精霊の落とし子

 初めて娘に連れられて、その世界に足を踏み入れた時、さすがのザルティスも驚嘆したものだ。

 銀色の虚空に浮かぶ煌めきの一つ一つが精霊たちの記憶の欠片なのだ、と娘が教えてくれた。

「それを繋ぎ合わせていくと、精霊達が話してくれた記憶の場所に辿り着くの。この世界は、彼らの記憶が散りばめられた星空のようなものね」


 見えざるものが見つめる世界。 


 「狭間はざま」に繋がるどの世界にも属さず、「魔の系譜」でさえ精霊の許しなしに足を踏み入れることの出来ぬその場所は、精霊達が自然の中で生まれ、自然の中に還っていくまでの記憶を刻んだ世界だ。盲目の子として生を受けた娘が、その世界を通して「大陸」の姿を見つめるようになったのがいつのことだったのか、彼女自身、覚えていないらしい。




「人の子なんて、勝手なものよ」

 いろりの炎にたわむれる小鳥のような姿をした緋色の精霊達にせがまれて、新しい薪をべてやりながらも、娘の心はこの水車小屋ではない何処か他の世界を漂っているらしい……ザルティスがそう確信するのは、以前にも、同じ言葉を聴いたことがあるからだ。

 どうやら、娘のマトリカ茶に気づかれぬように入れた蜂蜜酒が効いたようだ。炎の暖かさを感じる場所に置かれた椅子に腰掛けている娘のそばに座り込んだまま、黒猫ザルティスは素知らぬふりで耳をぴんと立て、酒の力を借りて普段よりも饒舌じょうぜつになった娘を見守ることにした。


「幼い頃には誰でも彼らの姿が見えたはずなのに……いつの間にか、精霊が棲む薄明かりの世界を恐れるようになって、彼らの歌声に耳を傾けるのを止めてしまうの。そして、彼らの存在を感じることが出来ない大人になって、妖魔の王である天竜ラスエルを神と崇め、その存在を感じることが出来る者を『術師』や『神官』『巫女姫』と呼んでうやまうくせに、彼の眷属である『魔の系譜』を忌み嫌い、精霊を身近に感じることが出来る者を『精霊の落とし子』と呼んでさげすむのよ。おかしいでしょう?」

 そう言って、寂しそうに微笑む娘の顔を見たのは何度目だろう。


 ここで暮らすようになるまで酒とは無縁だったおかげで、ほんの少しの蜂蜜酒が、全てを忘れさせる眠りへと娘を誘い込んでくれる。朦朧とした意識の中で、娘は思い出したように同じ言葉を何度も紡いでは寂しそうに微笑むのだ。ザルティスはその微笑みをまぶたに何度も焼き付ける。二度とそんな顔はさせまいと、心に誓いながら。


 少しだけ、他とは違う。

 ただ、それだけで思い知らされる、底知れぬ孤独。

 娘の心をむしばみ孤立させていたものは、ザルティスが遠い昔に感じていたのと同じものだ。だからこそ愛しくて、つい、過保護なほどに守ってやりたくなる。



 ぶるり、と身を震わせて黒猫から姿を変えた黒髪の妖魔は、娘の寝床を占領して眠る若者の穏やかで規則正しい寝息に耳を傾けながら、椅子にもたれ掛かって眠り込んでしまった娘に視線を向けて苦笑いを浮かべた。

「仕方のない子だ」

 ザルティスは長身の体躯を屈めて娘の背中に片腕を回し、もう一方の腕で小さな両膝をすくい上げると、娘の頭を大きな手で支えるようにして胸元に引き寄せ、そっと抱き上げた。

 ほんの一瞬、身をこわばらせた娘が小さな吐息を漏らす。

「……ヴァンレイ」

 あえぐように、愛しげに、その名を呼んだ娘の頬に涙がこぼれ落ちた。



 ああ、やはりな。あの時、エルランシングの名など出すべきではなかった……


 ザルティスは思慮に欠ける己の言動にほとほと呆れ果てながら、娘の艶やかな髪に顔をうずめて起こさぬように唇を押し当てると、ゆっくりと自分の寝所へと向かった。



***



 窓から差し込む日差しの暖かさに誘われるように、娘はゆっくりと目を覚ました。


 いつもとは違う、だが慣れ親しんだ薬草の香りが辺りに漂っている。どうやら、自分が寝そべっているのがザルティスの寝床らしいと気づいて、娘は気まずそうに眉をしかめると、すぐ隣の空間に手を伸ばした。

 つい今し方までそこに居たはずの温もりを手のひらに感じながら、黒髪の妖魔の気配がこの部屋にはないことを察して、娘の表情が不機嫌さを一層増す。

「……起こしてくれれば良いのに。本当に気が利かないんだから」

 

