第二十三話 石の記憶

 胸に鋭い冷たさと、次いで痛みを伴う熱さを覚えた。


(あぁ――刺されたのか)


 そう、不思議と他人事のような納得する。


 だからこそ、不意に頭の中で再生し始めたそれを、よく聞く走馬灯というものだと思って疑わなかったのだが。


 だがそれは、走馬灯にしてはどこか遠い出来事で。しかし遠い出来事にしては――懐かしく、苦しかった。




※※※




 その日も、特にいつもと変わりがあったわけではなく。城を抜け出した私は、一人で川原を散策していた。

 大した目的があったわけではなかった。ただ、本来自分がいなければならない場所は、いつからか息苦しさを覚えるようになっていた。


 向けられる多大な期待も、羨望も、敬意も――もしなにかの拍子に裏切ってしまったなら、それだけ失望も大きなものとなるのだろうと。そう考えると、恐ろしくて仕方がなかった。


 そんなときだった。彼女を見つけたのは。


 まだ水の冷たい季節であるにも関わらず、腰まで川に浸かった彼女は、酷く鋭い眼差しをしていた。


 思えば――最初は、その目に惹かれたのだろう。


 気がつけば、私は彼女に声をかけていた。

「なにをしているの」とか、そんな間の抜けた質問だったかと思う。

 だが結果的に――それが、彼女と後の君の命を救ったのだから、間抜けもたまには役に立つものだ。

 彼女は僕を見るなり、顔をくしゃりとさせ、剣呑な目からは涙を流した。そして言った。


「貴方みたいな綺麗な化け物に食べられるなら。冷たい川より、そっちの方が幸せかも」


と。


 とにかく、彼女を川から引き上げると、そのまま彼女の家まで送った。彼女は少し興奮していて、「どうして助けたの」、「貴方、魔物でしょ? 食べてくれるんじゃないの?」と、口早に問いかけてきた。


 家につき、服を着替えて温かいものを飲む頃には、彼女は落ち着きを取り戻していた。


 彼女は身重だった。もっと親しくなってから聞いた話ではあったが、良い家柄に生まれた彼女は、釣り合わない男と恋に落ち――そして彼女が身ごもったことを知った途端、尻込みした男に逃げられてしまったらしい。特に頭の固い父親は激怒し、堕胎するよう迫ってきたが、それを逃れるために単身、家を飛び出したのだとか。


「でも、お腹が大きくなるほどにね。不安の方が強くなっちゃって。村ではなかなか打ち解けられないし、なんだか、うまくやっていける自信がなくなって……。魔が差した、ってやつかな」


 「そのに助けられちゃったけど」と、彼女は笑った。

 彼女は、魔物の私を怖れなかった。それどころか歓迎し、食事まで振る舞った。


「私のことが、怖くない?」


 そう訊ねると、彼女は薄く笑った。


「独りぼっちの方が、ずっと怖い」




 私は、彼女に名前も身分も明かさなかった。彼女も特に訊かず、また自分の名前も言わなかった。「貴方」、「君」と、私たちは互いに呼び合い、それ以上は特に必要と感じなかった。


 私は時折、彼女を訪ねるようになった。幸い、彼女の家は村の外れであるため、滅多に人目にはつかなかった。


 特になにをするわけでもなかった。強いて言えば、段々と腹が大きくなる彼女の、ちょっとした身の回りの手伝いだとか、一緒に食事をしながらとりとめのないことを語らうだとか、その程度だ。


 その程度が、何故だかとてつもない幸せだった。




 彼女は弱い女性だった。あの日、川の中で見た剣呑な目は、危うさを薄皮ぎりぎりで包み込んだものだった。独りを怖がり、私が帰るときには拗ねたりしてもみせた。


 同時に、とても強くもあった。ほとんどの時間を、村外れで孤独に過ごしながら、腹の中に話しかけ、子守唄を歌い、そして作業になりがちな独りでの食事を、厭わずしっかり摂っていた。

