聖竜の紋章
少しほろ苦い若草の香りが、煙道を伝って風に運ばれ、森の木々の間を抜けていく。
周辺に張り巡らされた結界と黒い妖魔の気配で水車小屋は守られている。とは言え、血の匂いを
ザルティスが切り裂いた衣服の残骸と一緒に、猟犬や使い魔の追っ手から逃れるために術師達が使う臭い消しの薬草を
「運が良いわね、あなた」
眠り続ける若者の傍らに腰掛けて、娘は静かにつぶやいた。
傷自体はそう深くはなかったが、傷口から甘酸っぱい毒の香りが漂っていた。狩人が獲物の動きを鈍らせるために使う薬草の匂いだが、王都軍の兵士が罪を犯した者を捉えるために使うこともあると聞いたことがある。
追跡者の手をなんとか逃れたものの、森の獣の餌食となるはずだった命だ。やはり、拾うべきではなかったのかもしれない。
「自然の摂理に逆らっていなければ良いのだけれど……」
「お前が気に病むことではないぞ」
若者の傍らで片方の翼を広げて毛繕いをしていた黒猫が、
「そいつが己の足で勝手にここまでついて来た。あのまま森の中で果てるべき命ではなかった、と言うことだ」
若者を娘の部屋に運び入れて寝台に横たえた後、翼のある小さな家猫に姿を変えた
「そうなら良いけれど……どちらにせよ、厄介ごとはごめんだわ」
ザルティスが水の精霊達の戯れからようやく解放されたのは、既に日も高くなってからのことだ。
乙女達の手で丹念に身体の隅々まで清められたらしく、頭のてっぺんから尻尾の先まで艶々と輝く漆黒の毛皮は、極上の絹糸のような肌触りだ。「毛皮が乾くまで」と午後の大半を温かな岩場の上に寝そべって過ごしていたからか、黒猫の身体からは春の木漏れ日の香りがした。
夢でも見ているのだろうか。若者が
「娘よ、その鎖に
何のことかと
「護符……かしら?」
円形の上に刻まれた凹凸の上に置いた指を、ゆっくりと何かを確かめるように動かしていた娘が、困惑の表情を浮かべて動きを止めた。
「これって……」
『七王国を翼下に従える聖竜』
大神殿を守る護衛兵だけが身に着けることを許された聖竜の紋章だ。くるりと裏返すと、そこには文字のようなものが彫り込まれている。
「何か書いてあるわ、ザルティス」
「アルコヴァルの北の砦を預かる一族が使う神聖文字だ……『
「ネスグレンタ?」
「山麓の砦タルトゥスや南の砦エルランシング同様、かつてはアルコヴァルの同盟国として栄華を極めた
エルランシング、と聞いた瞬間、娘の表情が
「悪意はないのだぞ、娘よ」
「その言葉、今日はこれで何度目かしら? あなたって本当に気の利かない猫よね」
小さな子供をあやすように優しく動く翼を払い除けた娘が、一層不機嫌な表情を浮かべる。ザルティスは気にする様子も見せずに翼を折りたたむと、有無を言わせぬまま娘の膝の上にどっかりと座り込んだ。
「ともかく、こやつがその護符の真の持ち主だとすれば、
「あるいは、ただの盗人か、ね」
大神殿に仕えることが大変な名誉とされているこの大陸で、聖竜の紋章を身につける栄誉を与えられた者は、郷里では英雄扱いだ。
「大陸」の地図にぐるりと巨大な体躯を巻きつけて両翼を広げる竜の姿を刻んだ護符を狙って、帰郷の途に着いた元護衛兵を襲う輩も少なくない。わずか数年の年月を無償で奉仕する心根など
「盗人とは……こやつが
「あら。この子の料理の腕が気になったから、ではなくて?」
くわっ、と面倒臭そうに大きな
「娘よ、森の夜闇に潜む精霊達はお前に何を見せた?」
「いつものように、大陸を渡りながら見聞きしたことを教えてくれただけよ」
夜の森で聴いた精霊達の歌声を思い出しながら、娘は手のひらの塊をそっと握りしめた。ほんのりと若者の肌の温もりが残っているのに気づいて、ふっと小さな微笑みが
ザルティスが、珍しいものを見た、と言わんばかりに翡翠色の瞳を大きく見開いて、娘を見上げる。
「なあに? そんなに気になる? だったら、見せてあげるわ。一緒に、来て……」
娘の声が、恍惚とした調子に変わったことに気づいて、黒猫は慌てて娘の身体にぴったりと身を寄せた。
「離れては駄目よ、ザルティス」
黒猫をしっかりと抱きしめると、光を映さぬはずの娘の瞳が、薄闇の先にある「なにか」を見出そうとするかのように
不意に、ザルティスは銀色の
