昏(くら)き森

 青き竜がその身を波立たせながら天空を舞うかの如く、延々と険しい峰々を連ねて大陸を縦に分かつオトゥール山脈。

 人の子が足を踏み入れることを拒む頂きのその先に、世界の創造主たる妖魔の王であり、大陸の民が神と崇める「聖なる天竜ラスエル」が棲むという。


 山脈の東に位置する軍事大国ティシュトリアと、天竜が初めて地上に降り立ったとされる聖地「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」の国境に黒々と広がる「くらき森」は、天竜の眷属けんぞくである「魔の系譜」が多く棲まう地として、いにしえよりおそうやまわれていた。禁忌の森を通り抜ける巡礼の徒は、ある時は気まぐれな妖魔の加護を受けて聖地へと辿り着き、ある時は人の子の匂いを嗅ぎつけた凶暴な妖獣の餌食となりながら、聖地へと通じる道筋を少しずつ切り開いていった。

 聖地巡礼の道として形を成し、数多あまたの国々を結ぶ「街道」は、大陸の公道として、その地を支配する王達によって整備と拡張を繰り返され、大陸全土に網の目のように張り巡らされていった。


 やがて、一国のあるじに留まるだけでは飽き足らず、近隣諸国を侵略し「大陸の覇者」となる野望に憑りつかれた王達が熾烈な争いを繰り広げる「七王国」の歴史が幕を開ける。


 大陸の覇権争いに巻き込まれ、多くの民が命を奪われ、大陸全土が戦火に呑まれる中、「街道」も壊滅的な荒廃を免れなかった。愛する者と故郷を奪われ、生きる希望さえ見出せぬ世界で、救いを求める民の心は聖なる天竜の地へと向けられた。

 聖地巡礼の儀礼が財を持たぬ庶民にも受け入れられたのは七王国あってこそ、と言われる所以ゆえんである。 


 自国の民を顧みず、己の欲望に溺れた愚かな王を抱く国が大陸から次々と姿を消していく中、広大な領土と圧倒的な兵力を誇る二つの王国が台頭する。

 ティシュトリアはその強大な軍事力をもって街道を旅する巡礼の徒を保護し、大陸随一の財力を誇る西の大国アルコヴァルは街道の再建に惜しみなく財を投げ打つことで、戦乱の世の終焉と大陸の和平を担うべき二大国家としてのいしずえを築きつつあった。


 街道を行く旅人を守護するのは、術師達の手で編み上げられた堅固な結界だ。街道から外れぬ限り、野生の獣や妖獣の襲撃を受ける可能性は限りなく少ない。巡礼者や旅の隊商が畏怖すべきは、もっぱら傭兵崩れの盗賊や王都軍の逃亡兵だ。

 ならず者の襲撃に備えて腕の立つ護衛を雇うだけの余裕がある隊商は、身を守るすべを持たぬ巡礼者に庇護を求められれば、「そこに救うべき命がある限り、手を差し伸べよ」との天竜の教えに従う。憐れな旅人を保護する見返りとして、より多くの加護を与え給え、と心の中で祈りながら。

 大陸の伝統儀礼を守り続けてきたのが抜け目のない商人らの間で根付いた慣習法だった、と言うのはなんとも皮肉な話だ。

 

 天竜の神殿に仕える神官は、日々、大陸の民のために祈りを捧げる。

 「安息の地」に向かう魂が加護を受けるに値するかどうか見極めるべく、聖なる竜は天上から地上の人の子らの行いを見つめている。私心を捨て、全てを捧げるだけで良い。信じて祈りさえすれば、願いは必ず聞き届けられるだろう……神官達は甘やかな言葉で民に語り掛ける。

 「天竜の声を聴く」と言われる神官の言葉は絶対だ。それが、いかに人の子の倫理に反するものであろうとも。ただ祈ることで「魂の安息地」へより近づき、より豊かな世界で再び生を受けることが叶うなら……こうして、民の心は盲目の信念に囚われる。


 天竜への「ささげもの」として貧しい民から召し上げられた幼子おさなごらが、清貧を旨とするはずの神官達に「捧げられる」とは夢にも思わずに。



***



 真夜中を過ぎた頃。

 夜風の精霊達が、ざわざわと落ち着きなくうわさ話を始めたことに気づいたのはザルティスだった。

 曰く、何かに追われるようにして「街道」を外れ森に逃げ込んだ人の子が、濃い血の匂いと死への恐怖を辺りに撒き散らしている、と。


「娘よ、この先にある古樹の根元に、夜風達が噂していたものが居るようだ」

 わさり、わさりと漆黒の翼を揺らしながら、薄暗い森の中を優雅な足取りで進む山豹レーウに似た大きな黒い獣は、ふと、背後の小さな足音の乱れに気づいて振り返った。と、小道に張り出した木の根に足を取られた娘の身体がぐらりとかしぐ。

