第2章:大陸を行く

捧げもの

 それは、びた鉄の匂いに似ている……


 そう思いながら、ゆらゆらと風に漂う黒い影の正体が男達の心をむしばむ悔恨の念だと気づいて、シルルースは少しだけ顔をしかめた。

 荷馬車の周りを囲むようにして騎乗する「血の匂い」と「黒い影」をまとった男達は大神殿が雇った傭兵なのだ、と誰かが教えてくれた。


「『大神殿の護衛兵』……ではなくて?」

 わらを敷いただけの粗末な荷台の上で揺られながら、不思議そうに首を傾げたシルルースの独り言を耳にして、向かい側に座ってつやめいた眼差しを屈強な男達に向けていた娘が、ぽってりと形の良い唇に薄笑いを浮かべた。

「馬鹿ねえ。神殿の結界から出ようとしない腰抜け共が、『大陸』を横断する危険な長旅に同行するわけないでしょう? 名もない民からの『捧げもの』を大神殿に送り届けるだけの旅なら、尚更なおさらよ」

 大神殿に忠誠を誓う護衛兵のほとんどが王侯貴族の子弟だと誰もが知るこの「大陸」で、彼等を「腰抜け」呼ばわりするとは……恐れを知らぬ娘の声に、同じ荷台の上で男達を物欲しげに見つめる娘に先程まで嫌悪の眼差しを向けていた少年が、ぶるりと肩を震わせた。その隣でひざを抱え込んでいた妹と思しき少女は、驚愕の声が漏れ出た口元を咄嗟に両手で覆った。


 狭い荷台の空気が困惑の色に染まっていくのを感じながらも、美しいものを好む精霊達が感嘆の吐息を漏らすほどの容姿を持つらしい娘の、見た目に似合わぬ明け透けな言葉に、シルルースは思わず口元をふわりとゆるませた。すかさず、娘が嬉しそうな笑い声を上げる。

「なんだ、あんた、ちゃんと笑えるんじゃない。ずっと陰気臭い顔で黙り込んだまま遠くばかり見つめているから、きっと心が壊れているんだろうって皆が噂しているわよ」

 ああ、なんだ、そんなこと。とっくに気づいていたけれど……心の声を押さえ込みながら、シルルースは困ったように少しだけ肩をすくめてみせた。

「私の目、何も見えていないの。だから、知らないうちに誰かをにらみつけでもして厄介なことになるより、ぼんやり遠くを眺めている方が身のためだと学んだの」


 生まれつき、光あふれる世界を映し出すことの叶わぬ少女の瞳を、故郷の人々は『異界との境界がおぼろげになる黄昏時たそがれどきの色』と気味悪がった。その瞳に見つめられることを恐れなかったのは、シルルース同様、幼い頃に「捧げもの」として神殿へ差し出され、生き延びるために心を凍てつかせた巫女姫ただ一人だった。


 娘は藁の上を滑るように移動すると、うつむいて黙り込んでしまった少女の目の前に腰掛けた。

「へえ、そうなんだ。けど、もったいないわね。そんなに綺麗なのに」

「……きれい?」

 そんな言葉は聞いたことがない、とでも言いたげに顔を上げて首を傾げるシルルースを見て、娘は驚き呆れたように眉を吊り上げた。

「ちょっと……嘘でしょう? 本当に誰にも言われたことないの? いやだ、あんたの周りに居た男達の目は節穴だったのね」

 神殿に仕える男達が時に見せた、ねっとりと身体中を這い回る視線を思い出して、シルルースは小さく身震いした。その様子に何かを察したかのように、娘の暖かく柔らかい手が震える手にそっと重ねられた。