 あんなにも弱いはずなのに、それを圧し殺して日常を送ることができる強さは、敬意を表するに値した。




 腹が大きい彼女は、よく煮込み料理を作った。日もちがするため、一度多目に作れば楽なのだと、そんなことを言っていた。

 彼女の作る、たっぷりの野菜と、腸詰めの肉が入ったポトフが、私は気に入っていた。


「私にとって、君とこの家は、腸詰めみたいなものかな」


 ポトフを食べながら私がそう言うと、彼女は怪訝な顔をした。


「それって褒めてるの?」


 もちろん、と私は大いに頷いた。


「君といない日は、腸詰めの入っていないポトフみたいに、味気なくて仕方ないからね」


 私はいつの間にか、城での生活よりも彼女と過ごす時間に、重きを置くようになっていた。




 季節が巡り、彼女は臨月を迎えた。

 私は、偶然にも出産という奇蹟に居合わせることができた。彼女に頼まれ、人間に変装をして産婆を迎えに行きながら――ふと、ぞっとした。

 もし、自分がたまたま居合わせなかったら、彼女は産婆を呼ぶこともできず、独り出産に臨まなければならなかったのだろうかと。

 産婆は私を訝しげに見たが、彼女が産気づいた旨を告げると、急いで支度をしてくれた。


 彼女の家に戻ると、産婆に指示されながら部屋を暖め、布を準備し、清潔な水を汲みと、目が回るようだった。

 物の準備が終わると、男は出ていくようにと指示を受けた。それを止めたのは、彼女だった。


「怖いから……手を、握っていて」


 波のように何度も襲ってくる痛みに、彼女の顔は既に蒼白だった。

 私は言われるがままに、彼女の手を握り、汗を拭き、水を飲ませた。だが、徐々に大きくなる悲鳴を聞いていると、その場から逃げ出したくなるのも事実だった。彼女のどこに、そんな力があったのだろうという程の力強さで、手を握られる。それをなんとか握り返しながら、自分の無力さを思わずにはいられなかった。


 夕方から始まった戦いは、夜中になっても終わらず、終わりが見えてきたのは、新しい日が昇り始めた頃だった。

 彼女はすっかり疲れ果て、痛みと痛みの間の極短い間隔の中で微睡みながら、悲鳴を上げることを繰り返していた。


「そろそろじゃな」


 産婆が、産道を確認しながら頷く。

 彼女が上げる、悲鳴の音が変わった。声に力強さが増し、私の手を握る強さも増した。

 頭が出てきたと、産婆が言う。それを幾度も繰り返し――赤ん坊がとうとう、ずるりとこの世に引き出された。


 真っ赤に濡れた小さな身体は、だが産声を上げなかった。産婆が刺激を与えても泣かず、その場の空気に焦りが生まれてきた。握る彼女の手が震え、力が抜けるのを感じ、私は酷く焦った。


 私はそのとき――自分が正気だったのか、自信がない。彼女の手をその日、初めて振りほどき、産婆から赤ん坊をもぎ取るようにして抱いた。


 とても小さな身体だ。とても弱々しい身体だ。だが、必死の思いで、生まれてきた命だ。


 気がつけば、私はその小さな身体を抱き締め――そして、魔王としての力を、その身体に注いだ。


 それは、赦されないことだろう。魔王の力は、世界の理だ。それを、人間の赤ん坊に一部でも与えるだなんて。


 だが――それ以上に、これだけの苦しみと、願いと、祈りとを込めて生まれてきた命が。始まる前に終わってしまうことを、私はそれ以上に赦せなかった。


「君を……愛している」


 小さな身体に、そう呼びかける。彼女の中で育ち行くのを、ずっと見守ってきたのだ。この奇蹟に立ち会えたのだ。この小さな命愛する理由なんて、それだけで充分だった。


「だから大丈夫。私が、君を守ってみせる」


 だから、と。私は精一杯の祈りをぶつけた。


「だから……生きてッ」


 ――産声が上がった、その瞬間。


 世界が幸福に満ちていることに、私は気がついた。

 私がずっと苦しかったことも、彼女が川で命を投げ出そうとする程に追い詰められていたことも。今、このとき全て報われたのだと、そう思った。


 彼女は泣いて、言葉もなかった。産婆は奇蹟だと呟いた。赤ん坊は――赤ん坊だった君は、大声を上げて元気に泣いていた。


 私は彼女に君を抱かせ、その長い髪を撫でた。


「おつかれさま」


 すると彼女は、泣き顔をはにかませて、「ありがとう」と囁いた。きっと、私が赤ん坊になにかをしたと、察したのだろう。私は黙って、彼女の頬に口づけた。


「貴方は……この子の、お父さんね」


 そう涙ぐむ彼女に、私は頷いてみせた。


「私も、そうありたいって願うよ」




 その日から、私は城へは戻らず、彼女と君から離れなかった。まだ横になっている彼女の代わりに、君を行水させたり、外の景色を共に眺めたりした。君の温かな体温が、愛しくて仕方がなかった。小さな背中に耳をあて、慌ただしくトクントクンとなる心音を聞けるのが、ただただ嬉しかった。


 でも、分かっていた。その幸せに、終わりが来ることも。だからこそ、私は君との短い日々を精一杯に楽しんだ。「まだ、あまり振り回さないでよ」と、彼女に呆れられる程に。


 城からの遣いがやってきたのは、君が私の顔を、じっと見つめるようになった頃だった。おそらく、なにかを察した〈調停者〉が、城に働きかけたのだろう。


 私は一度、城へ戻ることにした。あれ程までに恐れていた、魔物たちが向けてくる不審な目も、もう不思議と怖くなかった。


 弟にだけは、事実を話した。案の定、なじられ、責められた。赦されないことだと断罪された。

 だが、それらの言葉が、私の胸に刺さることはなかった。私は、私がすべきことをしただけだと、自信をもっていた。君と彼女が幸せであること以外、望むことなどなにもなかった。