 素早く駆け寄って、地面に倒れこむ寸前の娘の身体を前脚ですくい上げると、ザルティスは呆れたようにため息を吐いた。

「まったく、お前ときたら……つまらぬ意地を張らず、大人しく我の背に乗れば良いものを」

 娘は少し眉をひそめ、探るように獣の胸元に両手を伸ばすと、取りつくろうように柔らかな毛並みを整えながら小さくつぶやいた。

「珍しく過保護ね、ザルティス。気味が悪いくらい」

「お互いさまだ。常ならば、毛繕いくらい自分でしろ、と素気無すげないお前に、身体を撫で回されるのは何とも気味が悪い」


 悪かったわね、と不機嫌な声を出して手を止めた娘を尻目に、ザルティスは巨木の根元に横たわる影に意識を向けた。

「あれが悪しきものならば、森に危害を及ぼす前に喰ってしまうが、良いか?」

「好きにすればいいわ。厄介ごとに関わり合いたくないもの」

 黒い獣は湿った鼻先で娘の頭を軽く小突くと「離れるな」とささやいて、再び歩き出した。柔らかい毛皮に手を置いたまま、娘は静かにうなずいた。

 


 どす黒い血がこびりついた明るい色の髪は、暗闇にあってなお、暖かな陽の光を思い起こさせる。血の気を失い苦しみに歪んではいるものの、繊細な面立ちは生まれの良さを感じさせる。身にまとう衣服は切り裂かれ血に染められてはいるものの、庶民には手の届かぬ上質のものだ。腰帯に吊るされた長剣の鞘は優美な銀細工で飾られ、柄には夜空の煌めきにも似た宝玉が輝いている――

 およそ、街道を行く旅人とは思えぬ青年の姿に、娘は冷ややかな微笑みを浮かべた。

「どうぞ襲って下さい、と言わんばかりね。愚かな豪商の放蕩ほうとう息子か、あるいは……」

 娘の言葉をさえぎるように、突然、ザルティスがうなり声を上げた。


 流れ出た血の匂いにつられた獣達に周りを囲まれていることくらい、娘もとうに気づいていた。

 獲物を横取りされまいと苛立ちも露わな獣達の気配が間近に迫るのを感じ取って、ザルティスが鋭い威嚇いかくの声を上げ、力ある妖魔のあかしである漆黒の大きな翼をばさりと羽ばたかせる。

 途端に、その姿に恐れをなした獣達は悲壮なうめき声を上げながら我先にと闇の中に消え入った。


 ふん、と鼻息を立てると、ザルティスは青年の方へと視線を戻した。

「我らを害する者とも思えんな。ただ……」

 もったいぶった様子の黒い獣が咳払いするのを感じて、娘の声に苛立ちがにじみ出る。

「ただ……何なの?」

「このかぐわしい匂い」

「まだ食べちゃ駄目よ。得体の知れない病にかかってでもいたら……」

「この男、料理の腕はなかなかのようだぞ」

 獣の思いがけない言葉に、一瞬、ぽかんと口を開けた娘の顔が、見る間に真っ赤に染まる。その様子を面白そうに眺めていた黒い獣が、鋭い牙をのぞかせながら口元をゆがめてにやりと笑った。

「あなたって本当に嫌味な猫ね、ザルティス」  

 忌々しげな娘の言葉の響きに、黒い獣がわざとらしく「なああご」と猫撫で声で応えると、夜風達がくすくすと小さな笑い声をあげて駆け抜けていった。


 冷たい風に頰を撫でられ冷静さを取り戻すと、娘は地面に横たわったままぴくりとも動かない青年の前にしゃがみ込み、少し首を傾げたまま、闇に棲まうもの達に優しくささやきかけた。