「あんたの瞳ね、ちょっと赤味がかった薄紫色よ。変わった色だけど、とっても綺麗」

 私は好きよ、と羨ましそうにささやく声が、シルルースの心をほんのりと温める。

「ああ、でも、見えないのなら、色も分からないわよね。ええと、そうね……少しずつ明るくなっていく夜明けの空みたい。これなら分かる?」


 故郷の神殿で「巫女見習い」として巫女姫の世話をしていた頃、シルルースの朝は夜明け前の水汲みから始まった。

 薄暗がりの中、神殿の裏手に湧き出る泉と神殿の母屋を何度も行き来しながら、巫女姫の寝室に置かれた沐浴用の大きな水桶をいっぱいに満たし終える頃には、西の空が可憐なロザレスの花のように淡い色に染まる。すると、周りを漂っていた夜風の精霊達が、お別れの口づけ代わりに黒髪をふわりと撫でながら空の彼方へと去って行く。彼らの目を通して見た夜明けの空は、息を呑むほど澄み渡り、神々しいほどに美しかった。

 心に焼きついていたあの空と同じ色だと教えてくれた娘に向かってぎこちなく微笑んで、シルルースは小さくうなずいた。が、次の瞬間、彼女にまとわりつく黒い影に気づいて、わずかに眉根をひそめた。

「私の瞳なんて珍しくもない。その辺に転がってるシイの実みたいな薄茶色。『みんなと同じ』なんて、つまらないわよ」

 戒律というかせに縛られた神殿で長年暮らしていたシルルースにとって、娘の快活な物言いは驚くほど新鮮で、不思議なほど心地良かった。


「『幸せを運ぶ者ウィアテリーシェ』よ」

 言葉と裏腹に、娘の声がどこかしら哀しそうに響いた気がして、シルルースは首を傾げた。

「私の名前。長ったらしいからウィアでいいわ。あんたは?」

「……シルルース」

 暗闇を好む小さな黒い蜥蜴とかげを、故郷の村ではそう呼んでいた。それがいつしか、両親や弟妹達が自分を呼ぶ名となった。生まれた時に授けられたはずの名前など、とうの昔にシルルースの記憶から抜け落ちていた。

「へえ、変わった名前ね。あんたの国の言葉で、何か意味があるの?」

 その言葉に、曖昧な表情を浮かべて黙り込んでしまった娘を前に、ウィアは軽やかな笑い声を上げた。

「ま、良いわ。親が勝手につけた名前にどれほどの価値があるんだか……『幸せを運ぶ』はずの娘を年貢代わりに領主に差し出すような奴らに、聖なる天竜のお慈悲を」

 おどけた調子で笑ってみせる娘にまとわりつく黒い影が、ざわり、とうごめいた。束の間、シルルースはどこからか聴こえる悲しい声に導かれて、精霊の記憶が煌めく『銀色の回廊』へと心を翔ばした。



 全てが寝静まった真冬の夜。外には、一面に降り積もる雪。

 赤々と燃える暖炉の炎が、汗ばむほどに暖かい豪奢な部屋を照らし出す。

 乱れた寝台の上にぐったりと横たわる幼い娘の身体には、手酷く殴りつけられたようなあとがあちこちに残っていた。焦点の定まらない琥珀色の瞳を宙に彷徨さまよわせながら、幼子の心が『お願い……痛くしないで……お願いだから……もうめて……!』と悲鳴を上げている──



「……シルルース? ちょっと、ねえ、シルルースったら!」

 元の世界に引き戻される前に聴こえたのと同じ声が、心配そうに何度も自分の名を呼んでいる。その声に、シルルースは大きく息を呑んだ。

「ねえ、大丈夫? あんた、ぼんやりと宙を見つめたと思ったら、急に動かなくなるんだもの」


 あれは、確かにウィアだった。今よりもずっと幼い顔つきの、膨らみ始めたつぼみのように愛らしかった少女が無残に汚され続ける日々を、精霊達は無邪気な瞳で一つ残らず見つめていた。

 はじめて神殿に上がった夜、シルルースは精霊達に守られていた。でも、ウィアは、たった一人で……そう思うと、矢も盾もたまらず、目の前の娘にまとわりつく黒い影を追い払おうと手を伸ばした。びりり、と鋭い痛みが指先に走った途端、触らないで、と泣き叫ぶ声が聴こえたような気がした。