星屑のような煌めきが散りばめられた銀色の回廊を、娘は軽やかに翔ぶように、戸惑いさえ見せずに進んで行く。
「魔」の存在を拒むかの如く澄み切った異界の空を娘に抱かれて漂う間、背中に置かれた細い指が「大丈夫よ、私が守ってあげる」とでも言うように、優しく動き続けていた。
やがて目的の場所を見定めたらしい娘は、足元を見下ろして何処かに舞い降りるような仕草をする。ふわり、と揺れた黒髪がザルティスの鼻先をくすぐった。
回廊を抜けた先には銀青色の虚空が広がっていた。足元に地面はなく、水の精霊達の鱗を思わせる色合いの雲のようなものが、ふわふわと宙に浮いているだけだ。娘はそこに足先を降ろすと、ゆっくりと
そこにあるのは、精霊達の眼を通して見つめる「大陸」の姿だった。
「ほら、あそこ……」
娘が指差した先に、ザルティスは視線を向けて瞳を凝らした。
『駄目だ、これ以上……追いつかれてしまう! ああ、聖なる天竜よ、どうか……!』
街道を疾走する馬を必死に御しながら後方の追っ手に気がついた心の声の
「街道」は王都軍に属する術師達の編み上げた結界で覆われている。街道を行く者は、常に彼らの監視下にあるも同然だ。
「ああ、危ないっ! 頼む、
街道行き交う人々に向けて、青年は必死に叫び声を上げながら、ひたすら先へと突き進んで行く。
ああ……駄目だ! このままでは、罪もない人達まで巻き込んでしまう……!
人々の怒号が悲鳴に変わり、女子供が泣き叫ぶ声が後方で聴こえ始めると、突然、青年は街道を外れて国境伝いに広がる「
騎兵達も迷わず後を追って行く。
「聖なる
青年が天に向かって祈りを捧げた瞬間、王都軍の騎兵が放った長槍が青年の左腕を
衝撃で落馬しそうになりながらも、青年は必死に馬の背にしがみつき、ひたすら前方に黒々と横たわる森を目指して駆けて行く。
やがて、青年を乗せた馬が森の手前でぴたりと足を止めた。
血塗れの左腕を庇いながら馬から飛び降りると、青年は落ち着きを失った馬の汗にまみれた首筋にそっと手を走らせた。
そのまま、限りなく優しい声で話し掛ける。
「怖がらないで……大丈夫だよ。そう、良い子だね。ごめんよ、お前をこんな厄介ごとに巻き込んだりして……」
背後に迫る騎兵達の気配を感じながら、青年は馬の瞳を覗き込むと、懇願するような声で
「さあ、早く仲間のところへお帰り。これ以上、僕と一緒にいたら、お前まで殺されてしまう……それだけは、駄目だ。さあ……行くんだ……行け、早く!」
最後の言葉と共に、青年は思い切り馬の尻を鞭打った。
砂埃を上げて近づく追っ手とすれ違いざまに、栗毛の馬が元来た道を駆け抜けて行くのを見定めると、青年は目の前に横たわる森に向けて走り出した……
はあっ、と大きく息を呑み込んで、娘は静かに瞳を閉じると、辺りの気配に耳を澄ませた。
寝台に横たわる若者が静かな寝息を立てている。既に日も暮れたようで、足元から夜の冷気が立ち昇ってくる。
急に元の世界に意識を呼び戻された
***
「キリアン・ネスグレンタ……それが、この子の名前なのでしょうね」
炉に掛けっぱなしだった鍋の中でくたくたになった野菜と卵のスープを渋い顔で頬張っていた黒猫が、娘のつぶやきに視線を向ける。若者を見つめる娘の頰を、一筋の涙が零れ落ちた。
ザルティスはスープの皿を後にして娘に忍び寄ると、前脚を伸ばして頰に残る涙の跡をそっと
「盗人ではなかったのか?」
娘の涙を拭った前脚を、ぺろりと舐めた黒猫が意地の悪い笑みを浮かべると、娘は手のひらに握りしめていた護符をゆっくりと滑り落とした。しゃらり、と心地よい音を立てて若者の胸に転げ落ちた聖竜の紋章が、炉の炎を照り返して、きらりと輝く。
「こんな物のために誰かを
少し呆れたような表情で、娘は若者の頰をするりと撫でた。
「優しい子。それに……」
……この香り。
若者の身体に
粗暴な傭兵とは比べ物にならぬ柔らかな物腰の青年が貴族の出自だとしたら、それも不思議ではないが。
そう言えば、あの人も、甘い香りをまとっていたわね。
……馬鹿ね。どうして今更そんなことを思い出すの?
眠り続ける青年の汗ばんだ
「ねえ、教えて。一体、何があったの?」
娘の
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