聖竜の紋章

 少しほろ苦い若草の香りが、煙道を伝って風に運ばれ、森の木々の間を抜けていく。


 周辺に張り巡らされた結界と黒い妖魔の気配で水車小屋は守られている。とは言え、血の匂いを辿たどってやって来るのは森の獣だけではない。

 ザルティスが切り裂いた衣服の残骸と一緒に、猟犬や使い魔の追っ手から逃れるために術師達が使う臭い消しの薬草をいろりべながら、娘は寝台に横たわる若者の寝息に耳を傾けた。先程まで息苦しそうにあえいでいたのが嘘のように、ゆっくりと静かな呼吸を繰り返している。毒消しの薬が効いたのか、ようやく深い眠りに落ちたようだ。

「運が良いわね、あなた」

 眠り続ける若者の傍らに腰掛けて、娘は静かにつぶやいた。


 傷自体はそう深くはなかったが、傷口から甘酸っぱい毒の香りが漂っていた。狩人が獲物の動きを鈍らせるために使う薬草の匂いだが、王都軍の兵士が罪を犯した者を捉えるために使うこともあると聞いたことがある。

 追跡者の手をなんとか逃れたものの、森の獣の餌食となるはずだった命だ。やはり、拾うべきではなかったのかもしれない。

「自然の摂理に逆らっていなければ良いのだけれど……」

 


「お前が気に病むことではないぞ」

 若者の傍らで片方の翼を広げて毛繕いをしていた黒猫が、さとすような声で語りかけた。

「そいつが己の足で勝手にここまでついて来た。あのまま森の中で果てるべき命ではなかった、と言うことだ」

 若者を娘の部屋に運び入れて寝台に横たえた後、翼のある小さな家猫に姿を変えた妖魔ザルティスの喉を優しく撫でてやってから、娘は少し眉をしかめて大きなため息をついた。

「そうなら良いけれど……どちらにせよ、厄介ごとはごめんだわ」


 ザルティスが水の精霊達の戯れからようやく解放されたのは、既に日も高くなってからのことだ。

 乙女達の手で丹念に身体の隅々まで清められたらしく、頭のてっぺんから尻尾の先まで艶々と輝く漆黒の毛皮は、極上の絹糸のような肌触りだ。「毛皮が乾くまで」と午後の大半を温かな岩場の上に寝そべって過ごしていたからか、黒猫の身体からは春の木漏れ日の香りがした。 

 夢でも見ているのだろうか。若者がうめき声を上げて小さく身震いした。その拍子に、首に掛けられていた銀の鎖が、しゃらりと軽やかな音を立てて揺れた。翡翠色の瞳を眠たげに細めていたザルティスが、ぴくりと耳を動かす。

「娘よ、その鎖につないである、それは何だ?」

 何のことかといぶかしがりながらも、娘は若者を起こさないように細い指でそっと鎖をなぞる。ふと、そこにある銀貨ほどの大きさの冷たく固い触感に手を止めた。

「護符……かしら?」

 円形の上に刻まれた凹凸の上に置いた指を、ゆっくりと何かを確かめるように動かしていた娘が、困惑の表情を浮かべて動きを止めた。

「これって……」


『七王国を翼下に従える聖竜』


 大神殿を守る護衛兵だけが身に着けることを許された聖竜の紋章だ。くるりと裏返すと、そこには文字のようなものが彫り込まれている。

「何か書いてあるわ、ザルティス」

 よわいを重ねた妖魔ならば、人の子が創り出した大陸の言葉を読み解くことなど雑作もない。妖魔は娘の手のひらに乗せられた小さな護符を覗き込むと、珍しいものを見たとでも言いたげに翡翠色の瞳を見開いて、ほおっと息を吐いた。

「アルコヴァルの北の砦を預かる一族が使う神聖文字だ……『キリアン・ネスグレンタネスグレンタ家のキリアン』とある」

「ネスグレンタ?」

「山麓の砦タルトゥスや南の砦エルランシング同様、かつてはアルコヴァルの同盟国として栄華を極めたいにしえの王族のひとつだ」

 エルランシング、と聞いた瞬間、娘の表情がわずかにゆがんだ。ザルティスは少しだけ気まずそうなうなり声を漏らすと、漆黒の翼をふわりと広げて娘の両頬を包み込み、優しく撫で回した。

「悪意はないのだぞ、娘よ」

「その言葉、今日はこれで何度目かしら? あなたって本当に気の利かない猫よね」

 小さな子供をあやすように優しく動く翼を払い除けた娘が、一層不機嫌な表情を浮かべる。ザルティスは気にする様子も見せずに翼を折りたたむと、有無を言わせぬまま娘の膝の上にどっかりと座り込んだ。