 美しい娘を包み込んでいるのは、あの恐ろしい夜が生み出した『心の結界』だ。絶望と恐怖と拒絶が入り混じった想いで無意識に編み上げたそれをまとうことで、心まで汚すまいとしたのだろう。男の情欲に身体はむしばまれても、魂は誰にも触れさせぬように。


「……ちょっと、こっちを向きなさいったら、シルルース! あんた、すごい汗よ」

 小さな妹を心配するあまり声を荒げてしまった姉のように、少し困った表情を浮かべながら、ウィアは黒髪の娘の額に浮かぶ汗を拭ってやった。

「ねえ、本当に大丈夫? 治癒師を呼んだ方が良いなら……」


 心配そうな娘の声が、形ばかりの言葉に慣れ切っていたシルルースの耳を優しくくすぐり、砂糖菓子のような甘さを残して溶けていく。それは、身体の奥底にまで染み込んで、呪詛で塗り固めておいたはずの心の壁をいとも簡単に崩してしまうほどで……


 驚きのあまり、ひゅうっ、と息を呑んで瞳を見開いた少女の背中を、ウィアの温かな手のひらがゆっくりと上下する。

「あの……ごめん……なさい。荷馬車での長旅なんて初めてだから、ちょっと酔ったみたい……でも、もう、大丈夫だから」

「そう? なら良いけど……ラスエルクラティアまでは、まだかなりの日数がかかるはずよ。気分が悪くなったら我慢なんかせず、声を出しなさい。良いわね?」

 そっと背中を離れて行く温もりを、もう少しだけ感じていたかった。人肌の温もりを未練がましく思うことなど、今までなかったはずなのに……見知らぬ娘との予期せぬ触れ合いは、シルルースにとって新鮮な驚きだった。


「『幸せを……運ぶ者ウィアテリーシェ』」

 舌を転がすような優しい響きを持つ名前をゆっくりと口にして、シルルースは恥ずかしそうに微笑んだ。

 娘が少しわずらわしそうに顔をしかめる。

「だから、『ウィア』でいいってば。その長ったらしい名前、大嫌いなのよ」

「……私は、好き」

 ほんのりと頬を染めてそう告げると、シルルースはこの不思議な出逢いを与えてくれた聖なる天竜ラスエルに、生まれて初めて心の底から感謝した。



***



 大陸の熾烈な覇権争いに端を発する「七王国時代」が終わりを告げようとしている。

 戦乱の世に疲れ果てた「大陸」の民が待ち望むのは、争いのないおだやかな世界だ。そこに、血と罪の意識にまみれた戦士の居場所など、あるのだろうか……


 ゆったりとした荷馬車の動きに合わせて歩き続けることに飽き飽きした様子の愛馬の首元を優しく掻いてやりながら、レイスヴァーンは荒れ果てた田畑の片隅にぽつんとたたずむ朽ちかけた民家に視線を向けた。街道沿いの村でさえ戦火の傷跡が癒えぬというのに、広大な「大陸」に完全なる和平をもたらすなど、数多あまたの戦場を渡り歩き、数多の命を奪うことで生き延びてきたレイスヴァーンには夢のまた夢にしか思えなかった。


「さっさと傭兵家業なんぞから足を洗って、気立ての良い女をめとって身を固めるに限る」

 すぐ後ろで馬を進めていた左頬に傷跡のある傭兵が、いつもの口癖をいつものように軽い口調でつぶやくのを耳にして、レイスヴァーンはいつものことだと呆れながら薄笑いを浮かべて後ろを振り返った。

