夜闇のシルルース

 貧しい農村に生まれたシルルースは、何もない虚空に向かって微笑んだり、誰もいないはずの場所で誰かと語らうような素振りを見せる「風変わりな」子供だった。

 その薄紫色の瞳が日々の生業なりわいを映し出せないと気づいた両親は、落胆の色を隠せなかった。「働き手」として望んだ我が子が、畑仕事もままならず、走り回る小さな弟妹らの子守りとしてさえ役に立たぬとは……

 八度目の春を迎えた日。両親から穀潰ごくつぶしとうとまれ続けた娘は、天竜の神殿へ「捧げもの」として差し出された。その年の貢納代わりに領主の夜伽の相手をさせるにはおさな過ぎたからだ。



 神殿で初めて過ごす夜。月のものさえ迎えていない少女を手篭てごめにしようとした神官が絶命した。

 突然の嵐に襲われたかのような轟音と共に神官の寝所の扉が吹き飛ばされ、あわよくばおこぼれにあずかろうと扉の外で心待ちにしていた年若い護衛の身体と共にくだけ散った。ひっくり返った寝台の下で、元は神官だったものが押しつぶされて肉塊と化していた。

 破壊を免れた部屋の片隅では、絹の掛布にくるまれた少女が何事もなかったかのように安らかな寝息を立てていた。


 「悲劇の大嵐」を生き延びた少女が不可思議な力に守られていると気づいたのは、領主の愛妾でもある神殿の巫女姫だった。

 巫女姫の側仕えとして、神殿での行儀作法と教養を厳しくしつけられたシルルースが、「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」の大神殿に「巫女」として差し出されることになったのは、十三の春を迎えた時のことだ。

『聖なる天竜ラスエルの恩寵をその身に受ける大神殿の巫女姫キシルリリ様ならば、「落とし子」のお前がこの世界で為すべきことをご存知のはず』

 ラスエルクラティアに旅立つ朝。「異界をのぞき込む」と噂される少女の瞳に見つめられても、巫女姫は臆することなく妖艶に微笑みながら、シルルースに形ばかりの祝福を与えた。

『二度と再びこの地を踏まぬ覚悟で、あの御方にお仕えせよ。元より、肉親の情さえ知らぬお前に、戻る場所などあろうはずもないが』


 両親に捨てられた日。神官の欲望にさらされた夜。夜闇を照らす月の如く冷ややかな巫女姫のそばで過ごした五年間。「精霊の落とし子」としいたげられた日々……思い起こされる全てが、少女をこの地から遠ざけるに充分だった。

 巫女姫の言葉に儀礼的に耳を傾ける振りをしながら、シルルースは己の生き様を縛りつける呪詛を、心の奥底にしっかりと刻みつけた。


 誰も、こんな私を愛したりしない。

 だから、私は誰も愛したりしない。

 

 




 幼い頃からシルルースを「いとし子」と呼んでいつくしんでくれたのは、精霊達だった。だから、本当は彼らの世界に生まれるはずだったのに、人の子の世界に迷い込んでしまったのだと信じたかった。人の子の身の内に精霊であるおのれの魂が囚われ、この世界につなぎ止められているだけなのだと。

 ラスエルクラティアを追放され王都を離れたシルルースが、宵闇迫る「街道」をひたすら歩き続けたのも、精霊達の奏でる声に耳を傾けていたからだ。


 いつのまにか「街道」から離れ、隣国ティシュトリアとの国境である「くらき森」に足を踏み入れてしまったらしいと気づいたのは、夜の静寂しじまをついて獣達の唸り声と息遣いが聴こえた時だった。精霊の導きがあったとして、「魔の系譜」が棲まう森の中を彷徨さまよい続けるのが危険なことくらい、シルルースも十分承知していた。だが、王都から休みなく歩き続けた身体が悲鳴を上げている。もうこれ以上、歩けそうにない……そう思った瞬間、その場にしゃがみ込んで動けなくなった。


 こんなところで眠ってはいけない、森の獣に喰われてしまう。歩き続けなければ……

 娘の恐怖と焦りを感じ取った風の精霊達が、さわさわと優しい音を立てて木々の間を駆け抜けて行く。森が奏でる子守歌のような心地よい騒めきに包まれて、シルルースはいつしか深い眠りに落ちた。




 わさり、わさりと漆黒の翼を揺らしながら、薄暗い森の中を優雅な足取りで進む山豹レーウに似た黒い獣が、森の中で眠る黒髪の娘を見つけたのは、風の精霊達の声に導かれたからだ。