「ともかく、こやつがその護符の真の持ち主だとすれば、まごうことなき高位の貴族という訳だな」

「あるいは、ただの盗人か、ね」


 大神殿に仕えることが大変な名誉とされているこの大陸で、聖竜の紋章を身につける栄誉を与えられた者は、郷里では英雄扱いだ。

 「大陸」の地図にぐるりと巨大な体躯を巻きつけて両翼を広げる竜の姿を刻んだ護符を狙って、帰郷の途に着いた元護衛兵を襲う輩も少なくない。わずか数年の年月を無償で奉仕する心根などはなから持ち合わせぬ王侯貴族達が、金の力に任せて手段を選ばず手に入れようとするだけの価値が、この護符にはあるのだ。


「盗人とは……こやつがけがれてはおらぬ、とお前が言うから連れ帰ったのだぞ」

「あら。この子の料理の腕が気になったから、ではなくて?」

 くわっ、と面倒臭そうに大きな欠伸あくびをすると、黒猫は何も聴かなかったふりをして娘の膝に背中をこすりつけ、ごろりと寝転がった。

「娘よ、森の夜闇に潜む精霊達はお前に何を見せた?」

「いつものように、大陸を渡りながら見聞きしたことを教えてくれただけよ」

 夜の森で聴いた精霊達の歌声を思い出しながら、娘は手のひらの塊をそっと握りしめた。ほんのりと若者の肌の温もりが残っているのに気づいて、ふっと小さな微笑みがこぼれた。

 ザルティスが、珍しいものを見た、と言わんばかりに翡翠色の瞳を大きく見開いて、娘を見上げる。

「なあに? そんなに気になる? だったら、見せてあげるわ。一緒に、来て……」

 娘の声が、恍惚とした調子に変わったことに気づいて、黒猫は慌てて娘の身体にぴったりと身を寄せた。

「離れては駄目よ、ザルティス」

 黒猫をしっかりと抱きしめると、光を映さぬはずの娘の瞳が、薄闇の先にある「なにか」を見出そうとするかのように彷徨さまよいはじめた……



 不意に、ザルティスは銀色のかすみのようなものに呑み込まれ、方向感覚を失った。

 数多あまたの世界の境界をつなぐ「狭間はざま」を通り抜ける際に感じる、あの浮遊感に似ている。違うのは、この空間が「魔の系譜」のかてとなる瘴気しょうきに全く侵されてはいない、ということだ。

 星屑のような煌めきが散りばめられた銀色の回廊を、娘は軽やかに翔ぶように、戸惑いさえ見せずに進んで行く。道標みちしるべがわりに、精霊達が見せてくれた記憶を一つ一つ手繰たぐり寄せながら。

 「魔」の存在を拒むかの如く澄み切った異界の空を娘に抱かれて漂う間、背中に置かれた細い指が「大丈夫よ、私が守ってあげる」とでも言うように、優しく動き続けていた。


 やがて目的の場所を見定めたらしい娘は、足元を見下ろして何処かに舞い降りるような仕草をする。ふわり、と揺れた黒髪がザルティスの鼻先をくすぐった。

 回廊を抜けた先には銀青色の虚空が広がっていた。足元に地面はなく、水の精霊達の鱗を思わせる色合いの雲のようなものが、ふわふわと宙に浮いているだけだ。娘はそこに足先を降ろすと、ゆっくりとひざまずいた。娘に抱きかかえられたまま、ザルティスは眼下に広がる世界を見渡した。

 そこにあるのは、精霊達の眼を通して見つめる「大陸」の姿だった。



「ほら、あそこ……」

 娘が指差した先に、ザルティスは視線を向けて瞳を凝らした。

 きらびやかな王都の正門を抜けて大陸の諸王国に通ずる「街道」のひとつに、砂埃が立ち上がっているのが目に入った。それはぐんぐんと速度を上げながら、その先に続く国境を目指しているようだ。 


『駄目だ、これ以上……追いつかれてしまう! ああ、聖なる天竜よ、どうか……!』 

 街道を疾走する馬を必死に御しながら後方の追っ手に気がついた心の声のぬしが、森で拾った青年なのだと気づいて、ザルティスはその姿を追い始めた……





 「街道」は王都軍に属する術師達の編み上げた結界で覆われている。街道を行く者は、常に彼らの監視下にあるも同然だ。

 ゆえに、神殿の厩舎きゅうしゃから栗毛の馬を連れ出して王都から逃走した青年を見つけ出し追跡するなど、王都軍の騎兵隊にとって容易いことだった。


「ああ、危ないっ! 頼む、退しりぞいてくれ! 頼むから、道をあけて! お願いだから、道を……! 頼む、道をあけてくれっ!」

 街道行き交う人々に向けて、青年は必死に叫び声を上げながら、ひたすら先へと突き進んで行く。


 ああ……駄目だ! このままでは、罪もない人達まで巻き込んでしまう……!