 ただ、こうなればもう、長くは君たちと共にいられないことが哀しかった。だがそれも、君の父として、君を守れたからこそだと思えば、後悔なんてなかった。




 君たちに害が及ぶ前に、私は君たちの前から姿を消さねばならない。魔王としての、けじめもつけなければならない。


 だからせめて、この記憶を君に伝えるために。私は弟に、全てを託すことにする。心優しい彼のことだ。裏切り者の私を今は怒っていても、いつかは赦してくれることだろう。


 特に、魔王の座を譲ることを、もしかしたら彼は、誤解し、傷つくかもしれない。だが、君に魔王の力の一部がある限り、次の魔王は信用に足る相手でなければ困る。



 あぁ、この記憶を見る頃、君はどんな男になっているだろうか。広い世界を、心行くまで味わっているだろうか。


 彼女は、君がいればもう独りぼっちで泣くこともないだろう。そう、惜しむことがあるなら――彼女の名前を、私は知らないまま、いかなければならないことだ。


 でも、彼女は私の名前を知っている。ただ、それとは知らないだろうけれど。今も幸せそうに、その名を呼んでいるに違いない。


 リュース――君に名前を贈ることができたのを、私は光栄に思うよ。




※※※




「――リュースさんっ!」


 名前を呼ばれて、リュースはゆっくりと目を開いた。アレフィオスとエリシアが、心配そうに顔を覗き込んでいた。


 一瞬、頭の中が混乱しかける。落ち着いて周りを見ると、ここが魔王の玉座の間で、自分が倒れていることに気がついた。床に散らばったガラスの破片が、背中にちくちくと当たって痛い。


「……っ」


 起き上がろうとすると、胸にずきりと痛みが走った。手をやると、ぬめりとした血と――粉々になった石の首飾りの残骸とに触れた。


「傷が浅くて、本当に良かった」


 泣きそうな顔で、アレフィオスが言う。


 そうか――と思う。

 どうやら自分は、また父親というものに助けられたのかと、ぼんやりと察した。


 首を回して周囲を確認すると、状況が少し変わっていた。


 気を失っている〈剣聖〉は、いつの間に来たのか、ドクターとシオンが介抱していた(エネトがシオンに背負われているのは、もはやどうでも良かった)。


 自分の身体を取り戻した警護長は、アレフィオスの側に立っている。そして、彼を操っていた〈調停者〉の元には、アーティエがいた。


「あぁ、起きたのかい」


 こちらに気がついたアーティエが、にこりと笑いかけてくる。その身体は、文字通り片割れの上に乗り、暴れる彼女を抑え込んでいた。


「連れが、やり過ぎたようだ」

「なにがやり過ぎよ。アタシは、仕事をしようとしただけじゃない」


 噛みつくように唸る片割れに、アーティエは首を振ってみせた。


「気絶している人間まで操って、直接誰かを殺そうとしたら、そんなのは流石にこっちのルール違反だ」

「ルール違反を先にしたのは、アッチでしょ? そのために来たのに――」

「そのために僕らがルール違反をしたんじゃ、本末転倒だろ?」


 片割れはますます不満げな顔をして、リュースを睨んだ。リュースが黙って見返していると、やがて「ふん」と顔を背け、力を抜いた。


「魔王殿」

「は……はい」


 びくりと震えながら、アレフィオスが頷く。そう言えば、アレフィオスはずっと、アーティエに対しどこか怯えていたなと、ふと思い出す。


「僕らは、今回は退かせてもらうよ。君の言った通り――取り敢えずは、支障がなさそうだからね。でも、支障が起きたならば、そのときはまた……来るけどね」


 最後はリュースに向けて、アーティエが笑いかけた。それに、「へっ」と小さく笑い返す。反動で胸が痛み、小さく呻くとエリシアが慌てて傷口を布で押さえた。


「どうせ……俺があと数十年後にぽっくり逝けば、俺の力はこいつに戻るんだろ?」

「君の寿命に関しては確証がなかったから、今回動いたのだけれど――まぁ、たぶんきっと、そうだろうね」


 頷いたアーティエの視線は、リュースの胸元に向けられていた。こいつ、とリュースは呆れて笑った。傷が引きつって痛みを覚えるが、笑わずにはいられなかった。本当に、抜け目がない。


「ちょっと、なに急に笑ってんのよ」


 エリシアが口を尖らせ注意してくるのに、リュースは片手を挙げて従った。


「それから――ソーディア王国の第一王子殿」

「うん?」


 急に話を振られ、エネトはシオンの背で首を傾げた。シオンの目が、警戒に光る。


「君らの疑問に答えてあげようと思ってね。――魔王は残念ながら、不死じゃない。もし……不死についてそれでもまだ興味があるなら、僕ら〈調停者〉について調べることだね」


 自分の腕を示しながら言うアーティエに、エネトは見るからに嫌そうな顔をした。


「別に、父上を化け物にしたいわけではないからな。遠慮しておく」


 明け透けな言いように、アーティエはくすくすと笑った。


「それじゃ――皆、さよならだ。一先ずね」


 言うなり。

 パッと。〈調停者〉らの姿は消えた。まるで、はじめからそこになど、いなかったかのように。


「……ったく」


 リュースはまた小さく笑った。胸の痛みも、かえって心地よかった。

 割れた天窓の先では、まるで笑い顔のような三日月が、暗くなった空にくっきりと白く輝いていた。

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