切って握りしめる――

 

 その途端、革袋の中で眠っていた何かが虚空に解き放たれ、幾千もの光の糸となってレイスヴァーンをふわりと包み込んだ。



 あれほど心をむしばんでいた歌声が、ふつりと途切れて消えた。

 やがて、低く心地よい水車の律動と獣の鳴き声が、あるべき森の喧騒を取り戻したことを物語るように、辺りに響き始めた。


『お前には必要になるやもしれぬからな』

 

 そう言って革袋を手渡した巫女姫キシルリリの冷ややかな微笑みが、レイスヴァーンの脳裏を過ぎり、込み上げるいきどおりに身体が熱くなる。

「あいつめ……こうなると知っていながら、騎兵達には何の警告も与えず出立させたのか」

 民のために祈りを捧げるべき巫女姫が、命をもてあそぶなど許されることではない。だが、「魔の系譜」と魂を取引することもいとわぬスェヴェリスの術師として育てられたキシルリリにとって、目的を果たすために騎兵の命を差し出すなど、取るに足らぬ犠牲でしかないのだろう。

 それでも、親友から預かった大切な兵の命を、むざむざ奪われる訳にはいかない。


 後方から近づく騎兵達を、これ以上、川岸に近づかせまいと、レイスヴァーンはきびすを返して彼らに走り寄った。戦場で名を馳せた元傭兵の気迫に押されて一斉に立ち止まった騎兵達が目にしたのは、対岸から水車小屋を包囲する手筈てはずだった隊の騎兵達が、水辺から遠く離れた場所で為すすべもなく立ち尽くし、水底みなそこに消えた仲間の名を必死に叫び続ける姿だった。

 水の中で青白く光る女達が、ぎらぎらと輝く紅玉の獣の瞳であざけるように騎兵達を見つめている。人間相手ならばひるむことなく立ち向かう彼らも、得体の知れぬ「水の魔物」が相手では手も足も出ない。「見えざるものが見つめる世界」の存在を知らぬ人の子に、精霊の真の姿を見ることなど出来ぬのだから。



 レイスヴァーンが人ならざるものを初めて目にしたのは、傭兵として大陸を駆けまわっていた頃。護衛として加わった旅の隊列で、巫女見習いの盲目の少女と出逢った時のことだ。

『不思議ね。あなたからは血の匂いがする。なのに、精霊達は、あなたを恐れないの……あなたの中で眠っている魂の熾火おきび……けがれなく、すべてを必然として受け入れて、暖かく照らし出してくれる、命の炎……彼らはそれに惹かれるんだわ』




 あれから月日を重ねても、異質なもの達が薄闇の中でうごめく姿には、未だに慣れない……レイスヴァーンはわずらわしそうに大きな吐息を吐くと、長剣の柄に掛けた手に力を込めた。

「厄介なところに逃げ込んでくれたものだ」

 王都軍に追われる若者を、そんな事情など知る由もないお節介な薬師が連れ帰った水車小屋に、たまたま妖魔が棲んでいた。ただそれだけのことだ。そうと分かってはいても、厄介なことに変わりはない。おまけに、この辺りには荒々しい自然が生み出した気性の激しい精霊達が群れつどっている。

 ……ギイの言う通りだ。俺は、嫌でも厄介ごとに巻き込まれる性分らしい。

 

 騎兵達をその場に待機させ、川岸に向かおうとするレイスヴァーンの視線の片隅で、水車近くの流れに浮び上った黒い影がゆらりと揺らいだ。溺れた騎兵の身体が水面に浮き上がったのかと目を凝らした先で、黒い影は見る間に長い髪を薄衣のようにまとった女の姿に変わると、艶めかしい肢体を流れに漂わせながら、ぎらぎらと紅く輝く瞳でレイスヴァーンを見つめ返した。ぐったりと動かぬ男をうろこに覆われた両腕で抱きかかえたまま、にやりといびつな微笑みを浮かべる女の口元に、鋭く尖った牙が不気味に光っている。

 川面に浮かぶ仲間の変わり果てた姿に気づいた騎兵達が、嗚咽とも怒号ともつかぬ叫びを上げて駆け寄ろうする。それを何とか押しとどめながら、レイスヴァーンは水車小屋の方に視線を投げた。


 例えば、術師が自然の力を借りて術を操るのと同じに、あの精霊達が薬師に手を貸しているのだとしたら……? 追っ手が迫っていることに気づいて騒ぎを起こし、逃げ出す機を狙っているのだとしたら?