 

 人々の怒号が悲鳴に変わり、女子供が泣き叫ぶ声が後方で聴こえ始めると、突然、青年は街道を外れて国境伝いに広がる「くらき森」に馬を向けた。

 騎兵達も迷わず後を追って行く。


「聖なる天竜ラスエルよ! どうか、あと少しだけ、僕に運をお与え下さい!」

 青年が天に向かって祈りを捧げた瞬間、王都軍の騎兵が放った長槍が青年の左腕をかすめた。

 衝撃で落馬しそうになりながらも、青年は必死に馬の背にしがみつき、ひたすら前方に黒々と横たわる森を目指して駆けて行く。



 やがて、青年を乗せた馬が森の手前でぴたりと足を止めた。

 血塗れの左腕を庇いながら馬から飛び降りると、青年は落ち着きを失った馬の汗にまみれた首筋にそっと手を走らせた。

 そのまま、限りなく優しい声で話し掛ける。

「怖がらないで……大丈夫だよ。そう、良い子だね。ごめんよ、お前をこんな厄介ごとに巻き込んだりして……」

 背後に迫る騎兵達の気配を感じながら、青年は馬の瞳を覗き込むと、懇願するような声でささやいた。

「さあ、早く仲間のところへお帰り。これ以上、僕と一緒にいたら、お前まで殺されてしまう……それだけは、駄目だ。さあ……行くんだ……行け、早く!」

 最後の言葉と共に、青年は思い切り馬の尻を鞭打った。


 砂埃を上げて近づく追っ手とすれ違いざまに、栗毛の馬が元来た道を駆け抜けて行くのを見定めると、青年は目の前に横たわる森に向けて走り出した……





 はあっ、と大きく息を呑み込んで、娘は静かに瞳を閉じると、辺りの気配に耳を澄ませた。

 寝台に横たわる若者が静かな寝息を立てている。既に日も暮れたようで、足元から夜の冷気が立ち昇ってくる。

 急に元の世界に意識を呼び戻された黒猫ザルティスが、娘の腕の中から逃れるように床に飛び降りると、不快感も露わに背中を弓なりにさせながら身体中の毛を逆立てた。



***



「キリアン・ネスグレンタ……それが、この子の名前なのでしょうね」

 炉に掛けっぱなしだった鍋の中でくたくたになった野菜と卵のスープを渋い顔で頬張っていた黒猫が、娘のつぶやきに視線を向ける。若者を見つめる娘の頰を、一筋の涙が零れ落ちた。

 ザルティスはスープの皿を後にして娘に忍び寄ると、前脚を伸ばして頰に残る涙の跡をそっとぬぐってやった。娘は少しだけ顔をしかめながらも、くすぐったそうな吐息を漏らした。

「盗人ではなかったのか?」

 娘の涙を拭った前脚を、ぺろりと舐めた黒猫が意地の悪い笑みを浮かべると、娘は手のひらに握りしめていた護符をゆっくりと滑り落とした。しゃらり、と心地よい音を立てて若者の胸に転げ落ちた聖竜の紋章が、炉の炎を照り返して、きらりと輝く。

「こんな物のために誰かをあやめることが出来るような子じゃないことくらい、あなたも気づいているんでしょう、ザルティス? この子ったら、自分が追われている間でさえ、道を行き交う赤の他人や自分の馬のことで心がいっぱいなんだもの」

 少し呆れたような表情で、娘は若者の頰をするりと撫でた。

「優しい子。それに……」


 ……この香り。

 

 若者の身体にかすかに残るかぐわしい香りは、おそらくその腕に抱いた女の移り香だろう。南国の高価な花々から作られた香気をまとうことが出来るのだから、相手は貴族か富裕な商人の娘だ。気位の高い彼女達を惹きつける何かがこの若者にはあるらしい。

 粗暴な傭兵とは比べ物にならぬ柔らかな物腰の青年が貴族の出自だとしたら、それも不思議ではないが。

 

 そう言えば、あの人も、甘い香りをまとっていたわね。

 ……馬鹿ね。どうして今更そんなことを思い出すの?


 眠り続ける青年の汗ばんだひたいを冷たく湿らせた布でぬぐってやりながら、娘は少し哀しそうに微笑んだ。

「ねえ、教えて。一体、何があったの?」 


 娘のささやきが、青年だけに向けられた言葉ではないのだと、ザルティスは気づいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る