 曰く、愚かな人の子らに追われて森に逃げ込んだ「愛しき迷い子」が、疲れ果てて動けなくなってしまった。どうか助けて欲しい、と。

 精霊の頼みを無下にするわけにもいかず、黒い獣はぶるりと身を震わせて本来の姿に戻ると、美しい顔に迷惑そうな表情を浮かべたまま、眠り続ける娘を優しく抱き上げて、母の待つ水車小屋へと連れ帰った。



***



 かつて、「夜闇よやみにさざめく声を聴く」とおそうやまわれた大神殿の巫女が、小さな水車小屋で世捨て人同然に暮らしていることに、キリアンは戸惑いを隠せなかった。


 神殿の護衛としてラスエルクラティアで暮らし始めたのは、三年程前のことだ。

 当時、大神殿の巫女姫キシルリリに仕えていた巫女シルルースは、盲目だったが故に『夜闇』と綽名あだなされ、その力をうらやむ神官や巫女達からは「両眼と引き換えに妖しげな術を手にした、妖魔の情婦」と揶揄やゆされていた。

 その彼女が、ある日突然、神殿から姿を消した。

 契約を結んでいた妖魔に喰い殺されたのだろう、などとまことしやかにささやかれる中、大神官は朝の祈りの場で「罪を背負った巫女が追放された」とだけ告げた。罪状をおおやけにされる事なくひそやかに執行されたシルルースの追放は、時と共に忘れられ、神殿で語られることもなくなった。


「まさか、こんなところであなたに会うなんて……少し驚いてしまって」

 オムレツの最後のひとすくいをザルティスの皿に盛りつけながら、キリアンは申し訳なさそうに目を細めた。思い出したくもない過去を掘り起こされ露骨に不機嫌な様子の娘に視線を向けたまま、妖魔はキリアンから湯気の立ち昇る皿を受け取った。

「『妖魔の情婦』が妖艶さの欠片かけらもない小娘で、幻滅したかしら?」

「いや、そんなことは……」

 顔を紅潮させて口ごもる青年を前に、シルルースは自分の皿に注がれる黒髪の妖魔の視線を感じて、呆れ果てたように首を横に振ると、ザルティスの前に皿を差し出した。

「生みの親からも愛想を尽かされた『精霊の落とし子』だもの。人の子の欲が渦巻く王都より、ここの暮らしが性に合っているのよ」

「お前からは人の子の匂いしかせぬよ」

 シルルースの皿から掬い取ったオムレツを嬉々として口にした妖魔が、恍惚の表情を浮かべながらつぶやいた。

「あなたからはオムレツの匂いしかしないわよ。妖魔のくせに、本当に食い意地が張ってるんだから……キリアン、あなたもこれ以上、余計なことはしないで。ここでは卵はとても貴重なのよ」

 怒りの矛先を向けられて、青年の顔がますます赤味を帯びる。それを見たザルティスが、くくっ、と不気味な笑い声を漏らした。

「案ずるな、キリアン。必要とあらば、村中の……いや、大陸中の卵を掻き集めてやろう」

「駄目よ、ザルティス。お師匠さまの……あなたのお母さまの言葉を忘れたの? 村人達の助けがあるからこそ、私達はここで静かに暮らせるのよ」

 オムレツをすくったさじを宙に浮かせたまま、翡翠色の瞳が懐かしい人を想ってわずかに揺らいだ。

「我が母は……お前と違って料理上手だった」

「悪かったわね。いつまでも親離れの出来ない『罪戯れ』なんて、この世界にあなたくらいのものよ」

 だからこそ憎めなくて、ずっとそばに居たいと思うのだけれど……

 娘の心の声に耳を傾けていたザルティスが、満足そうにオムレツを頬張ほおばった。


 二人の様子を見つめていたキリアンが、我慢できないと言わんばかりに、くはっと息を吹き出した。

「あ、いや、失礼。喧嘩するほど仲が良いと言うのは、あなた達のような夫婦を言うんだろうね……羨ましいくらいお似合いだな、と思って」

 夫婦、と聞いて、戸惑いを隠せない様子の娘を前に、妖魔が決まり悪そうな薄笑いを浮かべた。

「我が伴侶とするには、この娘は少々幼過ぎてな。『妖魔の情婦』などと呼ばれながら、色香など露程つゆほども感じぬのだよ」

 途端に、真っ赤に染まった顔をくしゃりと歪めた娘が、妖魔の胸めがけて両腕を大きく振り上げた。が、小さなこぶしをいとも簡単に掴み取ったザルティスが、シルルースを腕の中に囲い込む。