「そう簡単に全てが上手くいくとは思えんのだが」

 共に戦場を駆け抜けてきた青年の言葉に顔を大きくしかめた傭兵が、レイスヴァーンのすぐ隣に馬を並べた。

「聞き捨てならんぞ、レイス。確かに俺は、女好きのするお前と違って容姿も身分も大したもんじゃないが……」

「ギイ、お前のことじゃない。休戦協定を結んだ奴らのことを考えていたんだ」


 ああ、なんだ、と少し肩をすくめると、ギイは軽く身体を反らして手綱を引きつつ馬を下がらせた。この辺りの街道はかなり広めに作られているとはいえ、年端も行かぬ子供達を乗せた荷馬車の隣に馬二頭を横並びにつけるのは危険だと察したらしい。レイスヴァーンは背後を振り返りながら言葉を続けた。

「アルコヴァルとティシュトリアが手を組んだところで、スェヴェリスを攻め落とすのは容易じゃない。妖魔や妖獣を自在に操る妖術師の王国を相手にするとなれば、大陸中の術師や妖獣狩人を掻き集めて味方につけんことには始まらんだろう?」

「なるほど。ティシュトリアといえば、スェヴェリスへの見せしめとして戦場で捕らえた術師達を残らず惨殺することで有名だからなあ……とは言え、『七王国』の中でも特に兵力と財力に富む東と西の大国が手を組んだんだ。おこぼれにあずかろうとするやからも少なからず居ると思うんだがなあ」

 常に物事を前向きに考えるのは、年上の戦友の良い所でもあり、悪い癖でもある……そう思いながら、レイスヴァーンは周りの景色に視線を戻すと、小さくため息を吐いて首を振った。

「なんにせよ、いくさの世を終わらせるのも、また戦だ。しばらくは落ち着いた暮らしなど望めないさ……なあ、ギイ。この大陸から戦士や傭兵が姿を消すなんてことは、俺には想像がつかないんだ」


 肩越しに絞り出した声が存外に物悲しく響いたことに気づいて、端正な顔をわずかに歪めた年下の戦友に、ギイがいつになく真剣な眼差しを向けた。

「レイスよ、お前だって子供の一人や二人いてもおかしくない歳だ。そろそろ、何処かに根を下ろしたいとは思わんか? この仕事が終わって、上手い具合に俺達二人とも王都軍の衛兵に取り立てられたら……その時は、お前には俺が適当な女を見繕ってやるよ」

 普段は軽口ばかり叩いている男の、やけに神妙な言葉を耳にして、レイスヴァーンは困惑と驚愕の入り混じったような何とも言えぬ表情を浮かべて友を振り返った。

「……そうは言っても、貴族のお前に見合うような女が居ればの話だがな」

 おどけたような表情で、ひょいっと肩をすくめて笑う。こういう時のギイは、まるで兄のような、父親のような優しい眼差しを注いでくれる。だから、いつまで経ってもこの男のそばを離れられないんだろうな……レイスヴァーンは口元を吊り上げて、にやりと不敵な笑みを浮かべた。

「エルランシングを名乗ってはいるが、貴族の血は半分しか流れていない妾腹めかけばらだ。継承する土地はおろか、財産のひとつもない……そんな俺でも構わないと言ってくれる女が居れば、の話だな」



 戦場では冷酷非情の「血染めのエルランシング」として恐れられる戦士でありながら、街を行けば頬を染めた娘達の視線を独り占めするほどの容姿に恵まれた貴族の庶子。そのくせ、女にはとんと興味を示さず、一夜の相手は男に見返りとして愛情を求めることなどせぬ商売女だけ。まだ年若いと言うのに人生を謳歌しようなどという素振りもなく、己の命にさえ執着がない。世捨て人のように、流されるまま大陸を彷徨さまよい歩く……なんとも勿体ない話だ。母が側女そばめだったとは言え、アルコヴァルの「南の砦」エルランシングの貴族の血を引くとなれば、傭兵などにならずとも他にいくらでも生き方はあっただろうに……


「まあ、この道にお前を引きずり込んじまった俺が言えた義理じゃあないが」

 先を行くレイスヴァーンの後ろ姿を眺めながら、ギイは困ったもんだと目を細めた。

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