「このひとのことを知っている子は居るかしら? どんな些細ささいなことでも構わないわ。知っているなら、教えて」


 しばらくの間、何かに耳を傾けるかのようにして静寂しじま夜闇よやみを見つめていた娘が、満足気な表情でゆっくりと立ち上がった。

「ありがとう。夜はまだ長いから、夢魔の巣に気をつけて」

 戯れるような優しい夜風が、娘の長衣ローブを巻き上げながら木々の間を吹き抜けていく。ふわり、と目深まぶかに被られていた頭巾が後ろにずれ落ちた瞬間、星屑を散りばめたような不思議な輝きを宿す漆黒の髪が風に舞い、はらりとこぼれ落ちる。

 顔にかかった髪を鬱陶うっとおしそうに細い指で払いのけると、娘は不思議な色合いの瞳を黒い獣に向け、形の良い唇の端に意地悪な微笑みを浮かべた。

「残念ね、ザルティス。この子、あなたのえさにするほどけがれてはいないわ」


 青年の生気が徐々に弱まっていくのを感じ取りながら、ザルティスはつまらなそうに、ふんと鼻を鳴らした。

「娘よ。その死に損ないをどうする?」

「……仕方ないわね。このまま置き去りにして、獣に喰い殺された人の子の魂につきまとわれて、毎夜、恨みごとを言われてはたまらないもの」

 細い指先が青年の頰をそっとなぞる。その氷のような冷たさに、娘がぶるりと身体を震わせた。

「ザルティス、あなたの背を貸して」



***



 ゆらり、ゆらりと揺れる大きく暖かな背中に運ばれていると気づいて、キリアンはぼんやりと眼を開けた。馬上の揺れとは明らかに違う……何か、滑るような歩調と柔らかく豊かな毛並みを持つ、馬よりも大きな生き物だ。


 ……喰い殺される前に、逃げなければ。


 そう思った瞬間、キリアンは渾身の力を振り絞って跳ね起きた。途端に、身体が宙に浮いた気がした。

 が、ふわりと柔らかなものに包み込まれ、ゆっくりと地面に降ろされた。わけも分からぬまま、酷い目眩めまいと心の動揺に押し潰されて、キリアンは為すすべもなくその場にしゃがみ込んだ。


「急に動いたりするからよ。大きく息をして」

 ずきずきと痛む頭をもたげて声のする方に視線を動かすと、闇に浮かぶ小柄な人影が目に入った。その背後に大きな黒い影を認めて、キリアンの背筋が凍りつく。

「目が覚めたのなら、自分で歩けるわね?」


 淡々とした声は若い娘のものらしい。妖魔は人の子に良く似た姿で現れる、と聞いたことがあるのを思い出して、キリアンは大きく身震いすると、何とか声を絞り出した。

「……そう見えるか?」

 逃げなければ……でも、どうやって? 自分が今、何処にいるのかさえ見当もつかないのに。

「生きていたいのでしょう? だったら、もう逃げ回るのはめなさい」


 心の隙間をのぞき見されたような言葉に、キリアンはようやく暗闇に慣れ始めた目を凝らして娘を見つめた。

「逃げ回る? なぜ、そんなこと……」

 戸惑いを隠せぬ声がわずかに震えている。己の不甲斐なさに、キリアンは唇を噛むようにして口をつぐんだ。

 娘の背後で、黒い影が低い唸り声を上げる。なだめるような仕草で獣の胸元に触れた娘が、青年と視線さえ合わさぬまま、夜闇よやみよりも冷ややかな声で告げた。

「無理強いはしないわ。生き延びたければ、おのれの手で明日の命をつなぎ止めなさい。助けが欲しいなら、己の足で立ち上がりなさい。ついて来れるなら助けてあげる。それが無理なら、いさぎよくここで果てなさい。大丈夫よ、心配せずとも、あなたの亡骸は森の獣達がきれいさっぱり片付けてくれるわ」

 感情の欠片かけらも宿さぬ娘の言葉が、キリアンの胸に突き刺さる。


『己の手で……己の足で……』

 簡単に言ってくれる。僕にはそれが一番難しいと言うのに。兄上の庇護と導きなしでは、人生の選択さえ誤ってしまう情けない男なのに。



 娘は片方の眉をわずかに吊り上げると、ほんの少し肩をすくめて青年に背を向け、獣の胸元にそっと小さな手をうずめた。黒い獣が物言いたげな表情でこちらを見つめているのを感じてはいたが、たった今耳にした、血を吐くような心の叫びは聴かなかったことにして、有無を言わせぬ響きを言葉に込めた。

「どうするかは、あなた自身が決めなさい」


 キリアンは深淵の森の闇にうごめくもの達を思って、ごくりと唾を呑み込んだ。

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