罪戯(つみざ)れ

 その夜。

 いつものように寝床に潜り込んで来た娘を温めようと、ザルティスは冷え切った身体を両腕でしっかりと抱き寄せた。

 気難しい表情をしたままの娘が、温かな胸に顔をうずめてありったけの力でしがみついてくる。炎の精霊達が見せた若者の記憶の名残りが、未だに娘の心をわずらわせているらしい。大きな手を強張こわばった小さな背中に沿わせて、解きほぐすようにゆっくりと動かし、娘らしい丸みを帯びた肩も優しく揉みほぐす。

 しばらくそうしているうちに、娘の身体からようやく力が抜け落ちていくのを感じた。


「ねえ、ザルティス」

 押し当てられた柔らかな唇からこぼれ出るくぐもった声と湿った吐息が、ザルティスの胸をくすぐる。それが妙に心地良くて、娘の背中に滑らせていた指に思わず力がこもった。一瞬、ぴくりと肩を震わせた娘が、はあっとため息をいて大きな胸に頬をり寄せた。

「いつの日か私も、あの少女のように、あなたを一人残してってしまうけれど……」

 胸の上に置かれていた小さな手が、ぎゅっと握りこぶしをつくる。

「約束よ、ザルティス。ずっとそばに居て」

 魂の奥底から絞り出された声に、黒髪の妖魔の心がきりりと痛んだ。

 妖魔であるザルティスの中に流れる時間は、人の子である娘のそれとは違う。同じ時の流れを分かち合うことなど出来ないのは互いに承知の上だ。それでも、肌を触れ合い温もりを感じるこの瞬間が、いつまでも変わらぬままであれば良いのにと愚かにも願ってしまう。



『「罪戯つみざれ」の子は、身の内に潜む妖魔の魂に人間の魂を少しずつ食べられながら成長していくの。魂が全て食べ尽くされてしまうと、その身体は妖魔のものとなって、人としての心は完全に消滅してしまう……ザルティス、私の愛しい子。そんな運命をあなたに背負わせてしまったこの母をうらみこそすれ、自分自身をさげすんでは駄目よ。あなたがこの世に生まれたのは、決して「たわむれ」などではないの。私がただ一人、心からお慕いした方が、私を求めて愛して下さった……あなたは、この母があの方に愛されたあかし。掛け替えのない私の子。愛しているわ、ザルティス』

 まるで己自身をさとすかのように、幼い息子に語って聞かせる母はとても美しくて、とても哀しそうだった。命尽きるその瞬間まで惜しみない愛を注いでくれた母の言葉を、ザルティスは今でもはっきりと覚えている。


 水面に映る己の姿は、物心ついた時から変わらず「魔の系譜」そのものだ。成長するにつれ、手脚の鉤爪は鋭く硬くなり、強靭な身体から生える漆黒の翼は重みを増した。

 それでも、ザルティスの心はザルティスのままだった。幼い頃から何も変わりはしない。「身体を失う前の、妖魔だった頃」の記憶など、ザルティスの中には欠片かけらもなかった。それどころか、「人の子の身の内に潜んで魂をむさぼり喰っていた」記憶さえない。

 自分が何者なのかも分からぬまま、ザルティスは森の妖獣達からは高位の「魔の系譜」として畏怖いふされ、人間からは「妖魔」として恐れられるようになった。


 ただ一つ確かなのは、腕の中にいる娘は人の子で、母と同じく「守るべき、はかなく愛しいもの」だということだけだ。

 いつの日か、人の子の世界をかたくなに拒み続ける娘の心を、底知れぬ愛情で解きほぐし、命ある限り娘と共に生きたいと願う者が、もう一度、娘の前に現れてはくれないだろうか。せめて、それまでは……


 安らかな寝息を立て始めた娘の髪にそっと口づけを落とすと、ザルティスは小さな身体を抱きしめる腕に力を込めた。

「約束だ、シルルース。お前が我を必要とする限り、お前のそばに居よう」



***

 


