約束の記憶

 小屋の入り口にしゃがみこむ若者を見据えていた娘がおもむろに動き出すのを見て、ザルティスはたしなめるように冷静な声で告げた。

「娘よ、程々にな。相手は怪我人だ」

 一瞬、足を止めた娘が、ほんの少し首をかしげる。

「時として、お前の言葉は毒となる。今のお前は『薬師くすし』であって、巫女ではないのだぞ」

「……そんなこと、分かっているわ」

 振り返りもせずに言葉を返すと、娘は若者の方へと歩みを進めた。

 


「こんな所で何をしているの?」

 感情を一切持たぬ娘の声に、びくり、と身を震わせながらも、キリアンは川岸の男の子と黒髪の妖魔から視線を逸らさず、息苦しさをこらえて声を絞り出した。

「あの子は……大丈夫……なのか?」

 キリアンの言葉に、娘が顔をしかめる。

「お人好しもここまで来ると、愚かなだけね。あなた、自分が置かれている状況を理解しているの?」

 若者の顔を覗き込むように身を屈めた娘の顔に、同情とも憐みともつかぬ表情が浮かんでいる。

「ここは『街道』から離れた場所だから、滅多に旅人も通らない。その分、他所者よそものは目立つのよ。あなたのことが村人達の噂話にでもなれば、『天竜の統べる王国ラスエルクラティア』の術師達が大陸中に放っている使い魔の耳に入る可能性は否めない。そうなれば、あなたを追っていた者達がここを見つけるのも時間の問題でしょうね」

「待ってくれ、なぜ……ラスエルクラティアだと……なぜ、僕が追われていたと知っているんだ? そんなこと、僕は一言も……」

 驚愕の眼差しを向ける若者の言葉をさえぎるように、娘がそっと手を伸ばす。夜着の下にある何かを探るような手つきで胸元に触れながら、娘はキリアンの耳元に唇を近づけてささやいた。

「王都を一度ひとたび離れたら、聖竜の紋章は人目に触れぬよう隠しておくものよ。そのちっぽけな護符に、あなたの命以上の価値を見出す者がこの大陸には大勢いることを覚えておきなさい、キリアン・ネスグレンタ」

 凍える声が己の名を呼んだ瞬間、キリアンは身体中の血が逆流するような感覚を覚えた。思わず大きく息を呑み込むと、得体の知れぬ「魔」から逃れようと娘から身を引いて後退あとじさりする。

「王都のやからに気づかれる前に、早く部屋に戻って。ザルティスと私を厄介ごとに巻き込まないで」

 娘は冷ややかな表情を浮かべたまま身を起こすと、何事もなかったようにキリアンの脇をすり抜けて小屋の中へと入った。



***



 震える息子を抱きしめたまま、感謝の祈りを繰り返す父親をなんとか荷馬車に乗り込ませると、ザルティスは馬の手綱を少年に手渡した。

「この小川の水に二度と触れぬよう、弟によく言って聞かせるのだぞ」

 少年は青ざめた顔でこくりとうなずくと、器用に馬を御しながら村に続く小道を戻って行った。



 小舟を川岸に繋ぎ止めて小屋に向かったザルティスの目に映ったのは、立ち去っていく娘の後ろ姿を青ざめた表情で見つめる若者だった。恐らく、あの娘が紡ぎ出す言葉に圧倒されでもしたのだろう。

 相手を威圧するための物言いは、神殿で暮らす間に「盲目の憐れな小娘」とあなどられぬよう身につけたものだ。見知った村人相手ならば無愛想ながらも身構えることのなくなった娘も、見ず知らずの者には「言葉のよろい」をまとう癖が抜け切れずにいる。ここに来た頃と比べれば、これでも随分と柔らかくなったのだが。


 困ったものだ、と少しだけ肩をすくめてため息をつくと、ザルティスは出来るだけ穏やかな声で若者に語りかけた。

「まだ動き回らぬ方が良いぞ。腕の傷にさわる。手を貸そう……立てるか?」

 ザルティスが差し出した手を取ろうとした若者が、しなやかな指先に光る鉤爪に気づいて、わずかにひるんだ。妖魔は眉をしかめて眼を細めると、整った唇の片端を吊り上げて冷淡な笑みを浮かべた。

「大神殿の護衛ともあろう者が、『魔の系譜』に恐れをなすとは。お前たち大陸の民が神と奉ずる天竜ラスエルが妖魔の王であることを知らぬわけでもあるまい」

 森の中で、そして、あの川岸で、漆黒の翼を持つ得体の知れない獣だったものが、今は人の姿で、大陸の共通語を流暢に操りながら語り掛けてくる……目の前にたたずむ黒髪の男が人の子であるわけがない。