「お前達は当初の計画通り、逃亡した元護衛……キリアンとか言ったな、そいつを捕まえることに専念しろ。間違っても傷つけるなよ」

 水面に漂う女から視線を外すことなく、有無を言わさぬ響きを持つ声で静かに指示を出すレイスヴァーンに、騎兵達も無言で頷き返す。

「念のため、正面の入り口に二名残す。他の者は、小屋の裏手に回って他に逃げ道がないか見て回れ。妖魔に出くわす危険もある。用心しろよ」

 すぐさま、機敏に動き出す騎兵達をよそに、ようやくその場に姿を現した術師の若者が、必死の形相で苦しそうに息を切らしながら、へなへなと地面にしゃがみ込んだ。その様子に、レイスヴァーンは思わず憐れむような薄笑いを浮かべた。

「やっと来たか……ハーラン、お前はここに残って騎兵達を守る結界を編んでくれ。妖魔の気配を探る事も忘れるな」

 ずれ落ちそうになるローブを必死に押さえつけながら、ぜいぜいと肩で息をする術師の顔に、呆気に取られた表情が浮かぶ。

「……え? あ、いや、でも……あの歌声が、この騒ぎの原因なのでしょう? それなら、術師の私が行かないことには……」

 日頃から身体を動かす作業とは無縁の大神殿での生活が仇となり、まともに言葉を紡ぎ出すことさえままならない己自身に苛立ちながら、ハーランは必死に声を絞り出した。

「この辺りを吹く風に、精霊の歌声をさえぎるように、とお願いしたので……」

 苦しげに声を出しながらレイスヴァーンを見上げた瞬間、ハーランは我が目を疑った。目の前の男が、難解な呪詛を幾重にも組み合わせて織り上げられた銀色の光のまゆに包まれていると気づいたからだ。ここまで揺るぎのない結界を編み上げることが出来る術師は、大陸広しと言えど──

「キシルリリ様! ああ、やはり、レイスヴァーン殿が、あの御方の想い人だと言う噂は本当で……」

下衆げすな勘繰りは止めろ。念のため、あいつから守護の結界を授かっていただけのことだ。そんなことより、お前、あの歌声を聴いてもなんともないのか?」


 大神殿の巫女姫を「あいつ」呼ばわりする男に畏怖の眼差しを向ける青年を尻目に、レイスヴァーンは急に風の流れが変わったことに気づいて辺りを見回した。川辺を漂っていた歌声は、行き交う風にかき乱され、途切れ途切れに散ってはかすみのように消えていく。騎兵達は歌声の呪縛に絡め取られた様子もなく、各々おのおのの持ち場についたようだ。

「……なるほど。そんななりでも、術師には違いないということか」

 口端を吊り上げて苦々しく笑う男の姿に、ハーランの苛立ちは募るばかりだ。

「王都軍の兵舎で引き合わせられた時から思っていましたが……あなたって、とことん失礼な人ですよね」

「褒め言葉と受け取っておくよ。術師ハーラン、騎兵達を守る結界を編み上げる自信のほどは? ここまで来て、出来ないとは言わせんぞ」

「……やってみますが、この辺り一帯を覆う結界の力が強すぎるので、私の結界が押し潰されてしまう可能性も否めません。それよりも、私は水の精霊達をなだめないと……」

 げほげほっ、と大きく咳き込んだ拍子にまたもや地面にうずくまってしまったハーランは、レイスヴァーンの視線を痛い程に感じていた。

「そんな状態で、か? 実戦経験どころか、たったこれだけの距離を走る体力もない奴が、意固地になるな。あの精霊達は俺が何とかする」

「何とかするって……! 水の乙女達はれているだけで……時に、若い人間の男が相手となると見境がつかなくなることも多くて……今回は、悪ふざけが少々度を越しているようですが……だからと言って、まさか、彼女達を森の妖獣達の如く斬り捨ててしまうつもりではないでしょうね? そんなことをすれば、自然の均衡が崩れて大変なことに……」

「見くびるなよ、若僧」

 森の外れで気怠けだるい雰囲気をまとっていた男が発したとは思えぬ低く鋭い声に、ハーランはごくりと息を呑んで顔を上げた。こちらを睨みつけている新緑色の瞳が冷たさを増す。

「『自然の具象化たる精霊にそむくは、自然の摂理に叛くことと心せよ』などと言う、お決まりのあれか? そんなことはお前に言われなくとも百も承知だ。伊達にこの数年、あの巫女姫のそばで『妖獣狩人』を名乗っていたわけじゃない」

 見習いだがな……と、不機嫌そうに言い捨てると、レイスヴァーンはしゃがみ込んだまま動けずにいる術師の若者をその場に残して、水辺へと足を向けた。



 その女は、まるで手に入れたばかりの宝物を奪われまいとするかのように、騎兵の身体に絡みついたまま小川の流れをゆらり、ゆらりと漂っていた。息を継ぐ間もなく水中を引きひきずり回されたのだろう。力なく水面に浮かぶ騎兵の肌は異様なほどに青白く、命の鼓動は微塵も感じられない。