 翌朝、小麦と一緒に男物の服を届けに来たのは、妙齢の娘を連れた村のおさだった。頬を染めてうっとりとザルティスを見つめる娘に、父親は荷台から食料を入れた籠を持ってくるように言いつけると、おずおずと口を開いた。

「あのお、ザルティス様。旅のお方をかくまっていらっしゃるとか……お若い方で?」

「なんだ、村ではもう噂になっているのか?」

 妖魔が少し眉をひそめると、長は慌てた様子で両手を何度も横に振った。

「あ、いえいえ、そうではなくて……わしらの村には若い奴らがおらんのは、ザルティス様もご存知でしょう?」

 ちょうど一年ほど前。『国境の小競り合いを収めよ』との王命で否応いやおうなしに「ティシュトリア兵」として駆り出された若者達が、故郷の土を二度と踏むことがなかった悲劇は、ザルティスも覚えていた。

「あれは儂の一番下の娘でしてね。もう嫁に行ける年頃だと言うのに、丁度良い相手さえ見つけてやれんのが、口惜しいやら、情けないやら……もし、旅のお方が若く健康なのであれば……その……娘と所帯を持って村に留まって頂けないものかと」


 切羽詰まったような長の言葉に耳を傾けながら、ザルティスは重そうな籠を抱えて歩み寄る娘をいたわるように手を貸すと、優しい微笑みを向けた。

「期待を裏切って悪いが、年老いた醜い男でな。年若く愛らしいお前のような娘には相応ふさわしくない」

 妖魔の美しい微笑みに魅入られて、娘が切なそうに吐息をらした。その姿に、父親の顔が悔しそうに歪んだ。

「そうですか。まあ、そう上手い話があるはずもないと思ってはいたんですがね……働き盛りの男どもは、どこの村でも兵に取られて帰って来やしません。年寄りと女子供だけで田畑や家畜を守るのは、もう限界に近いってのに……領主様は王様のご機嫌伺いに必死で、儂ら農民ふぜいの命など、虫けらほどにも思っちゃあ……」

 領主と王に対する不満を怒りに任せてちまけた長が、目の前の妖魔の射るような視線に気づいて、はあっ、と大きく息を呑み、小刻みに震える両手で口元を覆った。

「長よ、この辺りの結界は堅固に編み上げられてはいるが、使い魔に聞かれて困るような言葉は慎しむことだ。疑り深い人の子らのことだ、どこに術師の監視の目が光っているか分からぬのでな」

 普段の穏やかさとは程遠いザルティスの冷ややかな声が、男を震え上がらせた。


「それくらいにしてあげたら、ザルティス? おびえているわよ」

 薬草と精油を入れた籠を手にして現れた娘が、黒髪の妖魔の背中越しに長の様子を伺い見る。

「ザルティスの言ったことは正論なのだけれど、長の怒りももっともだもの」

 父親の隣で不安そうに事の成り行きを見守っていた娘に近寄って薬草の籠を差し出すと、薬師の娘は見えぬはずの瞳を真っ直ぐ長に向けた。

「数日前から、『街道』を外れた森の脇で野営をしている傭兵達がいるの。元はアルコヴァルの王都軍に所属していたようだけれど」

「……え? 傭兵って……薬師さま、そいつら、脱走兵じゃあ……」

「いいえ、違うわ。契約が切れて軍を離れただけだと思う」 

 精霊の目を通して娘が見た彼らの姿は、度重なる戦役でやつれ果て、生きる希望にすがりつく気力さえ失われていた。気配から察するに、いくさに追われ、生き延びるために傭兵に身をやつすしかすべがなかった者達だろう。生粋の戦士特有の、あの「匂い」もまとってはいない。

「誰もが長すぎる戦いの世にうんざりしているのよ。傭兵だってあなた達と同じ人の子だもの。心安らげる場所があるのなら、そこに留まりたいと思うはず……迎えを出してみてはどうかしら?」




