娘と黒い獣

 まるで白昼の「街道」を行くかのような足取りで、娘は夜の森を進んで行く。先を行く黒い獣の導きがあったとして、木々の合間から差し込むわずかな月明かりだけを頼りに、夜目の効かぬはずの人の子が薄闇の中をあんなにも軽やかに歩けるはずがない──


 キリアンは息を切らしながら、一人と一匹の黒い影を必死で追いかけていた。両脚は鉛のように重く、一歩踏み出すたびに左腕が脈打つようにうずく。

 「魔の系譜」が多く棲むと言われるこの森で、夜更けに出会った得体の知れぬもの達に助けを乞うなど正気の沙汰ではない。それでも、生にすがりつこうとする人の子の本能と、意識を失う前に垣間見た愛しい者達の面影が、キリアンを動かし続けた。


 そうだ、僕はまだ死ぬ訳にはいかない。無実の罪を着せられたまま、家名を汚したまま、死ぬ訳にはいかないんだ……そう気付いたのは、心の奥底まで見透かすような不思議な薄紫色の瞳に見つめられた、あの時。


『生きていたいのでしょう?』


 そうだ、僕は生きていたい。こんな僕でも、この世から消えてしまったら嘆き悲しんでくれる家族が待っているんだ。


『だったら、もう逃げ回るのはめなさい』

 

 僕は兄上のように強くない。だから、居心地の良い場所から勝手に逃げ出した。なのに、今また厄介ごとに巻き込まれ、自分一人ではどうする事も出来ず、結局、逃げ出すしかなかった。

 あの日から、僕はちっとも変わっていない。情けないほど意気地がなくて、卑劣で……

 このままでは、僕は、本当に駄目になる。



 足を引きり、何度も地面に倒れ込んでは必死に起き上がり、ぼろぼろになりながら後を追って来る若者の姿をちらりと振り返った黒い獣が、その風貌に似合わぬ憐みの表情を浮かべて娘に目配せした。

「駄目よ、ザルティス。あなたが運ぶのは簡単だけど、あの子のためにならないわ」

「血も気力も失い、あんなになるまで己の足で歩いて来たのだ。そろそろ手を差し伸べてやっても良かろう」

「駄目よ。甘やかしたところで、何の救いにもならないの」

 

 あの時。

 聴こえたのは、自分自身をおとしめる憐れな魂の叫びだった。

 庇護という名の甘やかな呪縛に囚われた青年が抱え込んでいたのは、数えきれぬほどの心の負い目。あふれんばかりの愛情を与えられたことが、逆にこの青年を追い詰めている。


 ……皮肉なものね。それを乞い願っても得られぬ者の方が、この世界にはずっと多いのに。

 さあ、恐れずに、己の足で立ち上ってごらんなさい。傷つくことはあっても、あなたを縛る真綿のようなくびきからは解き放たれるわ。

 あなたを救えるのは、あなた自身。


「だから、絶対に手を出さないで」

 黒い獣が不満をらすように低い唸り声を上げながら、娘に詰め寄る。

「腕を失ってもらっては困るのだよ。早く手当てしてやらねば、上手い料理にありつけなくなる」

「いい加減にして、ザルティス。さっきから、一体、何なの? 私が作る料理に対する当てつけのつもりなら……」

「料理? あれがか?」

 嫌なものを思い出したとでも言いたげに、黒い獣はぶるりと身震いすると、翡翠色の瞳を意地悪そうに細めた。 

「娘よ、まともな下ごしらえもせぬ野菜と肉を適当に鍋にぶち込んで煮込んだだけのスープなど、料理とは呼ばんぞ」 

「……あなたって、本当に胡散うさん臭い猫よね」

「お前とて、可愛げの欠片かけらもない」

 途端に、娘は唇をきゅっと結んで眉間にしわを寄せると、獣の胸元の毛を鷲掴みにして力任せに引っ張った。黒い獣は少し困ったように口元を歪めながらも、漆黒の翼の先で娘の頭をとんっと小突く。


 キリアンは、そんな一人と一匹のれあいをぼんやりと眺めていた。

 ああ、僕にもあんな風にしがみついてくる小さく愛しい温もりがあったな……懐かしい日々を思い出しながら、次第に木々の騒めきが遠のき、森の闇が一層暗がりを増していくような気がして、いぶかしげに目を細めた。

 


 夜明けの空に薄明かりが差し始めた頃。

 もう少しで森を抜け切るというところで、背後で、どさり、と大きな音がした。

 驚いて立ち止まった娘をかばうようにして、ザルティスが小さな身体を翼の中に囲い込む。見れば、意識を失ったらしい青年が、冷たい地面にくずおれていた。

 娘の頭上で、勝ち誇ったように黒い獣が喉を鳴らした。

「さて、娘よ。我が家は目と鼻の先だが、この死に損ないはここに置いて行くか?」



***



 木立の中にひっそりと佇む水車小屋が、娘とザルティスが暮らす場所だ。


 小屋の脇を流れる小川では、水の精霊達が浅瀬に腰掛けて、朝の光を浴びてきらきらと輝く銀色の髪を水面に揺らしてくしけずりながら、楽しそうにお喋りをしている最中だった。

 森の中から現れたザルティスたちの姿に気づいた精霊達が、陽気にはしゃぎながら手を振っている。が、獣の背に乗せられた血にまみれた人の子を見るなり、身を震わせて我れ先にと水の中に飛び込んで姿を消した。