 そんな二人の姿を眺めながら、キリアンは困惑の色を隠せなかった。

「でも、あなた達は……その……清らかなままだと……? 毎夜、寝床を共にしているのに?」

「それは、あなたが私の寝台を占領しているからよ!」

 ザルティスが腕の中でもがきながら苛立たしそうに声を上げる娘をしっかりと抱き寄せ、耳元でささやきかけた。

「それくらいにしておけ。相手は怪我人だ」

 薄紫色の瞳が納得できないとばかりに妖魔を真っ直ぐににらみつける。

「怪我人、ですって? 勝手に寝床から抜け出して、あなたに食べられないように薬草棚の奥に隠しておいた卵を見つけ出して、重い鉄鍋をいろりに掛けて料理するだけの体力もあるし、傷口だってちゃんとふさがっているのよ! もう十分、回復しているわ……いつでも、ここを出て行けるくらいに!」

「シルルース」

 いつになく厳しい口調で名を呼ばれて、はあっ、と息を呑み込んだ娘が、戸惑いがちに目を伏せた。漆黒の長い睫毛まつげの先にきらりと光るものを目にした妖魔が、何も言わずに娘の頭をそっと引き寄せる。大きな胸にすっぽりと顔を埋めた娘の黒髪を優しく撫でながら、ザルティスは所在なく立ち尽くしている青年に視線を向けた。

「娘の言葉は気にせずとも良いぞ、キリアン。悪気はないのだよ。時に感情を抑え切れなかった己自身に腹を立てて、こんな風に愚図ることがあるだけだ……仕方のない子だ。もう『巫女』である必要などないと、何度言ったら分かるのだ?」

 小さな妹に言い聞かせるような妖魔の口調に、キリアンは懐かしさが込み上げてくるのを感じて小さくうなずいた。


「……言ったはずよ、キリアン。ザルティスと私を厄介ごとに巻き込まないで」

 大きな胸に顔を埋めたまま絞り出される娘の声は、いつもの冷ややかさを取り戻していた。

「あなたには帰るところがあるのでしょう?」

 ふと顔を上げた娘の、震える唇から紡ぎ出される言葉には、有無を言わさぬ力が込められていた。

「王都軍があなたを見つける前に、ここを出て行って……お願い」


 放っておいて。私から全てを奪わないで。


 キリアンには、娘の心がそう叫んでいるように思えた。

「そうだね。命の恩人であるあなた達に、これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない」

 これ以上、あなた達を見ているのは辛いから。僕の小さなアイシャが居た日々を……あの頃をやり直したいと願ってしまうから。

「明日の朝、ここを発つよ」



 キリアンの心の声に耳を傾けながら、シルルースは凍えた表情を崩そうとはしなかった。亡き妹への想いに囚われ続ける青年の奥底で、得体の知れぬ小さな闇がうごめいていることに気づいたからだ。


 

***



 夜明け前。

 微睡まどろみの中で名を呼ばれたような気がして、シルルースはザルティスの腕に抱かれたまま身をよじらせた。


 いつもなら優しくなだめてくれるはずの大きな手に荒々しく両腕を掴まれ、揺すり起こされて、娘が不機嫌そうなうめき声を上げる。

 闇に浮かび上がる獣の瞳で窓の外に広がる「昏き森」を睨みつけたまま、ザルティスはぼんやりと寝惚けまなこの娘を腕の中にしっかりと抱え直した。黒髪の妖魔がまとう研ぎ澄まされたやいばのような気配は、招かれざるものが森に居るのだと教えてくれた。

「……何なの、ザルティス?」

 娘の押し殺した声が不安の色を帯びているの気づいて、ザルティスは小さな身体に回していた腕をほんの少しゆるめた。

「案ずるな、森に居るのはただの人の子だ。どうやら、王都軍がここを嗅ぎつけたようだ。夜の森を抜けて来たのであれば術師の一人も連れていようが、我らを守る結界は奴らには破れぬよ」