 傭兵達の野営地がある辺りの地形を娘に告げられ、父娘おやこはいそいそと村に戻って行った。その姿を切なそうに見送る妖魔の黒髪を、娘が突然、ぐいっと引っ張った。不意を突かれて、ザルティスは思わず小声で悪態を吐く。

「……娘よ、『魔の系譜』とて痛みは感じるのだぞ」

 妖魔の黒髪を握りしめたまま、娘はなぜだか鼻をひくつかせながら水車小屋の方を振り返った。

「ねえ、ザルティス……なんだか、匂うんだけれど」

 言われてみれば……とほんの少し首を傾げたザルティスの表情が、見る間に輝きを増した。

「ああ、このかぐわしい香りは……! 娘よ、やはりあの男、拾った甲斐があったぞ」

 言うが早いか、ザルティスは嫌がる娘を軽々と抱え上げ、期待に胸を躍らせながら大急ぎで小屋の中へと戻って行った。



***



 たっぷりの卵と少しばかりのミルクを混ぜ合わせ、しゃかしゃかと木製のさじでしっかりと泡立て、いろりに掛けておいた鉄製の深鍋に静かに流し入れてふたをすると、真っ赤に焼けた炭火を蓋の上に敷き詰める……しばらくして、香ばしい匂いが辺りに漂い始めると、キリアンは満足そうな笑顔を浮かべて大きくうなずいた。


 匂いを辿って姿を現した上機嫌な妖魔と、横抱きにされたまま妖魔の首にしがみつく不機嫌な表情の娘を横目に、キリアンはちょうど良い加減に蒸し焼きにされたオムレツを慣れた手つきで鍋から取り出し、大皿に盛りつける。

「ああ、丁度良かった。今、お二人を呼びに行こうと思っていたところだったんだ」

 にっこりと微笑みながら、手際よく切り分けたオムレツをザルティスの目の前に差し出した。

「お世話になったお礼です。口に合うと良いのだけれど……これはザルティスに」

 湯気が立ち昇るふわふわの黄色いかたまりを感慨深げに見つめていた妖魔が、おもむろに手にしていた匙で掬い上げ、ぱくりと食らいつく。口の中でほろりととろける甘みに魅了された妖魔は、無言のまま二口ふたくち目を口にした。

「これは……ええと、あなたに」

 困惑の表情を浮かべた娘が差し出された温かなオムレツの皿を受け取るのを見つめたまま、今更ながらに娘の名を知らないことに気づいたキリアンが、はにかむような表情を浮かべた。

「出来れば、名前を教えてくれないかな。僕があなたを『娘』と呼ぶわけにもいかないし」


 一口、甘く香るオムレツを口にして、娘は驚いたように瞳を見開いた。

「……美味しい」 

 ザルティスが、にやりと口元に笑みを浮かべて、娘の髪をくしゃりと撫でた。過保護な妖魔の大きな手をわずらわしそうに払いのけると、娘はそっとささやいた。

「シルルース。それが私の名前」

 

 教えられた名を口の中で何度か転がしていたキリアンが、突然、何かを思い出したように声を上げた。

「シルルース……盲目の、シルルース? まさか……あの、『夜闇の巫女』?」

 もう一口。口の中に広がる甘い香りは、目の前にいる若者の心の香りと同じだわ……シルルースは戸惑いながらも小さな微笑みを浮かべた。

「さすがは大神殿の護衛、懐かしい名をご存知ね……そう呼ばれたこともあったけれど。今は、ただの世捨て人よ。『薬師』と呼んでくれれば良いわ」

「でも、シルルース……」

 薄紫色の瞳に見つめられて、言い知れぬ重圧感にキリアンは思わず口をつぐんだ。

「名は人となり、人は名に縛られる。呪われた巫女の名は封印されるべきなのよ。二度とその名を口にしないで」


 口の中にふわりと広がる甘い香りにほだされて、娘の声がいつもの冷ややかさを欠いたことに気づいたザルティスが、面白そうな表情を浮かべた。

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