追手と誘惑

 日が高くなる前に、ここを出て行こう。そう決めた。


 だが、たった一人で王都からの追っ手をかわしながら、何処まで逃げ切れるのだろう……そんな不安に心が押し潰されそうで、キリアンは夜衣やいに着替えもせず、寝台に腰かけたまま眠れぬ夜を過ごしていた。

 もうすぐ夜が明ける。そろそろ旅支度を始めないといけない。

 そう思っていた矢先だった。


「キリアン、起きて、キリアン!」

 突然、小さな足音と共に部屋の中に飛び込んできた娘の押し殺した声が、夜の静寂しじまに凛と響いた。

 腰まで届く寝癖で絡まり合った黒髪と、薄手の夜着をまとっただけの娘の姿に、目のやり場に困ったキリアンが顔を真っ赤に染める。そんな若者の事情などお構いなしに、シルルースは真っ直ぐにいろりに向かうと、手にしていた燭台しょくだいに火を灯した。

「すぐにここを出るのよ、急いで支度して!」

 訳も分からず呆然と立ち尽くすキリアンをよそに、シルルースは食料棚に置かれたつぼから焼き菓子とありったけの干した果物を取り出して、痛み止めの薬草と一緒に皮袋に詰め込んだ。これだけあれば、しばらくは人里から離れて人目を避けたまま旅を続ける事が出来るはずだ。

「シルルース、せめて、もう少し明るくなるまで……」

「駄目よ。王都軍が森の外れまで来ているの」


 ああ……と悲壮な声を上げたキリアンが、寝台の下から長剣を引きずり出し、震える手で身支度をする間、シルルースは小屋の外の気配に耳を傾けていた。

 低くうなる風の音にも似た悲し気な歌声が、木々の騒めきと共に聴こえてくる。それが、森に棲む精霊達の声であることにシルルースは気づいていた。おそらく、夜の森を行く王都軍の手によって犠牲になった哀れな獣達を想って泣いているのだろう。

 奪われた命をはかなむ歌声に引き裂かれそうな心を抑え込もうとして、シルルースはぎりりと唇を噛んだ。

 

  

***



 森の中から漂い流れてくる匂いが瘴気しょうきだとザルティスが気づいたのは、「狭間はざま」に飛び込む寸前のことだった。


 数多あまたの世界の境界をつなぐ「狭間」は、入口も出口も、始まりも終わりもない、揺らいだ虚空こくうが果てしなく広がる領域だ。あらゆる世界に通じる経由地となるこの空間を通り抜けて望みの場所へと翔ぶことが出来るのは、「狭間」を満たす瘴気の毒をかてとする「魔の系譜」か、それを使い魔として使役する者に限られる。

 妖獣のむくろは、己の命を奪った相手の命をからろうとするかの如く毒の気を放つ。「昏き森」から流れ出る瘴気の正体が、森を棲みとしていた妖獣の断末魔の足掻あがきだと察して、ザルティスは眉をひそめた。


 不死に近いとは言え、首を斬り落とされれば「魔の系譜」とて無事では済まない。妖魔であるザルティスも例外ではない。首を失った妖魔の身体は灰となって砕け散り、その魂は眠りについたまま数多の世界を彷徨さまよい続ける。運よく「罪戯れ」の身体を手に入れた魂だけが、再び「魔の系譜」としてよみがえることが叶うのだ。

 「魂の器」となるべく新しい「罪戯れ」が生まれなければ、妖魔の魂も永遠に目覚めることもない。「狭間」に繋がる世界には、妖魔の性愛の相手となる種族が数多く存在する。だが、妖魔との交わりで「罪戯れ」を生み出せるのは、不思議なことに「大陸」に棲まう人の子のみだ。妖魔が好んでこの世界に降り立つのも、数を減らし続ける「魔の系譜」の行く末をうれいた天竜ラスエルの意思を継いでのことなのだろう。