 娘はむっくりと起き上がって大きな寝台から抜け出すと、絡んだ長い黒髪を解きほぐそうともせずに、そのまま別の部屋へと向かった。

 壁に作りつけられた棚の上には様々な種類の薬草を入れた木箱と精油の壺が整然と並べられ、天井からは色鮮やかな草花を束ねたものが吊るされている。まるで小さな治癒院のような部屋の隅に、娘がいつも寝起きする寝台が置かれていた。

  その上で眠っている若者のゆったりとした寝息を聴きながら、額にそっと手を乗せて熱がないことを確かめる。この分なら、今日中に眼を覚ますだろう。追っ手がこの場所を見つけ出す前に、この若者が動けるようになってくれると良いのだけれど……そう思いながら、娘は静まり返った部屋の気配を伺った。

 緋色の精霊達の気配が消えた炉の炎は今にも消えかけそうで、娘は新しい薪を多めにべた。春とはいえ、厳しい気候で知られるティシュトリアとの国境に近いこの森の朝晩は冷える。オトゥール山脈より西の温暖な国で生まれ育った娘にとって、この寒さはかなりこたえるのだ。おかげで、真冬の間、毎晩のようにザルティスの寝床に潜り込んで暖を取るのが習慣になってしまった。

 この若者がアルコヴァルを守護する「北の砦」の生まれだとすれば、部屋を暖めておくに越したことはないだろう。


 昨夜まで炉に掛けてあったはずのスープの鍋はザルティスが片付けたようだ。不味い、と文句を言いながらも、娘の作った料理は必ず平らげる。妖魔なのだから、かてとなる瘴気に満ちあふれた「狭間」でしばらく過ごせば自然に腹もふくれて、人の子のように食事などせずとも済むはずなのに。どうやら、「食べる」と言う行為自体を楽しんでいるらしい。

 人の子と妖魔の間に生まれた「罪戯つみざれ」のザルティス。「魔の系譜」である息子を生涯変わらぬ愛情でいつくしんでくれた母を懐かしむかのように、母と暮らしていた頃の習慣をめようとしない風変わりな妖魔を探して、娘は小屋の外に出た。

 


 風の精霊達が、小川のせせらぎと共にザルティスの声を娘の耳元に運んでくる。

 誰かに話し掛けているらしいその声は、娘と居る時とは違って低く落ち着きのある響きを持つ。己が妖魔であることを誇示する際にザルティスが好んで使う声色だ。という事は、相手は精霊や「魔の系譜」ではなく、ただの人の子だ。恐らく、小川を越えた先の村から三日おきに訪ねてくる村人だろう。


 村で取れた小麦を預かって水車小屋で挽き、粉を受け取りに来る村人が病や怪我で倒れた者達の様子を娘に伝え、必要に応じて娘が薬草と精油を分け与える。代わりに、ここでの生活に必要なものを村人が届けてくれる……いつの頃からか定かではないが、村人達と「水車小屋のあるじ」との間で取り決められた約束なのだ、とザルティスから聞いたことがある。

 ティシュトリアの王都から遠く離れ、術師はおろか小さな治癒院さえない辺境の農村の住民からすれば、水車小屋に住む「世捨て人の薬師」は貴重な存在らしく、娘の無愛想さなど気にも留めず、多少無理な頼みでも快く引き受けてくれる。ザルティスを妖魔と知っても恐れる様子など微塵みじんも見せない。まあ、黒猫の姿で腹を出して日向ぼっこしているのを見られては、「この妖魔は恐れるに足りぬ」とあなどられても仕方がないのだが。


 小川の向こう岸に荷馬車を止めた男と少年が、粉を詰めた麻袋が積まれた小舟を岸に引き寄せているところだった。こちら岸は小川に沿って水車小屋を囲むように結界が築かれているため、村人達もおいそれとは近づけない。そのため、必要なものは小舟に乗せて受け渡す決まりだ。

 父親と兄が働くそばで水の精霊達がたわむれている姿を、荷台に座っている幼い男の子が瞳を輝かせながら見つめている。


 小舟に乗り込んだ少年から麻袋を受け取って荷台に積み上げていた父親が、ふらりと現れた娘の姿に気づいて、少し困ったように照れ笑いを浮かべた。

「おはようございます、薬師様。その髪……また寝起きのままですかい? ザルティス様が嘆かれるのも分かるような気がしますなあ」

 その言葉に、黒髪の妖魔が渋い顔をして大きくうなずく。

「妙齢の娘だという自覚がまるでないのだよ。困ったものだ」

「自分の姿なんて見えないもの。気にしないわ」

 絡み合った黒髪を、ふわり、ふわり、と風が持ち上げる。その度に収拾がつかなくなっていく娘の長い髪を見かねたザルティスが、自分の髪を束ねていた革紐を解くと、娘の髪を簡単に手でいて一つに束ねてやった。

