第1部:昏(くら)きに沈む

第1章:邂逅(かいこう)

逃亡者

 どれくらい走り続けたのだろう。

 気づけば、森の奥深くに迷い込んでいた。



 背後に追っ手の気配がないことを確かめると、キリアンはこらえ切れず、うめき声を上げて近くにあった木の根元に倒れ込んだ。

 大きな幹に背を預け、ぜえぜえ、と肩で大きく息をするたびに左腕が激しくうずく。震える右手を痛む箇所にそっと走らせると、ねっとりと生暖かい血の感触が手のひらに触れた。

「……ああ、これは……まずいな」

 唇を噛み締めながら、恐る恐る周囲に視線を走らせた。


 傷つき血を流した人の子が、たった一人で「くらき森」に入るなど狂気の沙汰だ。血の匂いを嗅ぎつけた野生の獣や妖獣どもの餌食えじきとなるのが目に見えている──恐らく、キリアンを追っていた兵士達も同じように考えたのだろう。森に駆け込む直前、馬鹿な真似は止せ、と声を上げて引き止めようとする者さえいた。

 警告の声に振り向きもせず、キリアンが森の中に逃げ込むと、それまで追跡の手を緩めようとしなかった兵士達がぴたりと馬を止めた。既に日も傾き、目の前に黒々と広がる国境の森はやがて完全なる暗闇に包まれ、人の子を拒む世界へと姿を変える。

 これ以上の深追いは危険だと察したのだろう。元来た道を引き返していく馬のひづめの音が少しずつ遠くなり、彼方に消え行くまで、キリアンはひたすら走り続けた。



 鬱蒼うっそうと生い茂る木々で月明かりさえもさえぎられ、森は深い闇に沈んでいく。

 木々の騒めきと獣達の息遣いに混じって、時折、どこからともなく得体の知れない不気味な音が響き渡る。森に棲む妖獣の声だろうか……薄明りさえ見出せない世界にたった一人取り残され、どうすることも出来ずに、キリアンは速まる鼓動を何とか押さえ込もうと精一杯の呼吸を繰り返した。

 まるで、焼きごてを押し当てられているかのような激しい痛みに顔を歪めながら、血に濡れて重く湿った外衣を脱ぎ、腰帯の短剣を引き抜いて細長く切り裂くと、どす黒い染みで覆われた左の肩口をきつく縛り付けた。二の腕の傷がどれほどの深さなのか考えたくもなかった。この痛みのおかげで、キリアンは何とか意識を保つことが出来ている。だが、そう長くは続かないだろう。

 森の湿った夜気は、血を失い弱り切った身体から容赦なく体温を奪い取っていく。つま先から這い上がる冷たさに、がちがちと歯を鳴らしながら、キリアンは己の浅はかさを今更ながらに呪った。


 まさか、昨日まで寝食を共にしていた仲間に斬り殺されそうになるとは……いや、そんな風に思う価値もない連中だと気づかず信じ切って、裏切られた。その挙げ句、王都軍の騎兵に追われる破目になるとは。

 凍えて思うように動かぬ身体が、ほんの一瞬だけ、込み上げる怒りで熱を帯びた気がした。

 それにしても……

「……あの化け物、彼女と同じ顔をしていた」



 辺りの闇が一層深くなるにつれ、あれだけ酷かった痛みさえ何処どこかに置き忘れてしまったかのように、少しずつ感覚が鮮明さを失っていく。不気味な森の騒めきも、肌を切るような冷たさも、もう何も感じない。


 ああ、僕は、こんなところで、ひとりぼっちで死ぬのか。

 このまま誰にも知られず、「果ての世界」に旅立った形跡さえも残さずに、僕の遺骸は森の獣達に喰い尽されるのか。

 姉上の言う通りだ。つくづく情けない男だな、僕は……

 

『心配なのよ。貴方あなたは情けないほど世間知らずで、お人好しだから』

 キリアンに惜しみない愛情を注いでくれた七つ年上の姉は、そう言って悲しそうに微笑んだ。

 

『約束よ、兄さま。ずっとそばに居て』

 ひたむきな愛情で、最期の瞬間までキリアンを求め続けてくれた最愛の妹を想って、本当にごめんよ、と心の中でつぶやいた。


 夜が明ければ、家長である兄に宛てて「ネスグレンタ家の子息キリアンは、天竜の教えに背き、王都の民と仲間の兵士を手に掛けて逃亡し、行方知れずとなった」としるされた書簡をたずさえて、神殿からの使者が故郷の砦に向かうだろう。

 倫理と道徳を何よりも重んじる兄上のことだ。僕の名は家系図から抹消され、「キリアン」と言う名の存在を思い出すことさえ禁じるに違いない。この世界からも、家族の記憶からも、僕は完全に姿を消す……

 分かっている。これは、己の我儘わがままを押し通すためだけに、愛する家族を、懐かしい故郷を、ネスグレンタに生まれた者としての責務さえ卑怯にも捨て去って、「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」に逃げ込んだ僕が受けるべき、当然のむくいなんだ。


『不条理なことは分かっている。ネスグレンタのため、堪えてくれ、キリアン』

 きっと、あの時と同じように、兄上はそう言いながら悲しそうに顔を歪めるんだ。

 ……ねえ、兄上。面と向かって伝えたことはなかったけれど、あなたが僕を心から愛してくれたことは、僕の何よりの誇りだったんだ。

 


 心に浮かんでは消える記憶の糸をゆっくりと手繰たぐりながら、キリアンは静かに目を閉じると、あらがいようのない眠りに落ちていった。

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