 キリアンの背筋に冷たいものが走った。


 古来より、大陸の創世神話は吟遊詩人の手で様々に飾り立てられながら語り継がれてきた。現在の「正統にして唯一の創世神話」と呼ばれるものは、ラスエルクラティアの神官達が「青き聖竜ラスエル」を世界の創造主として伝承を系統立てて書き記し、後世に伝えたものだ。大神殿に仕える者は皆、これをそらんじることを責務とされている。

 早鐘を打つような鼓動に胸を締め付けられながらも、キリアンはありったけの冷静さを掻き集めて、ラスエルとその眷属についての伝承を思い出そうと考えを巡らせた……


 「聖なる天竜ラスエル」は人と魔の世界の調和を乱すものがないよう、「狭間」に繋がる数多あまたの世界の何処かで、常にこの世界を見つめているという。

 ラスエルの眷属けんぞくたる「魔の系譜」の中で、天竜の意思を伝えるべく人の姿に身をやつして地上に降り立った「妖魔」は、大陸にまうあらゆるものの頂点に立ち、高潔にして狡猾こうかつ、時に気まぐれで、時に慈悲深く、冷酷な美しさを誇る種族だ。

 強大な力を持つ彼らを「使い魔」として従属させるなど、人の子ならば狂気の沙汰だ……そう考えるのが尋常とされる大陸で、スェヴェリスの民は己自身を代償に妖魔と「魂の契約」を結ぶ。

 妖魔は使い魔となる代わりに、術師の命が果てた時、その魂をむさぼり喰う。魂を失っては「安息の地」に旅立つことが出来ず、再びこの世界に人の子として生をけることも叶わない。自我は消え去り、この世界に人として存在していた事実さえ無に還る。

 自己犠牲をいとわぬ者だけが、強大な力を手にすることが出来る……その信条が、優れた術師を多く生み出すスェヴェリスを「忌むべき妖術師の王国」と呼ぶ所以ゆえんである。



 森の外れの粗末な小屋には不釣り合いな、妖しいほどに美しい容貌を持つ男が妖魔であることくらい、キリアンでも察しがついた。だが、小麦の粉だらけの上衣を気にも留めず、村人から譲り受けた野菜や果物、焼き菓子などが詰められた大きな籠を大事そうに抱え持つ長身の男からは、冷酷さの欠片かけらも感じられない。


 宝玉を思わせる翡翠色の瞳に「魔の系譜」のあかしである縦長の瞳孔さえ浮かんでいなければ。そして、しなやかな指先に光る鋭い鉤爪さえ目にしなければ、年頃の娘達がこぞってこの男の気を引こうとするだろう。

 まだ年若い娘が妖魔と二人、人目を避けるように暮らしている。となれば、あの娘は術師で、黒髪の妖魔が娘の使い魔であると考えるのが妥当だろう……


 キリアンは娘の冷ややかな声を思い出して、ぶるりと身を震わせた。


 心を凍えさせたあの声も、紡ぐ言葉の一つ一つに呪詛を練り込むと言われる術師ならば不思議はない。それでも……二人に助けられなければ、僕は今頃、あの森の中で朽ち果てていた。