 「罪戯れ」を通してこの世界に舞い戻った妖魔が再び身体を失なったとして、自然のことわりは、果たしてもう一度、新しい「魂の器」を得る幸運を許してくれるのだろうか。

 それが、ザルティスが常に心に抱く懸念だった。

「だからこそ、妖獣狩人などというやからとは関わり合いたくないのだよ」

 森の遥か上空で、「狭間」につながる空間の切れ目から眼下をのぞき見ていたザルティスが、物憂げな声を出した。

 翡翠色の獣の瞳が見つめる先には、森の外れから水車小屋の様子を伺う二つの影。長身の男が手にしている長剣は「魔の系譜」をも斬り裂く術を施されているようだ。この男は妖獣狩人に違いない。もう一人の小柄な若者は、飾り気のないローブ姿から察するに王都軍の術師だろう。

『気づかれないように、術師の気を引きつけておいて』

 ふいに、娘の言葉が脳裏をぎり、ザルティスは困ったものだと顔をしかめた。

「簡単に言ってくれるが、妖魔とて苦手なものはあるのだよ」

 それでも、珍しく余裕のない表情を浮かべて懇願する娘の姿が余りに愛らしく、滅多に感情を表すことのない娘だからこそ嫌とも言えず。結局、言われるがまま、先ずは敵の様子を探るべく「狭間」に翔んだのだった。

 たかが人の子如きに骨抜きにされるとは、我ながら情けない……そう思いながら。

 

 狩人と術師のすぐそばで、二頭の馬が静かに草をんでいた。

 街道沿いに馬を走らせる王都軍の姿など、いくさの絶えぬ大陸では見慣れた光景だ。だが、ティシュトリアとの国境を前にして、騎兵の一部が急に速度を上げて街道を外れ、聖域である「昏き森」を目指して駆け始めた様子に異変を感じ取った風の精霊達が、ザルティスの耳元に夜風のささやきを送り届けたのが真夜中を少し過ぎた頃。

 二手に分かれたと言うことは、一方は森から、もう一方はティシュトリアの領域である小川の向こう岸から水車小屋に忍び寄り、はさみ撃ちにする魂胆なのだろう。

 総勢十名程の騎兵。それに付き従うのは、たった一人の術師と、たった一人の妖獣狩人。夜の「昏き森」を通り抜けるには少なすぎる頭数だが、あの術師と狩人が大神殿付きだとすれば納得できる。おそらく、あの御方が裏で力を貸しているはずだ……厄介ごとに巻き込まれることを嫌う娘が知れば、卒倒するに違いない。


 ザルティスはもう一度、水車小屋の周辺に視線を走らせた。

 案の定、小川の向こう岸から忍び寄る騎兵の姿が見て取れた。と、同時に、水底から不思議な歌声が辺りに漂い始めるのを耳にして、黒髪の妖魔は美しい口元を歪めて凍えるような微笑みを浮かべた。

 戸惑いがちに誘うように、低く高く風に乗る水の精霊達の歌声は、騎兵達の心を惑わせようとするかのように甘いささやきへと変わっていく……



 水の乙女達のつややかな声に心をからられた先頭の騎兵が、ふらりふらりと水辺に近づき、戸惑いも見せずに浅瀬に馬を進めた。

 途端に、水の中から様子を伺っていた精霊達が馬の脚に群がったかと思うと、あっという間に馬もろとも騎兵を深みに引きずり込んだ。目を白黒させながら水底に沈みゆく馬の背で、恐怖に声も出せぬままの騎兵も大きな水飛沫を立てて水面から姿を消した。

 突然の悲劇をの当たりにして浮き足立つ騎兵達をよそに、水面に妖艶な姿を現した乙女達が狂喜の歌を高らかに歌い上げながら、次なる獲物を狙う……と、恍惚とした表情を浮かべながら、ふらりふらりと深みに馬を進めた騎兵が、水面から盛り上がった水飛沫に取り囲まれた。目に見えぬ何かにおびえるような叫び声を上げながら、騎兵の姿は水の中に消え入った。