 岸辺に立つ戦士に気づいた水の精霊は、するり、するり、と近づくと、男の燃え立つ炎を思わせる赤銅色の髪を紅い瞳でぎょろりとめ回し、焦がれるように、ほおっと息を吐いた。水底で揺れ動く炎は、さぞや美しかろう……そんなことを思いながら。

 だが、次の瞬間、ぎゃっと凄まじい悲鳴を上げて身体をくねらせると、レイスヴァーンが引き抜いた長剣から逃れようと、水中深く身を沈めた。

 

 刀身からしたたり落ちる呪詛は暗い血の色にも似て、水面みなもに触れた途端に、ぶくぶくと不気味な泡を立てながら白い煙と化していく。「魔の系譜」さえも斬り裂くそのやいば禍々まがまがしさは、清らかな精霊には耐え難い苦痛を与えるらしい。

 赤毛の戦士が握りしめる長剣を凝視したまま、ハーランは今更ながらにスェヴェリスの血を引く巫女姫の力に圧倒され、ぴくりとも動けずにいる己自身の弱さを呪った。

 揺らいだ波間には、取り残された騎兵の身体が、ゆらり、ゆらりと浮いている。

「ハーラン! 騎兵の身体を引き揚げてくれ! 早くしろ!」

 突然名を呼ばれて、跳び上がるようにしてレイスヴァーンのそばに駆け寄ると、ハーランは咄嗟に心の中に描いた大きな網を言葉の糸でって必死に編み上げ、祈りの言葉と共に小川に向かって放り投げた。呪詛の網に捕らわれて、見る間に岸へと引き寄せられた騎兵の身体を、風の精霊達の力を借りてふわりと宙に持ち上げ、柔らかい草場の上にゆっくりと慎重に横たえる……

 ふうっ、と息を吐いて額に浮かんだ汗をローブの袖で拭い取ると、ハーランはしゃがみ込んで騎兵の首に指先を当てた。


 術師の若者は哀しそうにレイスヴァーンを見上げると、静かに首を横に振った。

「亡骸を取り戻せただけでも良しと思わんとな……なあ、ハーラン、これが『戯れ』で済むと思うか?」

 凍てつく視線を投げかける男の静かな怒りを感じ取って、ハーランの背中にぞくりと冷たいものが走った。

 レイスヴァーンは長剣を鞘に収めると、対岸に立ち尽くす騎兵に向かって声を上げた。

「おい、あと何人やられたんだ?」

 仲間の身体が水の中から引き揚げられる様子を固唾を呑んで見守っていた騎兵の一人が、こちらを見て大きく両腕を振る。

「ぜ、全部で……四人です! 馬も一緒に水の中に引きずり込まれて……」

 いや、馬は勘弁して下さい、いくらなんでも重すぎます……心の中で毒づくハーランの横で、ちっ、と大きく舌打ちをしたレイスヴァーンが不意に外衣を脱ぎ捨てると、ばしゃばしゃと大きな音を立てて水の中に入って行く。

「ええっ? ちょっと、レイスヴァーン殿! 何してるんですか!」

「水の乙女とやらを懲らしめてやろうと思ってな。悪ふざけも度が過ぎれば罰を与えられると、小さな子供でも知っているぞ」

「精霊相手に、何を馬鹿なことを言ってるんですか! 水底に引き込まれるのが関の山……って、ああ、もう、聞いちゃいない……いい加減にして下さい! レイスヴァーン殿!」

 勘弁して下さい、立て続けに呪詛を編むなんて、こっちの寿命が持ちませんよ……


 ハーランの心の焦りを感じ取ったかのように、レイスヴァーンがちらりと振り返った。

「おい、ハーラン。さっさと結界を編み上げて、水車小屋の裏手に回ってキリアンと薬師を捕らえろ」

「何言ってるんですか! 早く水から出て下さい、レイスヴァーン殿!」

「分からんか? こいつらはおとりだ。こちらの騒ぎが大きくなればなるほど、逃げ出すのも容易たやすくなる……奴を取り逃がさんように、騎兵達に手を貸してやれ」

 にやり、と口元に笑いを浮かべた戦士の背後で、黒い影がゆらりと揺れた。刹那、水面が大きく持ち上がるのを、ハーランは恐怖に歪んだ顔で見つめていた。

「レイスヴァーン殿、後ろ!」


 ハーランの悲壮な声が波の音に掻き消された瞬間、赤毛の戦士の姿が波間に消えた。

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