「お前が気にせずとも、こちらが気になるのだよ……」

 小さなため息をつくと、ザルティスは村人の方を振り返った。

「実は、森の中で行き倒れになっていた旅人をかくまっていてな。身ぐるみ剥がされていたから、次に来る時、男物の衣服を見繕みつくろって貰えるか? それと、この子のために新しいくしを頼む。以前、我がやったものは水の乙女達に与えてしまったらしい」

 分かりました、と苦笑する父親の前で、水の精霊達から水飛沫しぶきを浴びせられてずぶ濡れになった男の子が、急に荷台から飛び降りて岸辺に駆け寄った。父親が止める間もなく、応戦しようと身を屈めて両手を水面に差し出し、小川の水を掬い上げる……


 刹那、水の精霊達が嬌声を上げながら長い鉤爪のついた手で男の子の両腕を掴み取り、ぐいっと水底に引きずり込んだ。

 ぞっとするような乙女達の笑い声が辺りに響き渡る。


 目の前で息子の身体が冷たい水の中に呑み込まれるのを見た父親が鋭い叫び声を上げ、息子を取り戻そうと必死の形相で小川に飛び込んだ。が、素早く巨大な黒豹に姿を変えたザルティスが前脚で父親の身体を掬い上げ、岸に押し戻した。

「ザルティス様! 息子が……シュレムが、まだ水の中に……! 助けないと……お願いです、シュレムを助けて下さい!」

 半狂乱になって叫び続ける父親を押さえつけたまま、ザルティスは向こう岸にいる娘に視線を向けた。


 水際にひざまずいて静かに息を吐き出しながら、娘は水面に向かって屈み込んだ。

 まるで新しい玩具おもちゃを手に入れた子供のように、もがき苦しむ男の子を捕らえて離そうとしない水の精霊達の姿を、見えざるものを見つめる娘の瞳が追って行く……

 ゆっくりと何かを探るように片方の手を水の中に入れた娘の、有無を言わさぬ響きを持つ声が水面を揺らした。

「駄目よ。その子を返して」



***



 この世のものとは思えぬ不気味な女の声で、キリアンは目を覚ました。

 一瞬、自分が何処にいるのか分からず、混乱に身を震わせながら必死で起き上がった。が、左腕の痛みに大きなうめき声を上げると、再び寝台の上に崩れ落ちてしまった。


 見上げる先に、色とりどりの野の草花が吊り下げられている。恐る恐る辺りを見渡すと、木箱と壺が並べられた棚が目に入った。辺りに漂う薬草のような、少し刺激のある若草の香りに、キリアンは少しずつ冷静さを取り戻した。

 あの娘と黒い獣に連れられて、森を抜けたところまでは覚えている。血塗れだったはずの左腕には白い布が巻かれ、身に着けているのは、砂埃と汗で汚れた衣服ではなく、清潔な香りのする夜衣やいだ。


 いったい、誰が……まさか、あの娘が……?


 そう思った瞬間、恥ずかしさでキリアンの身体が、かあっと熱く火照った。

 もう一度、今度はゆっくりと起き上がって辺りを見回す。部屋の壁にめ込まれるように作られたいろりの火が赤々と燃えている。おかげで、部屋の中は心地良い暖かさに保たれているようだ……あの娘の気遣いだろうか。


 誰かの名を呼ぶ男の叫び声が聴こえた。大陸の共通語で「悪戯っ子」を意味する「シュレム」は、平民出身の男子に多い名だ。

 ぼんやりとそんな事を考えながら、男の声に耳を傾ける。

『……息子が……シュレムが……まだ、水の中……助けて……!』


 その意味を理解した瞬間、キリアンの身体が自然に動いていた。

 寝台から飛び降りると、裸足のまま左腕を庇いながら、声のする方へと駆け出した。が、扉を開けて外に出ようとした瞬間、酷い目眩めまいに襲われ、その場にしゃがみ込んでしまった。

 呼吸を乱し、割れるような頭の痛みと左腕の疼きに顔を歪めながら、キリアンは何が起きているのか見定めようと目を凝らした。



 水辺にひざまづいている娘の細い手が、水面から顔を出した男の子の腕をしっかりと掴んでいる。

 向こう岸では、粗末な衣服を身に着けた農民らしき男を、大きな黒い獣が押さえ付けていた。泣き叫ぶように天竜への祈りを捧げ始めた男をその場に残して、漆黒の翼をばさりと広げた獣はこちら岸に飛び移ると、男の子の身体を水の中から引き上げて、そっと岸辺に横たえた。塗れた身体をぶるりと震わせた途端、端正な容貌の男の姿が獣に取って代わる。

 激しく咳き込みながら苦しげに水を吐き出す男の子の背を優しくさすってやる妖魔の隣で、黒髪の娘が静かにたたずんだまま、凍てつく薄紫色の瞳でキリアンを見据えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る