「ラスエルクラティアが誇る王都軍の騎兵も、水の乙女達の誘惑にはあらがえぬか……愚かしい。欲望をさらけ出し過ぎるから、こうなるのだよ」

 くくっ、と不気味なわらい声を漏らしながら、ザルティスは森の方へ視線を戻した。

 



「なんだ、今のは……?」

 長剣に掛けていた手に力を込めて眉をひそめたレイスヴァーンが、隣にたたずむ術師の若者に視線を投げ掛けた。

「小屋の裏手からですね。ティシュトリア側から侵入するはずの騎兵に予期せぬ事態でも起こったのでしょう」

 そう言い放つと、ハーランは狩人の射るような視線に気後れする様子も見せず、涼しい顔をしたまま、少しだけ肩をすくめてみせた。

「『魔の系譜』が棲む地では、くれぐれも用心するようにと警告しておいたのですが……確か、国境の小川を渡って潜入した騎兵と、こちら側で待機している騎兵とで小屋を囲い込み、逃げ道を失った『元護衛』を捕らえる、と言う筋書でしたよね」

 ハーランは背後を振り返りながら、怯えて落ち着きを失った馬達を必死になだめようとする騎兵達の姿に薄笑いを浮かべると、挑むような表情で長身の妖獣狩人に視線を戻した。

「私としたことが、小川に棲む精霊の存在をすっかり忘れていました。今頃は騎兵達が馬と共に水底に引きずり込まれているかと……」

「おい、それを先に言え!」

 ちっと舌打ちをしてレイスヴァーンは素早く長剣を引き抜くと、ハーランが止める間もなく水車小屋に向かって走り出した。

「駄目です、レイスヴァーン殿! まだ、結界が解けては……」

「そんなもの、叩き斬ってやるさ!」

 威勢の良い言葉に応えるように騎兵達がときの声を上げ、怯えて動こうとしない馬を残してレイスヴァーンの後を追って駆け出して行く。

「無茶ですよ! いくらあなたの剣がキシルリリ様の祝福を受けているとは言え……ああ、もう……聞いちゃいない……まったく、もう!」

 一人取り残されたハーランは、呆れた表情でその場に立ち尽くしたまま、片方の手をきらめく星空に差し伸べると、祈りの言葉を口早に編み上げ始めた。

「これだから剣を振るうしか能のない戦士達と行動するのは嫌なんですよ……ご命令とは言え、二度と御免こうむりますよ、アズラエリ様!」


 突如、水車小屋を覆っていたはずの結界がぐらりと大きく揺らいだかと思うと、狩人と騎兵達が来るのを待ち構えていたかのように、ぽっかりと口を開けた。

 結界の裂け目を通り抜けた男達が、仲間の悲鳴が聞こえる河岸へと一目散に駆けて行くのを呆然と見つめていたハーランが、大きなため息と共に、へなへなとその場にしゃがみ込み、がっくりと肩を落とした。

「『狭間』からご覧になっていたのなら、もっと早くに手を差し伸べて下されば良いものを……どうせ、もう少し楽しんでいたかった、とかなんとかおっしゃるんでしょうが」

 不機嫌極まりない声でぼそぼそとつぶやきながら、なんとか気を取り直して立ち上がると、ゆっくりと結界の裂け目に歩み寄った。

 魅入られたかのように、ほおっと熱い吐息を漏らし、しばらくの間、きらきらと輝く揺らいだ空間を興味深く見つめ続けた。

「……こんな複雑怪奇な結界、人の子に叩き斬れるわけないじゃないですか」

 レンスヴァーンの自信に満ちた雄々しい姿を思い出して、ハーランは大神殿の術師に相応ふさわしい威厳に満ちた表情を浮かべようと苦心しながら戦士達の後を追った。

 

  


 一部始終を「狭間」から伺っていたザルティスは我が目を疑った。

 ほんの一部分とは言え、未だかつて破られたことのない結界に裂け目が生じた……まさか、あのような年若い術師が、この堅固な結界を破ったというのか?