「精霊達をおびえさせてしまったようだな」

「当然よ。その子が血の匂いを振りまいているんだもの。清らかな乙女達には刺激が強すぎたでしょうね」

 娘は水辺に駆け寄って両膝をつくと、長い髪を手早く束ねて外衣の中に押し込んだ。水に棲むもの達を怯えさせぬよう静かに身を乗り出し、清流に顔を近づけ、なだめるような優しい声で水底に向けて語り掛け始めた。


 しばらくして、娘の声に応えるかのように、水面に青白い影が揺らめき始めると、娘は唇の片端をわずかに吊り上げて、静かに立ち上がった。

「ザルティス、その子を小川の中へ。精霊達が手を貸してくれるそうだから、身を清めてから私の寝台に運んでちょうだい。ああ、その前に、血に汚れた衣服は脱がせてしまって。これ以上、乙女達に嫌われたくないでしょう?」

 矢継ぎ早な娘の言葉に面倒臭そうな表情を浮かべながら、黒い獣はぐったりと動かぬ若者をこれ以上傷つけぬよう出来るだけ身を屈めると、柔らかな下草の生えた岸辺にゆっくりと転がし降ろした。若者は小さなうめき声を上げたものの、意識を取り戻した様子はない。線の細い優しい顔立ちに、苦悶の色が浮かんでいる。

 見るからに頼りなげなこの若者が、気難しい娘に圧倒されねば良いのだが……ふうっ、とため息をつくと、黒い獣は血塗れの衣服に鋭い鉤爪かぎづめを引っ掛けて、器用に切り裂き始めた。


 ふと、傍に立つ娘の気配に気づいて、獣が動きを止めた。

「手慣れているわね、ザルティス。男の衣服を脱がせるのは楽しい?」

 そう言って、両手で口を塞いだ娘の肩が細かく震えている。どうやら、必死で笑いをこらえているらしい。

「期待を裏切るようだが、我に男をでる趣味など微塵もない」

 黒い獣が苛立たしげに、ふんっ、と鼻を鳴らす。

「年頃の娘に若い男の衣服を剥ぎ取らせるわけにも行くまい? それとも、この男に心かれでもしたか? 確かに人の子にしては美しい見目をして……」

 一瞬、ザルティスは気不味そうに言葉を呑み込んだ。

「……悪意はないのだぞ、娘よ」

「平気よ。見目麗しい男に誘惑されようが、私には一目惚れなんてあり得ないもの」

 光を映さぬ薄紫色の瞳を黒い獣に向けると、娘は少しだけ顔をしかめた。

「あなたの背中にも血の匂いが染みついているわ、ザルティス。ついでだから、水の乙女達としばらくたわむれていらっしゃいな」

 娘の言葉を待ちびていたかのように、無邪気な笑い声が水辺からあふれ出し、美しい歌声となって響き始めた。


『戸惑いがちに誘うように、低く高く風に乗るその声は、やがてあらがいようのない甘いささやきとなって人間の男達の心を惑わせる。

 不思議な歌声に誘われて水辺に近づいた男達は、たちまち美しい精霊のとりことなる。宝玉のように輝くうろこを散りばめた肢体をしなやかにくねらせて水面を揺蕩たゆたう姿に欲望を掻き乱され、水の乙女達に誘われるがまま流れに足を踏み入れる。

 途端に、水底に引きずり込まれ、深淵の闇に沈んで果てる。


 欲に溺れた人の子のむくろは、やがて水に棲むもの達のかてとなり、豊かな生命を育んでいく。水が生命の輝きにあふれている限り、水の乙女達も永遠にけがれを知らぬなまま、その美しさを保ち続ける。

 だからこそ、彼女達は歌い続けるのだよ……』

 そう教えてくれたのは、夜闇に包まれた大神殿の片隅で、大陸の創世神話を語ってくれたあの方だった。


 懐かしい声が聴こえるような気がして、束の間、娘は精霊達の歌声に耳を傾けた。人の子を惑わす歌声は「魔の系譜」には通用しない。そうと知りながら水の精霊達がザルティスを誘うのは、年若い妖魔の美しさを愛でたいと願う純粋な好奇心からだ。

「あなたが水の中にいる間は、この子に手を出さないと乙女達が約束してくれたの。だから、お願いするわね」

 娘はわざとらしくザルティスに微笑むと、くるりと背を向けて小屋の中へと姿を消した。


 何のことはない、にえにされたわけか……まあ、いつものことだがな。


 そう思いながら、ザルティスはわずらわしそうに翡翠色の瞳を細めると、ぶるりと大きく身震いした。途端に、獣の姿が宙に溶けむように、ぐらりと大きく歪んだ。

 次の瞬間、黒い外衣をまとった長身の若者が忽然と姿を現した。腰に届くほどの黒髪は見るも無残にもつれ、所々に汚れがこびりついてはいるものの、美しさを誇る種族であることに変わりはない。その姿を目にした水の乙女達が悩まし気に、ほおっと熱い吐息をついた。

「まったく……我を使い魔がわりにするなと何度言ったら分かるのだ」

 眉間に皺を寄せたまま、ザルティスは躊躇なく外衣を脱ぎ捨てた。

 水の乙女達の好奇に満ちた視線を一身に受けるのも構わずに、ぐったりと正体なく地面に横たわる若者を軽々と抱き上げると、ゆっくりと水の中へ身を沈めていく。


 若く美しい妖魔と、その腕に抱かれた人の子を愛でようと、乙女達が水面をしなやかに泳ぎ回る。

 悪戯いたずらに跳ね上げられる水飛沫しぶきと軽やかな笑い声にいざなわれ、ザルティスは、しばしの間、心地良い水のれに身を委ねることにした。

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