「……申し訳ない。少し驚いてしまって」

 キリアンは気まずそうな表情を浮かべながらザルティスの手を取って立ち上がると、胸元に右手を置き、妖魔の翡翠色の瞳から視線を逸らさずに軽くこうべを垂れた。

「助けてもらっておきながら、礼を欠いた態度を取ってしまった。我が非礼をお許し頂きたい」

 貴族らしい優雅な物言いに似つかぬ引きつった微笑みを浮かべる若者に、ザルティスは思わず口元を緩めた。


 なるほど。娘の言う通り「けがれてはいない」ようだ。この若者がまとう空気はどこか危うげで、剣を持つ者としてはあまりにも優し過ぎる……

「お前の考えは至極しごく真っ当ではある。残念ながら、あの娘はただの薬師だがな」

 心の声を読まれていた事に気づいて、キリアンの顔が真っ赤に染まる。

「夜の森を『得体の知れぬ』獣と共に歩き回るような娘だ。術師や妖魔と間違えられても仕方あるまいが……ああ見えて、人の情けは持ち合わせているのだよ」

 若者を引っ張り上げるようにして立たせると、左腕に巻かれた布にちらりと目をやって、ザルティスは悪戯っぽい笑みを浮かべながら声をひそめた。

「傷が癒えるまでここに居たければ、余計な詮索はせぬことだ。くれぐれもあの娘の機嫌を損ねぬようにな」



 それから三日間、キリアンは部屋から抜け出す事もなく、大人しく寝台に横たわったまま過ごした。

 娘の寝台を占領していることをび、何事につけても感謝の意を笑顔で表す若者を前にしても、娘の無愛想さが変わることはなかったのだが……


 ザルティスが驚いたことに、キリアンは娘の作ったスープを文句のひとつも言わずに平らげた。それどころか、「食べたことのない、不思議で懐かしい味」と評してみせた。

 途端に、いろりのそばの椅子に腰かけてマトリカ茶を飲んでいた娘が、寝台の上で身を起こしてスープを口に入れる若者をにらみつける。

「食べたことがないのに懐かしいだなんて、矛盾した事を言わないで。ザルティスみたいに、不味いなら不味いとはっきり言えば良いのよ」

 娘の足元の床に座り込んで蜂蜜酒を堪能していた黒髪の妖魔が、ほんの少し肩をすくめて若者に視線を向けた。キリアンは一瞬、娘の剣幕に戸惑うように目を丸くした。が、スープの皿を置くと、少し恥ずかしそうに娘に笑いかけた。

「言われてみれば、確かにそうだね。今までに食べたことがない味なんだけれど、昔、僕の妹が作ってくれたスープも、こんな風に不思議な味がしたのを思い出したんだ。彼女はあまり料理が得意じゃなかったのだけれど」

 暗に自分の料理の腕を批判されている気がして、娘は一層、顔をしかめた。

「でも、僕のために一生懸命、心を込めて作ってくれたんだ。それだけで、とても美味しく感じたんだよ」

 そう言うと、キリアンはまた少しずつ、スープに口をつける。


 眉間に深いしわを寄せて「められているのか、けなされているのか分からない」と心の中で葛藤する娘を、ザルティスは面白そうに眺めながら、若者の表情が少しだけ明るさを失った気がした。

「妹がいるのか?」

「……いた、と言うのが正しいかな」

 娘の肩が、ぴくり、と跳ね上がった。ザルティスは大きな手を伸ばすと、大丈夫だ、とでも言うように、娘の小さな膝を優しく撫でる。

「生まれつき身体が弱くて……三年前の冬、『魂の安息の地』に旅立ってしまった。まだ、たった十三歳だったのに」

 一瞬、炉の炎が激しく燃え上がった。

 緋色の精霊達が娘の心に語りかけながら、若者の記憶を手繰たぐり寄せては次々と炎の中に浮かび上がらせていく……



 黄金色の髪は兄のそれに似て、明るい陽の光を思い起こさせる。波打つ長い髪を風に揺らしながら、記憶の中の少女が大好きな兄に優しく微笑みかける。

 花のように愛らしい妹が、病に侵され少しずつ朽ちていく……その姿を傍らで見守り続けるしかない兄の苦悩に気づいて、少女は最後まで微笑みを絶やさずにいようと心に決めた。身体は痩せ衰えても、魂の輝きまで失ないたくはなかったから。

 やがて、少女の自慢だった美しい髪が次第に色艶を失っていく。

『兄さま、いっそ、切り落としてしまって』

 肩にかかる髪を哀しげに指に絡めとりながら、少女が懇願する。

『心配しないで。髪なんてすぐに伸びるわ』

 まるで、自分自身に言い聞かせるように、静かに微笑みながら。

 腰まであった髪をばっさり切り落とし、一房ひとふさ手にとっては光沢のある絹の紐と一緒に器用に編み込んで小さな輪を作る。それを丁寧に油紙で包みながら、愛しげに微笑みを浮かべる。これは兄さまへ。これは姉さまへ……魂が「安息の地」に旅立ってしまっても、こんな弱い身体に生まれてしまった自分をいつくしんでくれた家族の元に、短いながらも確かに共に暮らしたのだというあかしが残るように。

 「狭間」の最果ての、その先にある彼の地で浄化された魂が再びこの世界に戻る時、青空を見上げながら野を駆けることが出来るくらい健やかな身体に生まれ変わって、もう一度みんなに出逢えるように……



 炎を見つめる薄紫色の瞳が潤むのに気づいて、ザルティスは手を伸ばして娘の頬を優しく撫でると、流れ落ちる涙をそっとぬぐった。




『約束よ、兄さま。ずっとそばに居て』


 最愛の妹の声が聴こえたような気がして、キリアンは顔を上げて不思議そうに辺りを見回した。

 炉の前にひざまずくザルティスの首に、黒髪の娘がしがみついている。妖魔は何事か娘の耳元でささやきながら、小さな身体を抱きしめて優しく揺すり続けていた。

 その姿が、かつての自分と妹を思い起こさせて、キリアンの胸の奥がきゅっと痛んだ。

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