 妖魔が編み上げた結界は、その妖魔と同等かそれ以上の力を持つ妖魔、あるいはその妖魔を使役する術師しか解くことが出来ない。

 ザルティスの母を愛し、彼女を守るために小屋の周りに結界を築き上げた妖魔は、王都軍の術師如きでは魂を縛ることが叶わぬほど高位の「聖魔」だったらしい。ザルティスも何度か試してはみたが、結界を破るどころかほころばせることすら出来なかった。


「裏口からキリアンを逃すわ。気づかれないように、術師の気を引きつけておいて」

 椅子に掛けておいた上衣を手早く羽織り、裸足のまま駆け出そうとする娘の腕をザルティスが咄嗟に掴んだ。ちっ、と小さく舌打ちしてわずらわしそうに眉をひそめる妖魔の気配に、シルルースが首を傾げて立ち止まる。

「……厄介なのは、奴らが連れている妖獣狩人だ」

 

 硬く分厚い外皮と不死に近い肉体を持つ妖獣を仕留めるには、人を斬るためのやいばは全く役に立たない。妖獣を狩ることだけを目的として造られた重厚で頑丈な武器を自在に操り、「魔の系譜」ならば、時に妖魔でさえも自らの獲物と見なして襲いかかる「妖獣狩人」は、命知らずの戦士として恐れられる存在だ。


「出来れば、関わり合いたくない相手なのだよ」

 ザルティスの中の「魔」が騒めくのを感じて、シルルースは、ぶるりと身を震わせた。



***



「これはまた、随分とひなびた……いや、風流なたたずまいの小屋だな」

 森を抜けた先で、小川のほとりにひっそりと佇む水車小屋を眺めていた男が、まぶたにかかる赤銅色の髪をわずらわしそうに掻き上げながらつぶやいた。


 長身で大柄な男の、はがねのように無駄のない体躯は、日々の鍛錬の賜物たまものだろう。一目で歴戦の雄だと分かる程あちこちに走る古傷を差し引いても、壮年期の男がかもし出す妙な色気と精悍せいかんな顔立ちに、王都の女達が情欲をそそられるのも無理はない……

 惚れ惚れと男を見つめていた小柄な青年が、男が手にしている長剣へと視線を滑らせた。森の中で、あれだけの数の妖獣を斬り裂いてなおこぼれ一つせぬその剣は、この男が巫女姫キシルリリの守護を受けた妖獣狩人であるあかしだ。気難しい巫女姫のお気に入りでもあるらしいこの男の過去を知る者は、大神殿にはほとんどいない。剣のさやに刻まれた「聖竜の紋章」が、この男がかつては大神殿に仕える護衛であったことを物語るのみだ。


 ふわあっ、と顔を歪めて欠伸あくびをしながら大きな伸びをする男の姿に、青年が思わず苦笑する。

 緊張感の欠片かけらもない……

「レイスヴァーン殿、気を抜くのもほどほどにして下さい。あの小屋から漂う気配が高位の妖魔のものであることをお忘れなく」

 呆れたような声を上げる若者に、ちらりと視線を送った男が肩をすくめた。

「術師ハーラン、だったな。妖魔を相手にするのはお前の役目だろう? 悪いが、俺が我が師匠のように『術師崩れ』の妖獣狩人だなどと思ってくれるなよ。人の子と妖獣を相手にするのがやっとの傭兵だってことを忘れてもらっちゃ困る」


 にやり、と口元を歪めて意地悪な微笑みを浮かべる。その微笑み一つとっても成熟した男の色香を感じさせるとは、羨ましい限りだ……女のように線の細い己の貧相な身体つきに引け目を感じつつ、ハーランは、やれやれ、と大きなため息をついた。

「私だって、術師と言っても専門は『後代の術師のための学術書の記述及び研究』ですからね。実戦経験はおろか、使い魔を使役したことさえない私に多くを望まないで下さい」

 大神殿の書庫で、青白い顔をして分厚い学術書を読み漁る術師達の姿を、レイスヴァーンも目にしたことがある。

「そんなお前が、なぜここに居る? 俺は王都の娘を『惨殺した凶悪な』元護衛を捕らえるために夜の森を抜けて行く必要があるから、と駆り出されたんだが……表向きは、の話だがな」


 その「惨殺」された娘のせいですよ。私だって、望んでこんな面倒ごとに巻き込まれたわけじゃないんです。大神官様とキシルリリ様の気まぐれに、あなたも私も振り回されているだけなんですよ。ああ、もう、本当に面倒臭い……


 うっかり、そう答えそうになって、ハーランは言葉を呑み込んだ。

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