 

 いや、違う。何者かの手で、結界の一部が意図的に崩されたのだ。そんなことが出来るのは……

『……アズラエリ様!』


 夜空に響き渡った術師の声に、ザルティスは翡翠色の瞳を見開いたまま、ぶるりと身震いすると、娘の気配がする方へと心を翔ばした。



***



「まさか、ネスグレンタに帰るつもりではないでしょうね? 追われる身で故郷を目指すのは、どうかと思うけれど」

 夜の闇を滑るように、シルルースは足音も立てずに先へと進んで行く。その後を、娘から渡された燭台と革袋を握りしめたキリアンが続く。小屋の裏手に向かう廊下は明かり取りの小窓もなく、蝋燭ろうそくあかりなしには動く事もままならなかっただろう……キリアンは心の中で娘の配慮に感謝した。

「分かってる。僕もそこまで愚かではないよ。タルトゥスに向かうつもりなんだ」

「タルトゥスって……ティシュトリアを抜けて? 取締りの厳しさで知られるティシュトリアの砦をどうやって通るつもりなの?」

 暗がりの中でも表情が見て取れると錯覚する程に、娘の声色が冷ややかさを増した。

「ラスエルクラティアへの巡礼を終えた旅人達には、取締りもそこまで厳しくないらしい。彼らにまぎれてしまえば、何とかなるかなと思って……僕の乳母だった女性がタルトゥスの王都で暮らしていてね。彼女なら必ず僕をかくまってくれる。亡くなった母がタルトゥスの『砦の姫』だった頃から、ずっと側に仕えていてくれた人だからね」

 少し照れ笑いを浮かべながら、キリアンは夜明けを待ちながら考え抜いた逃避行の道程みちのりを頭の中で確かめるように、ゆっくりと言葉にした。

「そう……なら、そうすれば良いわ」

 ふと、首をかしげて耳を澄ますような仕草を見せた娘が、口角を少し釣り上げるようにしてわずかに微笑んだ。蝋燭の灯りに浮かび上がった娘の不自然な表情に、キリアンは背筋に冷たいものが走り抜けるのを感じた。

「シルルース?」

「……愚かね。何も知らずに」

 静かな怒りを秘めた娘の声がれ出ると同時に、身の毛もよだつような声が闇をつんざいて響き渡った。悲鳴とも叫びともつかぬそれは、やがて大きな水飛沫の音に掻き消されて消えた。


 暗がりの中、得体の知れぬ叫び声に心をつらぬかれ、その場から動けなくなってしまった様子のキリアンに、シルルースはそっと手を伸ばした。硬く握り締められた震えるこぶしに優しく触れて、解きほぐすように両手で包み込むと、そのままゆっくりと背後の扉へと導いた。

「よく聞いて、キリアン。この扉を出たら右手に進んで。何があっても、何を聴いても、絶対に立ち止まっては駄目よ。ただ、歩き続けなさい。小川に沿って行けば、昼までには『街道』に出るわ。そこから先は……」

 一瞬、戸惑いがちに言葉を呑み込んだ娘が、蝋燭の光できらきらと輝く陽だまり色の髪にそっと手を伸ばした。

 待ち受ける困難におびえながらも先に進まねばと葛藤する若者の心が、幼い迷い子のように震えている。


 シルルースは小さくため息をついて両手をキリアンの頬に滑らせると、唇が触れそうなくらいに顔を近づけた。そのまま、薄紫色の瞳で若者の心をむしばむ恐怖という名の暗闇をにらみつけ、慈愛に満ちあふれた声で守護の祈りの言葉を編み上げながら、若者のひたいに口づけを落した。

「キリアン・ネスグレンタ。如何なる時も、聖なる天竜ラスエルのご加護があなたと共にあらんことを」



 大神殿の巫女だった頃。「大陸」の安寧あんねいだけを願って、日々、天竜への祈りを捧げていた「夜闇のシルルース」の声に、キリアンは胸の奥につかえていた冷たいものが、ゆっくりと溶けていくのを感じていた。

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